典型SFへと至る扉の前に立つ作品だと感じました。


本作は、水深三千メートルという極限環境を舞台にしながら、
技術的な優劣や文明の競争を描く作品ではありません。

むしろ中心にあるのは、
物理的にも生理的にも隔絶された存在同士が、
それでもなお「言葉」や「贈り物」を通じて関係を結び続ける、
静かで誠実なコミュニケーションの物語だと感じました。

遺伝子改変や海底ドーム、アンドロイドといったSF的要素は、
設定として過剰に主張されることなく、
あくまで情感を支える背景として機能しています。
特にレトラという存在は、未来を生きられない「見届ける者」として、
物語全体に深い余韻を残していました。

一方で、本作は意図的に対立や葛藤、倫理的な問いを前面には出しません。
そのため「典型SF」としての思考実験性や問題提起を期待すると、
やや穏やかすぎると感じる読者もいるかもしれません。

こうした点からも、本作は典型SFの核心へ踏み込もうとする作品ではなく、
むしろ、
海面と深海のあいだを行き来する主人公、
未来へ進むことはできないが理解と記録を担うアンドロイド、
そして物語の外側でそれを見届ける読者――
それぞれが「境界」に立つ存在として配置されているように感じました。

誰一人として水深三千メートルの世界に完全に到達することはできない。
本作における水深三千メートルの世界は、
誰かの視点として直接描かれる場所ではなく、
言葉と想像を通してのみ共有される「不在の世界」として
静かに立ち上がってくるように感じました。

それでも想像し、言葉を交わし、贈り物を通して繋がろうとする。
本作は、その届かない距離そのものを否定せず、
理解し、想像し、祝福するという静かな姿勢を、読者にも共有させる物語だと思います。

しかし、だからこそ本作は、
SFという語彙を借りた「書簡体の詩」として、
距離・別離・継承といった普遍的なテーマを、
とても美しく描き切っている作品だと思います。

静かな余韻を味わいたい読者に、そっと手渡したい一篇でした。