第二話:鷹の運ぶ報せと、錆びた将軍
雪が、音を奪っていく。
北条家の居城「
北条直道は、私室の窓から昏い雪原を見下ろしていた。
先ほど処刑した男の血も、すでに新雪が覆い隠している。
何もなかったかのような白の世界。
直道の掌には、いまだに刀を通した「命の感触」が、重たい余韻となってこびりついていた。
「……父上」
背後で扉が静かに開く。
長男の狼火だ。
父の揺るぎない背中に敬意を抱きつつも、その手にある「報せ」に顔を曇らせている。
「参内命令の写しです。……期限は、あまりに短い」
直道は無言で手を差し出し、紅い紐が結ばれた文を受け取った。
将軍家の葵紋。
その下には、
『将軍、危篤。一刻の猶予も許さぬ。直ちに京の都へ参じ、幕府の行く末を見届けよ』
文字面は忠義を求めている。
その裏に透けて見えるのは、拒否を許さぬ傲慢な恫喝。
「北の脅威は、いまこの瞬間も膨らんでいる。海が凍り、死者が歩く。あの防人が死の間際に吐いた言葉を、狂人の妄言として片付けるには、浅はかすぎる」
直道が低く呟く。
「それを、都へ報告に行くのですか」
「……それも私の務めだ。将軍・
扉の脇で、一人の少年がその会話を盗み聞いていた。
雪之丞だ。
影のように壁に同化し、気配を消す。
胸の奥で燻る「疎外感」が、彼の視線を鋭くさせていた。
狼火は父の横に並び、共に難局を乗り越えることを許されている。
対して、自分は。
「落とし子」という立場は、こうした重大な局面において、常に蚊帳の外へ置かれる。
雪之丞は、自分の名前が呼ばれることもないその場所から、静かに姿を消した。
直道が自室へ戻ると、そこには正室の
北条家の女主人として、毅然とした態度を崩さない。
ただ、その瞳には隠しきれない動揺が走っていた。
「都へ行かれるのですか、直道様」
「ああ」
「罠かもしれません」
馨の言葉は短く冷たい。
「前の執権様が亡くなってから、まだひと月も経っておりません。健康そのものだったあの方が、急な病で……。都は今、蘭家の息がかかった者たちで溢れかえっています」
「将軍が呼んでいるのだ。無視はできん」
「将軍は、本当にご自身の意志であなたを呼んでいるのでしょうか」
その問いに、直道は答えなかった。
翌々日の午後。
白鴉城を揺るがすほどの法螺貝の音が、極寒の空を切り裂いた。
都からの行列が、雪の峠を越えて姿を現したのだ。
その光景は、あまりにも異常だった。
白と黒の雪景色を乱暴に塗りつぶす、鮮烈な「朱」の群れ。
金箔の牛車。公家のごとき極彩色の装束を纏った随員たち。
数百人規模の行列が、白銀の北一条を蛇のようにうねりながら進んでくる。
東北の武人が纏う、質実剛健な鉄錆色の具足とは対照的な、虚飾に満ちた華やかさ。
その行列の先頭に立つのは、二人の美しい男女だった。
一人は、将軍の正室・
氷の彫刻のように整った顔立ちに、体温を感じさせない冷徹な双眸。
雪の中でも彼女の肌は青白く透き通り、その美しさは見る者に「死」を予感させた。
もう一人は、彼女の双子の弟。蘭家の至宝と謳われる剣客・
抜けるような白い直垂を纏い、腰には名刀を二本、軽やかに差している。
次衛門は城門に立つ直道を見つけると、優雅に、だが明らかに侮蔑を含んだ笑みを浮かべて一礼した。
城の広場に到着した牛車から、重苦しい空気が溢れ出した。
「……これは」
狼火が、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、かつて戦場を縦横無尽に駆け巡り、「金剛の虎」と恐れられた猛将の姿ではなかった。
将軍・荒野の体は、枯れ木のように萎んでいる。
肌は土色に淀み、頬は不自然なまでにこけていた。
何より異様なのは、彼が纏う空気だ。
