第三話:冷たい密書と、亡き妹の影

  

 バリ、と乾いた音が凍てついた城内に響き渡った。


 北条家が建国以来、幾多の戦火からこの地を守り抜いてきた象徴――「白鴉」の紋が描かれた巨大な垂れ幕。

 それが、蘭家の下男たちの手によって無造作に引き剥がされた。

 数百年の風雪に耐えてきた布が悲鳴を上げ、積もった埃が冬の陽光に虚しく舞う。


「待て! 貴様ら、自分たちが何をしているのか分かっているのか!」


 回廊でその光景を目の当たりにした重臣・黒田が、肺を震わせるような怒号を上げた。


 背後に控える若侍たちの手が、一斉に刀の柄へと伸びる。

 家紋を辱める行為は、一族の魂を土足で踏みにじるに等しい。

 鞘の中で刃が鳴り、一触即発の火花が散った。


 蘭家の従者たちは、その殺気を受けてもなお、慇懃無礼な一礼を返すだけ。

 彼らの背後から、凍える空気を塗り潰す蘭の香気が漂ってくる。


 将軍正室、紗江。

 彼女は雪のように白い指先を、床に打ち捨てられた白鴉の紋の上に滑らせた。


「黒田殿、どうか落ち着かれよ。これは将軍公が滞在される間の、一時的な設えに過ぎぬ。都の空気をお好みのあの方のために、我らなりの精一杯の気遣いなのです」


「気遣いだと……。ここは北条の城、北の最果てだ。都の軟弱な作法など知らぬし、必要もない!」


「おやおや、野卑な言葉はそれまでに。間もなく執権として都へ上がられる直道殿にとっても、これは良い予行演習となるはず。それとも、北条家は将軍公をお迎えする最低限の礼儀さえ、雪の中に捨て去ってしまわれたのかしら」


 紗江の唇が、毒を含んだ花弁のように優美に綻ぶ。

 傍らに立つ次衛門は、抜刀寸前の若侍たちを、籠の中の羽虫でも眺めるかのように冷ややかに見下ろしていた。

 いつでもこの場を血の海に変える。その準備ができていることを無言で告げていた。


 その殺伐とした空気を、直道の足音が切り裂いた。


「……控えよ、黒田」


「しかし、直道様! 奴らは我らの誇りを!」


「控えよ、と言ったのだ」


 廊下の奥から姿を現した直道の顔は、鉄を打ち出した仮面のように無表情だった。

 彼は紗江と次衛門を真っ直ぐに見据える。


「将軍公が心地よく過ごされるためというのなら、好きにするがいい。主君を迎えるにあたり、小事にこだわるほど北条は狭量ではない」


 (嘘だ。父上は怒っている)


