第4話 リリアーヌ・ファン・ディートリヒの優雅な一日

  カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日が、わたくしの頬を撫でました。

 ふあぁ……と一つ欠伸をして、わたくし、リリアーヌ・ファン・ディートリヒは、天蓋付きのベッドの上で大きく背伸びをいたしました。


「おはようございます、リリアーヌ様。本日も素晴らしい目覚めですわね」


 控えめに、けれど完璧なタイミングで現れた侍女たちが、わたくしを繭から取り出すように着替えさせてくれます。

 顔を洗い、磨き上げられた鏡の前に座れば、そこにはお父様にそっくりの金髪と、健康的な血色の肌。今日もわたくし、とっても可愛らしくて、そして元気いっぱいですわ!


「さあ、お父様とお母様がお待ちの食卓へ参りましょう」


 弾むような足取りで廊下を歩いていると、角を曲がったところで、それは不合理な影のように立っておりました。


「おはよう、リリアーヌ。今朝の君の心拍数は、昨日より三拍ほど早いね。……ああ、そのドレスの揺れ方は、今日の風速と君の歩調に完璧に調和しているよ。素晴らしい」


 そこにいたのは、わたくしの片割れ。双子の兄、アルフォンスです。

 お兄様は、彫刻のような美しい顔をわたくしに近づけると、うっとりとした手付きでわたくしの髪に触れました。


「……お兄様、なにをなされておられるのですか?」


 わたくし、凛とした声で警告いたしました。けれど、お兄様の紫の瞳には、わたくしの言葉など一切届いていないようです。お兄様はそのまま、わたくしの肩に顔を埋めると、すう、と深く息を吸い込みました。


「……ふぅ。今朝の君の香りは、昨日のラベンダーに微かなジャスミンの官能が混じっている。……リリアーヌ。この香りを、私以外の、例えば他国の王子の肺胞に一粒たりとも侵入させるわけにはいかないな。ふぅ……もう少し、嗅がせてもらってもいいかな? いや、許可は不要だね。私の本能がそう命じている」


「お兄様、流石に……いい加減にしてくださいませ」


 わたくしが何度拒絶しても、お兄様は恍惚とした表情で、わたくしの髪の匂いを嗅ぎ続けようといたします。……ああ、もう。忙しい朝に、なんて効率の悪い!


「――お兄様、いい加減に怒りますわよ?」


「いいよ、リリアーヌ。君のその、拒絶という名の甘えさえ、私にとっては至高の――」


「いい加減……しつこいですわーっ!!」


   ズドンッ!!


「ぐべっ!?」


 わたくしの右拳が、吸い込む息を止めるように、お兄様の鳩尾へと深く、精密に食い込みました。

 お兄様は白目を剥き、その場に膝から崩れ落ちます。わたくし、お母様から身の守り方として、効率的な打撃を学んでおいて本当に良かったですわ。


「では、お兄様。そこで少しばかり、自分の不合理さを演算し直してくださいませ」


 床に転がり、よだれを垂らしながら


「……いい……。ごふっ……今の……衝撃……。……私の……心臓の……位置を……完璧に……捉えて……」


 と何事かブツブツ言っているお兄様を優雅に足蹴にし、わたくしは食堂へと向かいました。


 食堂の扉を開くと、そこにはすでに、お父様とお母様が揃っていらっしゃいました。


「おはようございます、お父様、お母様」


「おはよう、リリアーヌ。今日も元気そうで何よりだわ」


 お母様――アメリア王妃様が、聖女のような微笑みでわたくしを迎えてくださいました。その隣では、お父様であるエリオット王が、少しばかり顔色の悪い、けれど優しげな笑みを浮かべて座っていらっしゃいます。


「お、おはよう……リリアーヌ。……さっき……廊下で……凄い音がしたが……」


「あら、位置の調整が必要なものを一つ、片付けてきただけですわ。気にしないでくださいませ、お父様」


 まったく、思い出したくもない出来事を思い出してしまい、少し機嫌を損ねてしまいましたわ。

 わたくしが席に着くと、不思議なことに、先ほど廊下で沈めたはずのお兄様が、すでに何食わぬ顔で自分の席に座っていました。既に平然とした顔をしており、恍惚とした目でわたくしを見つめています。……さすがはお兄様、驚異的な回復力ですわね……。


