「典型SF」を集める ―― 本棚、企画ご参加へのお礼
- ★★★ Excellent!!!
私はもともと、意識こそが魂であり、記憶こそが生きていること、存在していることの証なのだと考えていました。
しかし改めて『ホミキディウム・フィロソフィア』を読み返してみると、この物語が描いているのは、そうした単純な対応関係では到底捉えきれない、より残酷な現実だと感じました。
この悲劇の源は、意識移植という技術や父殺しという事件そのものではありません。
母親の死をきっかけに、この家族が最初から「きちんと悲しむ」可能性を失ってしまった点にこそ、本当の起点があります。
父親は泣かないことを選び、娘を支える機能的な存在となることで、自身の哀悼から目を背けました。
その結果、悲しみは処理されることなく圧縮され、やがて意識移植という極端な逃避へと向かいます。
それは生命の継続ではなく、主体であることの放棄だったように思えます。
重要なのは、父親の意識が完全に失われていたわけではない点です。
彼は思考し、苦悩し、自らを「哲学的ゾンビ」と定義できるだけの自己認識を保っていました。
つまり本作で起きたのは、父親が娘の手を通して自らの肉体を消去した、一種の自己消失だったのです。
そして最も残酷なのは、その結果として哲学的ゾンビとなったのが父親ではなく、娘の方だったという点でしょう。
彼女は生き残りましたが、もはや自分自身を「自然に生きている人間」として位置づけることができません。
その意味で、彼女もまた哲学的ゾンビとなってしまったのです。
だからこそ本作が不穏なのは、「意識とは何か」という哲学的問い以上に、悲しみから逃げた人間が、最も残酷な選択を最も近しい存在に委ねてしまう構造を描いている点にあります。
結論として、私は法の側に立ちます。
哲学や動機がいかに語られようとも、命を奪う行為は容易に正当化されるべきではなく、相応の代価を伴うべきだからです。
本作が最終的に私に突きつけたのは、より根源的な問いでした。
私たちは本当に、悲しみと正面から向き合うことを学んでいるのだろうか。
悲しみから逃げたとき、それは必ず誰かに引き渡される――その冷酷さを、この物語は静かに描いていたように思います。