夜の中にも、拾えるものがある
南條 綾
夜の中にも、拾えるものがある
夜の空気は、昼の熱を全部捨てたみたいに冷たかった。駅から家までの道、いつものコンビニの明かりだけがやけに白く見える。
仕事が長引いた日って、足だけが勝手に前に進む。頭はまだ職場に置いてきたみたいで、ぼんやりしてた。公園の角を曲がったところで、変な音が混じった。
泣き声?どこなんだろう?立ち止まって、耳を澄ます。
街灯の下のベンチの端に女の子が座ってた。
膝を抱えて、顔を隠して、肩を小さく揺らしてる。フードが濡れてるから、さっきまで雨に当たってたのかもしれない。
見なかったことにしよう、と一瞬だけ思った。関わったら絶対に面倒ごとになる。私も疲れてるし、来た道を戻ろうとした。だけど、その泣き方が、あまりにもひとりぼっちで。さすがに見て見ぬふりはできなかった。
私は息を吸って、近づいた。
「……大丈夫?」
声をかけた瞬間、女の子はびくっと肩を跳ねさせた。顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃで、でも目だけはすごく綺麗だった。二十歳前後くらいに見える。
「だ、大丈夫です……」
言いながら、全然大丈夫じゃない顔をしてる。言葉の端っこが震えて、鼻も赤い。私は一歩離れたところでしゃがんだ。怖がらせたくない。
「大丈夫じゃないときって、大丈夫って言いがちだよね」
女の子は、少しだけ目を見開いて、すぐに視線を落とした。
「……帰り道、わかんなくなって……」
「迷子?」
「迷子っていうか……帰りたくなくなって」
その言い方が、胸の奥に刺さった。帰る場所があるのに、帰れないやつだ。
「名前、聞いてもいい?」
「……みお」
「みお、ね。私は綾」
みおは小さく頷いた。頷き方が、助けてって言う代わりみたいだった。
私は立ち上がって、少し迷ってから言った。
「ここ、寒いよ。コンビニ行こ。温かいの買って、座れるとこで話そ」
みおは迷った顔をした。ほんの数秒、頭の中で何かと戦ってる顔。だけど、結局うんって小さく言った。
歩き出して、私が半歩前に出る。振り返って、みおの歩幅に合わせた。コンビニの自動ドアが開く音が、やけに安心する。
肉まんの匂いと、コーヒーの匂い。私はホットのカフェラテを二つ手に取って、みおには「好きなの選んで」って言った。
みおはしばらく迷って、ココアを持ってきた。子どもっぽい選択が可愛くて、でも笑うのはやめた。今は笑う時間じゃない。
会計を終えて、店の横のベンチに座る。風除けの壁があるから、さっきよりはマシだ。
みおは両手でカップを包んで、じっと湯気を見てた。
「……誰かと、喧嘩した?」
「喧嘩っていうか……言っちゃいけないこと言った」
その声が、すごく小さい。
「言っちゃいけないことって、どんな?」
「好きって」
みおは言い終わった瞬間、唇を噛んだ。泣くのを止めたいのに止まらない顔になる。
「女の子に、言ったんだ」
「……うん。大事な人で。ずっと隠してたのに、今日……耐えられなくなって」
私の胸が、きゅって縮む。隠してる時間って、心を削る。削ったぶんだけ、自分が薄くなる。
「返事は?」
「……ごめんって。優しく言われた。優しいのが、一番きつい」
みおの涙がまた落ちる。カップのふたにぽつぽつ当たって、小さな音がした。私はすぐには何も言えなかった。慰めの言葉って、軽いと傷になる。だから、ただ言った。
「今、よくここまで来たね」
みおが顔を上げる。濡れた睫毛が街灯に光ってた。
「……来たって?」
「壊れそうなのに、ちゃんと息して、歩いて、泣けてる。すごいよ」
みおの表情が少しだけ緩んだ。笑顔じゃない。でも、硬いままじゃなくなる。