 王族らしく、マナーに則った優雅な朝食が始まります。

 わたくしたち子供の皿には、一流の料理人が作った最高級のメニューが並びますが、お父様の皿だけは別です。お父様の前には、お母様が自ら厨房に立って作られた、ほかほかの手料理が並んでいるのです。


「さあ、エリオット様。今朝は、庭で採れたばかりの『アキノキリンソウ』のエッセンスを加えた、特製のリゾットですわ。貴方のために、わたくしの愛をたっぷりと調合いたしましたのよ?」


「あ、あぁ……。ありがとうアメリア。……君の手料理は、私の命の灯火を……文字通り左右するからね……」


 お父様は、震える手でスプーンを持ち、お母様の手料理を一口ずつ、噛みしめるように召し上がっています。その目には、感謝のあまりか、うっすらと涙が浮かんでいるようにも見えました。


「まあ、貴方ったら。泣くほど美味しいのですか? 嬉しいですわ。さあ、残さず召し上がってくださいな。あなたの血管の隅々まで、わたくしの愛が行き渡るように……」


 お母様がお父様のお口をナプキンで優しく拭う姿は、まるで絵画のような美しさ。

 お父様は時折、ひゅー、ひゅーと、美味しさのあまり感極まったような呼吸音を漏らしていらっしゃいます。


(ふふ。お父様とお母様は、本当になんて仲良しなのかしら!)


 わたくし、その微笑ましい光景に胸を熱くしながら、瑞々しいサラダを口に運びました。

 お兄様からの雑音さえ聞こえなければ、世界はもっと素晴らしいのに、と少しだけ思いながら。


 朝食が終われば、王族としての義務の時間です。

 お兄様とわたくしは、それぞれ別々の執務室で家庭教師から勉強を学びます。お兄様は「リリアーヌの部屋の壁に穴を開けて、視覚的な効率を上げたい」と主張して、騎士団に引きずられていきました。

 わたくしも負けてはいられません。午前中の厳しい帝王学を終えたあとは、お待ちかねのリフレッシュタイム。お兄様が「リリアーヌが躓かないように」と一晩で舗装させた、大理石の庭園での休憩です。


「リリアーヌ様、お茶が入りました」


 平坦で、一分いちぶんの凸凹もない完璧な石床の上に置かれたテーブル。ここで優雅にティーカップを傾けながらいただく軽食は格別ですわ。食べ終わるとわたくし、ここで軽くステップを踏んだり、兄を無力化するための打撃のフォームを復習したり、どこからか庭に迷い込んだ小さな蝶を眺めたりして、心身を整えるのです。


 そして午後。ここからが本番、お母様による花嫁修行の時間です。


「リリアーヌ。将来、あなたがどこの国へ嫁いでも、その国を『より善き形』に整えられるよう、まずは人の心のことわりをしっかり学びなさいね?」


「はい、お母様!」


 お母様の教育は、とても知的で慈愛に満ちています。

 どうすれば人が喜んでその身を捧げてくれるとか、丁寧に教えてくれます。


「いい、リリアーヌ? 武力で従わせるのは野蛮なこと。大切なのは、相手の弱さを優しく包み込み、あなたの存在なしでは呼吸すらままならないほど、魂の形を変えて差し上げること。……それが『人心の掌握』、ひいては真の平和への近道ですわ」


「……相手が自分の意志でわたくしに依存するように、世界を整えて差し上げるのですね。お勉強になりますわ、お母様!」


 密度の高い勉強を終える頃には、夕日が王宮を赤く染めていました。

 わたくし、お母様から授かった精神の調律という高度な知恵で頭をいっぱいにしながら、夕食の食卓へと急ぎます。


 すると、またしても廊下の中央で、お兄様が通せんぼをしておりました。


「お疲れ様、リリアーヌ。その疲れた瞳に、私の接吻を――」


  ズドンッ!!

 

 邪魔なお兄様は、即座にズドンッ!ですわ!