 雪之丞は物陰から凝視していた。

 直道の背後で握りしめられた拳。白く震え、爪が食い込んで赤い血が滴っている。

 父の痛みが、雪之丞の胸をも鋭く刺した。


 直道の許しを得た蘭家の従者たちは、堰を切ったように城内を「侵食」し始めた。


 北条の歴史を刻んできた武骨な壁は、極彩色の金屏風で覆い隠される。

 魔除けや霊石、先代たちが命を懸けて守ってきた依代よりしろは、「美しくない」という理由で片付けられた。

 代わりに蘭の刺繍が施された、禍々しいまでに華美な垂れ幕が四方に掛けられていく。


 城内には、蘭の香料に得体の知れない薬物を混ぜた、甘ったるい香気が充満し始めた。

 城が本来持っていた「北の守り」としての清廉な空気を、内側からじわじわと腐らせていくような異臭だ。




 その日の深夜。

 月さえも雲に隠れた丑三つ時、城の通用門に一人の旅芸人が辿り着いた。

 男の衣装は泥に塗れ、顔色は不気味な黒ずみを帯びている。

 吐き出す息は白くならず、ただ喘ぐような掠れた音だけが闇に響く。


「……これを、馨様に……。何があっても、直接……」


 男は小さな守り袋を託すと、糸が切れたように崩れ落ちた。

 医師が診る間もなく絶命。

 外傷は一切なかった。だが、遺体を改めたところ、内臓は焼かれたように黒く変色し、血管が墨を流し込んだように浮き出ていたという。



 馨の私室。

 行灯の微かな光の中、彼女は震える指先で一通の文を取り出した。

 紙は涙の跡で波打ち、黒ずんだ血痕が文字を覆っている。

 書き手が極限の恐怖と闘いながら筆を走らせたことが、嫌というほど伝わってきた。


 それは、都へ嫁いだ馨の愛妹であり、急死した前執権の妻・莉乃りのからの命を賭した告発状だった。


『姉上……。夫は、病で死んだのではありません。蘭家が放った、目に見えぬ毒……「影」の術によって、内側から腐り果てて死んだのです。あいつらは、正義を口にする者を一人ずつ、物言わぬ肉の塊へと変えていく。蘭の香りがしたら、それは死の合図です。次は北条の家が狙われるでしょう。どうか逃げてください』


 文を読む馨の肩が、激しく震える。

 彼女は文を胸に抱き、迷いのない足取りで直道の私室へと向かった。


 直道は、部屋で一人、左腕を拭っていた。

 数日前、将軍・荒野に掴まれた場所だ。

 そこには、蜘蛛の足のように広がる黒ずんだ痣。

 痣は時折脈打ち、洗っても消えない腐敗した水の匂いを放ち続けていた。


「直道様」


 馨の声に、直道は静かに布を置いた。


「莉乃から、報せが届きました。あの子の使いが、命と引き換えに……」


 馨は文を直道の前に差し出した。

 直道は黙ってそれを読み終えると、深い溜息と共に文を火鉢の火へと近付けた。


「……やはり、そうだったか。あの将軍の肌の色、そしてこの痣。すべてが繋がった」


「直道様、これはもはやまつりごとの争いではありません。あいつらは、人を人とも思わぬ外道。都へ行くのは、自ら毒の中に飛び込むようなものです」


 馨の声は、悲鳴に近い切迫感を帯びていた。


「ここで挙兵しましょう。籠城して戦えば、道は開けます。この極寒の地こそが、私たちの唯一の武器です」


「無駄だ、馨。それは彼らの望むところだ」


 直道は、文が灰になって舞い上がるのを、冷徹な瞳で見つめていた。


「ここで拒めば、我らは『将軍への反逆者』として討たれる。挙兵する前に、この城の霊的な結界は、蘭家の模様替えによって内側から剥がされているのだ。見てみろ、あの垂れ幕を。あれは城の霊脈を吸い取るための呪符だ」


 直道は、自身の左腕の痣を凝視した。


「将軍・荒野公は、もう人ではない。蘭家の術によって動かされる傀儡だ。私の腕を掴んだあの力、あれは友の縋る手ではなく、私を死の淵へ引きずり込もうとする死者のそれだった」


「ならば、どうされるのですか……」


「逃げ道はないのだ。ならば、虎の口に飛び込むほかない。奴らの場所で、その心臓を突き刺す。……それ以外に、北条が、この国が生き残る道はない」


 直道の決断は、凄絶な覚悟に満ちていた。

 家と北の地を守るため、呪われた都へ足を踏み入れる。




 翌朝。

 城の中庭に、直道の凛冽な声が響き渡った。


「皆、聞け! 私は執権の座を引き受け、京へ向かう。これは北条家にとって最大の試練であり、同時に正道を示すための戦いである。覚悟を決めよ。我らが行く先には、この地の雪よりも冷たい影が待っている!」


 その宣言を、雪之丞は回廊の陰で聞いていた。

 ふと視線を落とすと、蘭家の従者たちが、城の石壁に不可解な印を刻んでいるのが見えた。


 (……終わりの始まりだ)


 直道が都へ向けて出発するまで、あと三日。

 白鴉城に充満する蘭の香気は、いよいよ逃れようのないほど濃密になり、北国の清冽な空気を塗り潰していった。




 果たして執権となる北条直道の運命は……。

 残された雪之丞の真の使命とは……。


 長く、暗く、凍えるこの戦記は、いま幕を開けるのだった。



(完)




――

あとがき


 壮大な和風ファンタジー戦記の冒頭でございます。

 いつか書こうと、長く構想を練っていた作品ですが、カクヨムコンテストを機に冒頭を短編部門に出してみようと思います。


 もし、続きを読んでみたいと思って頂けたなら、フォローと★の評価をお願いします。


 実は、めちゃくちゃ書きたくてウズウズしてます(だって1年前からコツコツと、50万文字分のプロット立ててあるんだもの……)。

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