白紙のノートに書いた言葉は、未来を変えないらしい
@H2001
第1話 白いノート
白いノートを手にしてから、
僕は「普通の一日」が、少しだけ怖くなった。
怖いと言っても、幽霊とか怪物の話じゃない。
朝起きて、顔を洗って、仕事に行って、帰ってくる。
そんな、どこにでもある日常が――
何かに見られている気がする。
理由は分かっている。
机の上に置かれた、一冊のノートだ。
表紙も、裏表紙も、真っ白。
題名も、名前も書かれていない。
白紙のキャンバスみたいだ、と最初は思った。
だけど、
キャンバスなら、描かれるのを待っている。
このノートは、違った。
――見ている。
そんな感覚が、拭えない。
僕の名前は白石透。
二十代後半、独身。
取り立てて優秀でも、特別不幸でもない。
探究心だけは人より少しあるけれど、
それで何かを成し遂げたわけでもない。
つまり、
どこにでもいる普通の人間だ。
白いノートを見つけたのは、
会社帰りのことだった。
雨が降りそうで降らない、
中途半端な曇り空の日。
帰り道にある、大学時代、
考え事をしたいときに寄っていた場所。
今はもう、
誰も使っていない小屋。
正確には、
使われなくなった“作業小屋“だ。
何年も前からあるのに、
誰が管理しているのか分からない。
その日は、なぜか扉が開いていた。
「……」
入るつもりはなかった。
本当だ。
ただ、中が暗いのに、
妙に落ち着いた空気がして――
気づいたら、足を踏み入れていた。
小屋の中は、がらんとしていた。
埃の匂い。
軋む床。
そして、机の上に置かれていたのが、
白いノートだった。
新品に見えるのに、
冷たくない。
人の体温が残っているような、不思議な感触。
ページをめくる。
一枚目。
白紙。
二枚目。
白紙。
最後まで、何も書かれていない。
「忘れ物……?」
そう思ったけれど、
なぜか置いていく気にはなれなかった。
持ち帰ったのが、
間違いの始まりだったのかもしれない。
その夜、
僕は何気なくノートを開いた。
理由はない。
ただ、目に入ったから。
ペンを持って、
無意識に、こう書いた。
『今日は、少し穏やかだった』
それだけ。
予言でも、願いでもない。
日記にもならない、一文。
次の瞬間、
何かが起きたわけじゃない。
部屋が揺れたわけでも、
光が溢れたわけでもない。
「……気のせいか」
自分で書いておいて、
少し恥ずかしくなった。
次の日。
確かに、穏やかだった。
通勤電車は遅れなかった。
仕事で大きなトラブルもなかった。
昼休みのコンビニで、
最後の一つだったパンが残っていた。
それだけだ。
それだけなのに――
全部が、ちゃんと記憶に残っている。
夜、帰宅して、
僕はノートを見た。
白紙のまま。
何も変わっていない。
なのに、
胸の奥が、少しざわつく。
「……」
そのときだった。
「それ、面白い?」
背後から、
軽い声がした。
振り返ると、
小さな人影が、宙に浮かんでいる。
羽があって、
不釣り合いなくらい生意気そうな顔。
「……妖精?」
「そう呼ぶ人間が多いね」
夢だと思った。
疲れているんだ、と。
でも、妖精は笑った。
「夢なら、君は今、起きてるよ」
言い返す言葉が見つからなかった。
妖精は、ノートをちらりと見る。
「それ、白紙が一番厄介なんだよ」
「……どういう意味だ」
「書けるってことは、考えなきゃいけないってことだから」
意味が分からない。
妖精は、小さく肩をすくめた。
「まあ、いいや。今日は挨拶だけ」
「挨拶?」
「うん。君、ちゃんと迷えそうだから」
そう言って、
妖精は消えた。
部屋には、静けさだけが残る。
机の上には、
白いノート。
何も書かれていないのに、
確かに、何かが始まっている。
僕はまだ知らない。
このノートが、
未来を変えないことを。
ただ、
日常の見え方を、
少しだけ歪めるだけだということを。
白紙のままのノートを閉じて、
僕は、いつもより長く、考えていた。
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