 

「お兄様、失礼ながら、疲れているところなのです」


「げ……げふっ……素晴らしい……この角度……ごふっ」


「お兄様、食事のあとにまたお会いしましょう。……あ、お母様。お兄様がまた廊下で幸せそうに寝ていらっしゃいますわよ?」


「あらあら、アルフォンスったら。よほど勉強が楽しかったのね」


 わたくしは邪魔な虫を踏みつけて、さっさと再び仲睦まじい夕食の席へとつくのでした。


 夜の食卓は、朝よりもさらに朗らかな空気に包まれていました。

 お母様は、お父様の隣で幸せそうに微笑み、今日一日の出来事を熱心に語り聞かせていらっしゃいます。お父様は、もはや魂が半分別の世界へ行っているような穏やかな微笑みを浮かべ、「そうだね、アメリア」とお母様の愛に応えておりました。

 家族が共に笑い、愛を語り合う。……なんて理想的な、絵画のような食卓でしょう。


 お夕食のあとの自由時間は、わたくしにとって至福のひとときです。

 お風呂で侍女の方々に髪の先まで丁寧に洗っていただき、薔薇の香りのオイルで磨き上げられると、心までふんわりと解けていくようですわ。


「リリアーヌ様、今夜の歯磨き粉は、お母様が自ら調合された精神を安らげるハーブを配合しておりますわ。……ええ、これを使い始めてから、お父様も夜中に叫ぶことがなくなったと評判ですのよ」


「まあ、お母様ったら。お父様の安眠まで完璧にケアされているなんて、本当に素晴らしい献身ですわね!」


 身支度を整え、自分の寝室に戻れば、そこはわたくしだけの完璧な箱庭。

 ふかふかのベッドに潜り込み、今日一日の出来事を振り返ります。


 お兄様のおいたは少しばかり不合理でしたけれど、わたくしが適切に処置ズドンいたしましたし、お父様とお母様もあんなに仲良しでいらした。

 お母様から教わった花嫁修行も難しいですけど、頑張って覚えますわ。


 お母様の教えは、どこまでも優雅で、知的です。

 わたくしもお母様のように、微笑んでいるだけで世界が勝手に平和になっていくような、そんな素敵な女性になりたい……。


 わたくしはサイドテーブルに置かれた恋愛小説を手に取りました。

 タイトルは『孤独な氷の王と、彼を檻に閉じ込めた永遠の姫君』。


「……あら、なんて情熱的なのかしら! 王様が自由を奪われて、姫君の注ぐスープ以外は口にできなくなるなんて……。ああ、なんて純粋で、一途な愛! お父様とお母様の関係みたいで、とっても憧れますわ!」


 ページをめくるたびに、わたくしの胸はときめきでいっぱいになります。

 世の中には、まだわたくしの知らない愛の形がたくさんあるのだわ。いつかわたくしも、お兄様ではない、素敵な王子様をこうして保護して差し上げられる日が来るのかしら。

 そういえば、エレナ様の弟君はどうなのかしら……。正式な婚約となると、保護して差し上げるかもしれませんわね!


 パタン、と本を閉じ、ランプの火を消しました。

 暗闇の中、ふとお父様のことを思い出します。

 そういえば今日も一日、お父様と二人っきりでお話しする時間は、一秒もございませんでしたわね。


(でも、それはきっと、お母様の愛がお父様を片時も離さないほど深いから……。ええ、間違いありませんわ。だって、あんなに仲良しなんですもの!)


 わたくしは毛布を鼻先まで引き上げ、満足げな溜息を一つ。

 お兄様がドアの隙間から「リリアーヌの安眠のために、一晩中うちわで効率的に気流を整えてあげよう」と呟いているような気がいたしましたけれど、きっと気のせいですわね。


「今日も頑張った! 明日も、お母様のような立派な女性になれるよう頑張りましょう……。おやすみなさい、世界……」


 リリアーヌは、一分の隙もない安らかな寝顔で、深い、深い眠りへと落ちていくのでした。

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賢王エリオットシリーズ ―ディートリヒ王宮物語― かきのたね @inumohumohu11

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