第2話 書いた言葉の、そのあとで

 白いノートは、

 朝になっても、白いままだった。


 昨日の出来事が夢じゃなかったことは、

 部屋の隅に残った、

 かすかな違和感で分かる。


 妖精。

 白紙のノート。


 穏やかだった一日。


「……考えすぎか」


 そう思おうとして、

 思いきれない。


 歯を磨きながら、

 僕はノートのことを考えていた。


 もし、偶然じゃなかったら?


 もし、あれが本当に“書いた言葉”の結果だったら?


 出勤前、机の前に座る。

 ノートを開く手が震える。


 相変わらず、何も書かれていない。

 昨日の一文も、残っていない。


「消えるのか……」


 理由は分からない。


 けれど、

 少しだけ安心した。


 書いた言葉が残らないなら、

 間違えても、やり直せる気がしたから。


 ペンを持つ。

 昨日より、少しだけ気持ちを意識して。


『今日は、悪くない一日になる』


 具体的じゃない。

 願いとも言い切れない。


 ただの、独り言だ。


 書き終えても、

 何も起きない。


 やっぱり、気のせいだったのかもしれない。


 通勤電車は、少し混んでいた。

 でも、押し潰されるほどじゃない。


 いつもなら、

 ここで誰かが咳き込んだり、

 スマホを落としたりする。


 今日は、何もなかった。

 会社に着くと、

 面倒なメールが一件だけ来ていた。


 「一件だけ」で済んだことに、

 なぜかほっとする。


 昼休み、

 コンビニの棚には、

 欲しかった新作の菓子パンが残っていた。


 特別美味しいわけじゃない。


 でも、

 “取られなかった”という事実が、

 妙に嬉しい。


「……悪くない」


 心の中で、そう呟く。


 それは、

 ノートに書いた言葉と、

 まったく同じだった。


 帰宅して、

 僕はノートを開いた。


 白紙。

 何も書かれていない。

 何も、証拠はない。


「本当に、偶然か?」


 声に出してみる。


「偶然だよ」


 どこからともなく、

 聞き覚えのある声。


 妖精は、

 天井近くをふわふわと漂っていた。


「……いつからいた」


「ふふふ... いつからいたと思う?」


 楽しげな口調で答える。


「じゃあ、さっきの一日は?」


「さあ?」


 妖精は、

 わざとらしく首を傾げる。


「でもさ、君は“悪くない一日”をちゃんと見てた」


 胸の奥が、少しざわつく。


「前は、こういう、日常の気づきが見えていなかった」


 確かにそうだ。


 普段なら、

 混んだ電車や仕事のメールに目が行って、

 菓子パンのことなんて、翌日には忘れている。


「ノートが、何か影響したのか?」


「何も...」


 妖精は、即座に否定した。


「ノートは、何もしない」


「じゃあ――」


「君が、見る場所(視点)を変えただけ」


 妖精は、ノートの白紙を指差す。


「書いたでしょ。“悪くない一日”って」


「……書いた。けど...」


「だったら、悪くない部分を探すに決まってる」


 それは、

 拍子抜けするほど単純な理屈だった。


「じゃあ、ノートは関係ないのか」


「さあね...」


 妖精は曖昧な表情で微笑む。


「人間は、きっかけがないと大事なモノが見えないから」


 僕は、ノートを閉じた。


 使い方が分かった気がした。


 少なくとも、

 危険なものではない。


 そう思った。


「思い込みが現実を変えるのか...」


 ぽつりと漏れた言葉に、妖精は、少しだけ目を細めた。


「……その言い方、嫌いじゃない」


 その意味は、まだ分からない。


 ただ、白いノートは、

 今日も白いままだ。


 何も書かれていないのに、

 一日は、昨日より少しだけ、

 形を持っていた。


 僕はまだ知らない。


 この“悪くない”が、

 どこまで続くのかを。

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