第4話 善意の形
白いノートは、使えば使うほど、軽くならなかった。
慣れるどころか、少しずつ、重くなる。
その感覚が、透には気になっていた。
朝。仕事に向かう前に机の前に座る。
ノートを開くかどうか迷う様にページを捲る。
真っ白な空白のページをじっと見つめる。
書くべきか、書かざるべきか。
少し迷ってから、震える手でペンを取った。
『今日は、誰も嫌な思いをしない』
前よりも、踏み込んだ言葉。迷う気持ちが字にも表れ滲んでいる。
書いた瞬間、紙がわずかに軋んだ。
気のせいだと、自分に言い聞かせる。
会社では、妙に空気が冷たく静かだった。
打ち合わせは示し合う様に機械的に進んだ。
上司の声も穏やか。
誰も、誰かを責めない。
透は、少し安心していた。
会議の途中、自分の資料ミスに気づく。
いつもなら、厳しく指摘される。
今日は、誰も何も言わない。
透が謝ると、上司はすぐに何事もなく頷いた。
「いいよ。次回から気をつければいい」
それで終わり。上司の指摘は最後まで無かった。
空気は、最後まで波立たなかった。
――成功だ。
そう思ったのは、
会議室を出た直後だった。
同僚が、緊張を出すように小さく息を吐いた。
「今日は助かりました。」
「……何が?」
「本当は、もっと揉める予定だったんだ」
その一言で、胸の奥がスッと冷えた。
嫌な思いは、消えたわけじゃない。
ただ、皆が無関心になったかの様に感じる。
帰り道、透はノートを鞄の中で静かに握りしめていた。
夜。薄暗い部屋に戻ると、
妖精が窓辺に佇んでいた。
「今日1日は上手くいったね」
軽快そうな調子で軽く笑った。
「……上手くなのか?」
「君の書いた通りだよ。誰も嫌な思いはしなかった」
透は、ノートを慎重に開く。
白紙。相変わらずノートのページは何も映さない。
「でも、何かが残った」
「うん...」
妖精は、あっさり頷いた。
「それが普通...」
「普通なのか...」
「感情って、消すと歪む」
透は、言葉を失う。
「善意ってさ」
妖精は、少しだけ真面目な顔になる。
「形を決めた瞬間、誰かの声を削ることがある」
その言葉は、鋭かった。
「……じゃあ、どうすればよかった」
「知らない...それを決めるのは自分自身だよ」
即答だった。底に込められた想いを感じる。
「それを考えるのが、君の仕事」
透は、ノートを静かに閉じた。
便利だった。
安心できた。
でも――
これは、選択を減らす道具だ。
そう、はっきり分かってしまった。
誰も傷つかなかった一日。
誰も本音を出せなかった一日。
どちらが正しいのか、まだ分からない。
白いノートは、何も教えてくれない。
ただ、使った人間の考えの浅さだけを、静かに映す。
透は、机の奥にノートをしまった。
その行為が、逃げなのか、成長なのか。
まだ、判断はつかない。
妖精は、その背中を見て、小さく笑った。
「……やっと、人間らしくなってきた」
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