厚く塗りたくられた
その甘ったるい香気の下から、腐った泥のような、重たい「死の気配」が隠しきれずに漏れ出していた。
「直道……。我の命がもう灯火でな、無理を言って出向くことにした……」
荒野の声は、錆びた鎖を引きずるような掠れた音だった。
視線を定まらぬまま彷徨わせ、震える手で直道の肩を掴もうとする。
その指先が触れた瞬間、直道は強烈な違和感に襲われた。
冷たい。
雪で冷えているのではない。芯から凍りついたような、生命の脈動を感じさせない「無」の冷たさ。
瞳を見れば、瞳孔が不自然に開き、光を反射していない。
その奥にあるのは深い闇だけで、かつての盟友が持っていた情熱の欠片も残っていなかった。
「将軍、外は冷えます。まずは奥へ」
紗江が、滑らかな手つきで将軍の肩を抱き寄せた。
彼女の指が荒野の首筋に触れたとき、将軍の体がぴくりと痙攣したのを、直道は見逃さなかった。
「直道殿。……あとのことは、奥でゆっくりとお話ししましょう」
次衛門が、女のような美しい声で告げる。
彼らの美貌は、この荒廃した将軍の姿を隠すための「美しい幕」にしか見えなかった。
その日の夜。
城内の最も奥まった一室で、直道と将軍の二人きりの会談が設けられた。
火鉢の炭がパチリと爆ぜる音さえ、室内の緊張感を際立たせる。
「直道。……私を、助けてくれ……」
荒野は力なく座り込み、呻くように言った。
ハッとしたように周囲を伺う。まるで、目に見えない誰かの監視を恐れているかのようだ。
「都は、もう……。私の声が、届かぬ。蘭家が、すべてを、喰らい尽くそうとしている……」
「将軍、落ち着いてください。私はここにいます」
「お前に、……執権になってほしい。幕府のすべてを、お前に託す……」
その言葉を聞いた瞬間、直道の脳裏に馨の警告が蘇った。
「執権職」は、将軍に代わって実権を握る、幕府の最高権力。
いまこの職に就くことは、蘭家が築き上げてきた利権の城壁に、正面から激突することを意味する。
「お前しか……いないのだ。正義を……、この国の理を、取り戻せるのは……」
荒野の手が、直道の腕を強く掴んだ。
骨が軋むほどの握力。
その力に意志は感じられない。ただの、反射的な痙攣。
直道は将軍の顔を間近に見つめた。
白粉の下に、黒ずんだ血管が浮き出ている。
荒野の唇がわずかに開いたとき、その奥から、言葉ではない「異音」が漏れた。
――シュウ、シュウ。
漏れ出す空気を必死に繋ぎ止めているような、不自然な音。
「……承知いたしました」
直道は、絞り出すように答えた。
「私は、貴方との誓いを忘れてはいません。都へ参り、幕府の正道を示しましょう」
その言葉を聞くと同時に、将軍の表情から、糸が切れたように緊張が消えた。
彼は人形のようにガクリと項垂れ、そのまま動かなくなった。
眠ったのではない。ただ「機能が停止した」ような、奇妙な静止だった。
直道が部屋を出ると、廊下の闇に次衛門が立っていた。
月光を浴びて、銀色に輝く髪を揺らしながら微笑んでいる。
「お受けいただけましたか、執権の座」
「……ああ」
「それは
次衛門が去った後の廊下に、蘭の香りがいつまでも残っていた。
死の香りを隠すための、残酷なまでに美しい香り。
直道は自分の掌を見つめた。
将軍に掴まれた場所が、黒ずんだ痣のようになっている。
洗っても落ちそうにない、腐敗した水の匂いが漂っていた。
白鴉城を、猛吹雪が打ち付ける。
都から来た死の香りをかき消そうとしているのか、さらなる絶望を運んできたのか。
北の守護者・北条直道は、暗闇の中で、一族を待ち受ける「朱い奈落」を見つめていた。
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