しばらく黙って、二人で飲み物を飲んだ。夜の道路を車が通って、遠くで犬の鳴き声がする。こういう普通の音が、逆に救いになることがある。
みおがぽつりと言う。
「綾さんって……こういうの、慣れてる?」
「慣れてない。普通は関わらないよ」
「……なのに、なんで止まってくれたの」
「泣き方が、壊れそうだったから」
みおはまた泣きそうになって、慌ててココアを飲んだ。熱かったのか、ちょっと咳をして、目尻の涙を指で拭う。
「……帰れる?家、どっち?」
「……隣の駅の方。歩けるけど、今は……怖い」
その「怖い」が、誰かに言えるだけで、少しだけ偉い。私は立ち上がった。
「一緒に帰ろ。駅までなら、送れる」
「迷惑じゃ……」
「迷惑なら、最初から止まってない」
みおは、はっとした顔で私を見た。驚いたみたいに、でも嬉しそうに。小さく頷いて、立ち上がる。
夜道を並んで歩く。コンビニの袋がかさかさ鳴って、二人の足音が重なる。
公園の前を通るとき、風が強く吹いて、みおが肩をすくめた。
私は何も考えず、自分のコートのポケットからカイロを取り出して、みおに差し出した。今日、使うつもりで買った物だった。
「はい」
「……いいの?」
「いいよ。」
みおは両手で受け取って、胸の前に当てた。
「温かい……」
「でしょ」
その声が、少しだけ柔らかくなってた。
駅の近くまで来ると、人が増えて明るい。みおの顔色も少し戻ってきてる。
改札の前で、みおが立ち止まった。
「……ありがとう。ほんとに」
「うん」
「綾さんがいなかったら、たぶん……朝まであそこにいた」
「朝までいたら、凍えて死んじゃうよ」
「……それでもいいって思ってた」
私は、喉の奥が痛くなった。今の言葉、軽く流したらいけないやつだ。
「みお」
「なに」
「今夜だけじゃなくてさ。しんどい日、また来るかもじゃん」
「……うん」
「そのとき、またひとりでベンチに座る前に、連絡して」
私はスマホを出して、画面をみおに向けた。みおは一瞬だけ迷って、すぐにスマホを取り出した。指が震えてるのが見える。
連絡先が交換される。画面に私の名前が増える。
みおはスマホを握りしめて、小さく笑った。涙の跡は残ってるのに、その笑い方がちゃんと可愛かった。
「……綾さんって、優しすぎ」
「優しいっていうか、自分がしたかっただけで今回は、放っておけなかっただけ」
「放っておけないって、ずるい言い方」
みおは言って、少し頬を赤くした。寒さのせいじゃない赤さ。
「……また会ってもいい?」
「じゃなければ、連絡渡さないって」
「約束だよ」
「うん」
みおは改札の向こうで、もう一回振り返って手を振った。私は手を振り返して、みおの背中が人波に溶けるまで見送った。
帰り道、さっきまで重かった足が少し軽い。夜って怖いけど、夜の中にも、拾えるものがある。
家の前に着いて、スマホが震えた。みおから、短いメッセージ。
「家着いた。カイロ、まだ温かい。綾さんも、ちゃんと帰ってね」
画面の文字が、胸の奥をじんわり温めた。私は指を動かして返信する。
「帰った。みおも、今日はちゃんと寝て、後、友達だから呼び捨てでいいからね」
送信した瞬間、もう一回震えた。
「うん。……綾のこと、もうちょっと知りたい」
私は思わず笑ってしまって、でも笑い声は出さなかった。夜って静かだから。
「私も。みおのこと、もっと知りたい」
そう返して、スマホを胸に当てた。
泣いてた女の子は、もう通りすがりじゃない。きっとこれから、少しずつ、近くなるそんな予感がする夜だった。
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夜の中にも、拾えるものがある 南條 綾 @Aya_Nanjo
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