第四話:離れの目撃者

  

 城は、もはや「自分たちの場所」ではなくなっていた。


 北条の白鴉城はくあじょうに充満する蘭の香気は、日を追うごとにその濃度を増している。

 都から来た者たちが「清掃」と称して石壁に刻み込んだ不気味な呪印は、夜の闇で脈動するように青白く光り、城の霊的な脈動みゃくどうをじわじわと吸い取っていた。


 次男のふみは、その重苦しい空気に耐えられなかった。


 父の直道は、執権就任の準備と称して蘭家の重臣たちとの会談に忙殺されている。

 母の馨は、莉乃からの密書を読んで以来、部屋に閉じこもり、一心不乱に祈祷を捧げていた。


 長男の狼火は、いつ爆発するとも知れぬ家臣たちの怒りを鎮めるために奔走し、落とし子の雪之丞は、冷遇に耐えながら黙々と旅の支度を進めている。


 (どこにも、俺の居場所がない)


 文は、幼い頃から城の壁を登るのが好きだった。

 重い具足ぐそくを纏った大人たちが歩くことのできない場所。

 城壁の隙間、瓦の端、梁の裏。

 空に近い場所へ行けば行くほど、自分は自由になれるような気がした。


 彼は誰もいない北側の庭園へと向かった。

 そこには、蘭家の一行が「占有」している四階建ての離れが聳え立っている。

 北の寒風を真っ向から受けるその建物は、いまや北条家の者でさえ立ち入りを禁じられた、蘭家の私域しいきと化していた。


 (あの上からなら、きっと冬の海が見えるはずだ)


 文は身を隠しながら、離れの石垣に指をかけた。

 北国の厳しい冬に鍛えられた石は、指先が凍りつくほど冷たい。

 それでも、彼は慣れた手つきで登り始めた。


 一段、また一段。

 二階、三階と高くなるにつれ、風は刃物のような鋭さで頬を削り、文の小さな体は宙に揺れる。


 下を見れば、蘭家の朱色の垂れ幕が風に不気味に蠢くのが見えた。

 あの毒々しい色を下に見て、彼は高く、より高くへと這い上がっていく。


 だが、四階の最上階に近づいたとき、文の鼻を強烈な異臭が衝いた。


 あの不快な「蘭の香気」ではない。

 それを無理やり塗り潰そうとする、強烈な薬の匂い。

 そして、その隙間から漏れ出す、どろりとした肉の腐敗臭。


 (……なんだろう、これ。お肉が腐ったみたいな……)


 文は窓枠に手をかけ、そっと中を覗き込んだ。

 その瞬間、彼の時間は凍りついた。


 部屋の中には、和の国の頂点に立つはずの男――征夷大将軍・荒野が座らされていた。

 全裸にされたその肉体は、死人のように青白く、ところどころにどす黒い死斑しはんが浮かんでいる。


 その後ろに、紗江が立っていた。

 彼女は雪のような白い指先で、将軍の背中の皮を直接なぞっている。

 指が動くたび、将軍の肌には黒い墨のような紋様が刻まれ、それが蛇のように蠢き、肉の中に潜り込んでいった。


「……もう少しです、将軍。もう少しで、あなたは完成するので」


 紗江の艶めかしい声が響く。

 彼女が呪文を唱えるたび、将軍の喉から「シュウ、シュウ」と、漏れ出す空気を繋ぎ止めるような異音が漏れた。


 将軍の骸を支えていたのは、弟の次衛門だ。

 彼は人形を操る傀儡師くぐつしのような手つきで、将軍の垂れ下がった腕を支え、ポーズを整えている。

 次衛門が指先を僅かに動かすと、意志のない将軍の指が、ピクリと不自然な角度で折れ曲がった。


 (将軍公は……死んでいる)


