第3話メイドの掃除は、命がけ(の可愛さ)

​「大智様ーっ! 大変です! お風呂場に、得体の知れない怪獣が現れました!」


 ​放課後、リビングで宿題を広げていた俺の耳に、美雨の悲鳴が飛び込んできた。

 

 怪獣? この住宅街に?


​「どうせまた、大きな蜘蛛でも出たんだろ。今行くから……」

「違いますっ! もっと強敵です! 泡の反乱ですーっ!」

 嫌な予感がした。

 俺が脱衣所のドアを勢いよく開けると、そこは――一面の「白」だった。

「……なんだこれ」

「えへへ、洗剤の量をちょっと間違えちゃいました。大智様にピカピカのお風呂に入ってほしくて、美雨の愛を注ぎすぎた結果です!」

 浴室の床が見えないほどの泡、泡、泡。

 その中心で、美雨は袖を捲り上げ、膝丈までスカートを捲くった姿で立っていた。……いや、正確には「立とうとして」いた。

「あ、大智様、危ないですから入ってきちゃ――わわっ!?」

 美雨が俺を止めようと一歩踏み出した瞬間、


 ワックスのかかった床以上の滑らかさを持つ

「泡」が、彼女の足を裏切った。

「おっと――!?」


 ​反射的に体が動いた。

 滑り落ちる彼女の体を受け止めようと、俺は泡の海へと飛び込む。


 しかし、そこはメイドが「愛を注ぎすぎた」戦場。俺の足元も、面白いように宙を舞った。

「え、あ――」

「うわあああ!?」

 ドサリ、という鈍い音。

 そして、顔中にまとわりつく、甘い石鹸の香りと温かい感触。

「……ふぇっ」

 視界を覆う泡を手で拭う。


 すると、すぐ目の前に――真っ赤な顔をして、潤んだ瞳で俺を見上げる美雨の顔があった。

 俺が彼女を押し倒すような形で、床に重なっている。


 それだけならまだいい。

 問題は、美雨が掃除のためにエプロンを外し、薄手のブラウス一枚になっていたことだ。

 水と泡を吸った白い生地は、驚くほど無防備に、彼女の体のラインを透かしていた。

「……美雨、お前、その……」

「……だ、大智様」

 美雨の声が、いつもの天真爛漫さを失って震えている。


 彼女の細い肩が、俺の腕の中で小さく震えているのが伝わってきた。


​「……っ。ごめん、今どくから!」

「ま、待ってください! いま動いたら、大智様もまた滑って……」

「でも、このままじゃ……」

​「……このままがいいです」

 消え入りそうな声だった。

 美雨は、泡に濡れた手で、俺のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。


 長い睫毛が細かく震え、上目遣いに俺を見つめるその瞳には、冗談や悪戯の気配なんて一ミリもなかった。

「……大智様。美雨、ドジですよね。掃除もまともにできなくて、いつも迷惑ばっかりかけて……」

「そんなことないよ。美雨がいてくれるから、俺は――」

​「本当ですか? じゃあ……ご褒美、ください」

 美雨が、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 泡にまみれた幻想的な空間で、彼女の唇がすぐそこまで迫る。


 心臓の音が、お互いの胸を通じて共鳴しているみたいだ。

「……あ」

 あと数センチ。

 重なり合うと思ったその瞬間。

「……っっっ!!」

 美雨が、真っ赤な顔のまま俺の胸に頭を埋めた。

「やっぱり無理です! いまの、いまの無しです! 大智様があんまりにもかっこいい顔するから、美雨、爆発しちゃいましたーっ!」

​「……えええ!?」

 さっきまでのシリアスな空気はどこへやら。


 美雨は俺を突き飛ばすと(おかげで俺はまた泡で滑った)、バシャバシャと音を立てて脱衣所へと逃げ出した。


​「お、お風呂掃除、やり直してきます! 大智様はリビングで待っててください! あ、いまの透けてたのは、忘れて下さい、命令ですっ!」

 パタン、とドアが閉まる。

​ 一人、泡だらけで残された俺は、天井を見上げて大きな溜息をついた。


 ……俺の心臓、明日まで持つかな。


 一方、廊下の向こう側。

 美雨は壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んでいた。


​「……バカ、美雨のバカ……あんなの、もう、ただの誘惑じゃない……」

 攻略ノートの『お風呂場イベント』のページを思い出す。


 そこには【ハプニングでドキドキさせる】と書いてあったが、現実はその百倍、彼女自身の心臓を直撃していた。

「……でも。大智様、私のこと……ちゃんと『女の子』として、見てくれたよね」

 熱を持った唇を指先でなぞりながら、彼女は誰にも見せない、愛しさが溢れ出したような本当の笑顔を浮かべるのだった。

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