 文の小さな胸は、恐怖で爆発しそうだった。

 目の前で行われているのは、神をも恐れぬ禁忌の儀式。

 死者に偽りの命を吹き込み、都を支配するための冒涜ぼうとくそのもの。

 この世の理が、音を立てて崩れ去る光景だった。


 逃げなければならない。

 一刻も早く、父上にこの事実を。


 そう思った瞬間、文の指が、凍りついた石垣の端で僅かに滑った。


 乾いた音が闇に響く。

 室内の二人が、同時に窓を振り返った。


 紗江の冷徹な瞳。

 そして、次衛門の、蛇のような鋭い視線。


「おや……。可愛らしい野鼠が迷い込んだようですね」


 次衛門の声が聞こえたと思った次の瞬間には、彼の顔が目の前にあった。

 人とは思えぬ、神速の動き。


 文は恐怖のあまり声も出せず、ただガチガチと歯を鳴らした。

 次衛門は窓枠に手をかけ、身を乗り出すと、慈しむような微笑みを浮かべて文の頬を撫でた。

 その手は、雪よりも冷たかった。


「見てしまいましたね。北条の坊や」


「……あ、……あ……」


「これは、蘭家がこの世を正しく導くための、必要な犠牲ぎせいなのです。……分かってくれますね?」


 次衛門の左手が、腰の刀の柄にかかった。

 抜刀の音すらしない。

 月光を反射した銀色の閃光が、文の視界を真っ白に染めた。


 熱い。


 腹を、何かが通り抜けた感覚。

 鋭利な刃が文の細い腹を深く刺し貫き、背中まで突き抜けていた。


 文は目を見開き、吐き出された自分の血が、真っ白な次衛門の直垂(ひたたれ)を真っ赤に染めていくのを見つめることしかできなかった。


「おやすみなさい。……北の雪は、温かいですよ」


 次衛門は微笑みを崩さぬまま、刺した刀を無造作に引き抜いた。

 支えを失った文の体は、四階の高さから、重力に引かれるまま闇の中へと放り出される。


 逆転する視界。

 激しく舞う雪。

 自分の体内から溢れ出した熱い鮮血が、夜空に朱色の弧を描いて消えていく。


 (……お父、……さま……)


 意識が途切れる寸前、文の耳に届いたのは、地面に叩きつけられる鈍い衝撃音と、どこかで鳴り響いた悲痛な叫び声だった。




 白鴉城の裏庭。

 雪之丞は、旅の支度に必要な馬具を確認するために、厩舎の近くを通りかかっていた。

 そこへ、背後の離れから「何か」が落ちてくる音がしたのだ。


 雪の上に、黒い塊が横たわっている。

 雪之丞が駆け寄ると、そこには血の海に沈んだ文が倒れていた。


「文! ……おい、文!」


 雪之丞が弟の体を抱き起こす。

 直垂は裂かれ、その下にある幼い腹部からは、止めどなく熱い血が溢れ出していた。

 雪之丞の手が、一瞬で朱に染まる。


「どうした! 何があった!」

 異変に気づいた狼火が、家臣たちを引き連れて現れた。

 弟の惨状を目にした狼火の顔が、怒りと驚愕で青白く引き攣る。


「……四階から、落ちたのか?」

「違う。……斬られている」

 雪之丞の声は震えていた。

 文の傷口は、転落による裂傷ではない。迷いのない、必殺の刺突。


 そこへ、離れの入口から次衛門が悠然と姿を現した。

 彼の白い直垂には、隠しようのない鮮血の飛沫が散っている。


「申し訳ありません、北条の皆様。……暗闇の中、不審な影が離れを登ってきたもので。将軍を狙う刺客かと誤認し、咄嗟に仕留めてしまいました」


 次衛門の声は、どこまでも透き通り、哀悼の意さえ含んでいるように聞こえた。

 だが、その瞳の奥には、冷徹な光が輝いていた。


「……貴様ぁッ!」

 狼火が刀を抜こうとした。


 しかし、それを遮ったのは、後方から歩いてきた直道の、地鳴りのような声だった。


「……止めよ、狼火」


「父上! 文が、文がこいつに刺されたのですよ!」


「……分かっている。控えよと言っているのだ」


 直道は、瀕死の文を雪之丞から受け取り、その小さな体を強く、壊れるほどに抱きしめた。

 文の血が、直道の豪奢な執権の装束を汚していく。


 直道は顔を上げ、次衛門を睨みつけた。

 その瞳に宿っているのは、これまでの忍耐を焼き尽くす、凄絶な憤怒ふんぬと復讐の炎。


「……事故だった、と言うのだな。次衛門殿」


「左様にございます、執権殿。……実に不運な、不幸な事故にございます」


 次衛門は優雅に一礼した。

 その影が、月光に長く伸びて北条家を飲み込んでいく。


 直道は何も言わなかった。

 ただ、震える手で文の閉じた瞼を撫で、固く唇を噛んだ。

 彼の心の中で、友を救うための「正道」は、いま、蘭家を根絶やしにするための「修羅の道」へと変わった。




 白鴉城を、慟哭のような地吹雪が包み込む。

 意識を失った文は、一命を取り留めたものの、二度と目は開かないと医師は告げた。


 都へ向かう北条家を待ち受けるのは、もはや権力の座ではない。

 血を血で洗う、救いのない地獄の開幕かいまくであった。




――

あとがき


 筆が止まらず、勢いで第四話を書いてしまいました……。

 このまま、書き続けてしまうのではないか心配です。

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蝕みの神器と血の戦記 〜天下を統べる将軍は既に死んでいた。呪われし一族の落とし子は『龍の血』を目醒めさせ、一族の仇を屠る〜 いぬがみとうま @tomainugami

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