第3話 慈愛の聖女の継承者
わたくしたち兄妹は、賢王と呼ばれるエリオット王。そして、慈愛の聖女と呼ばれるアメリア王妃の子供として同じ日に産まれました。
わたくし、リリアーヌはお父様に似た金髪に碧眼。そして、わたくしの片割れ。双子の兄、アルフォンスは、生まれた瞬間から「完成」されていたのだと思います。
お母様譲りの透き通った紫の瞳を、彼は感情を映す鏡としては使いません。彼はその瞳で、世界を効率的に演算しているのです。
そう、あれはわたくしたちが八歳の頃のことです。
王宮の広い庭園で、わたくしはうっかり足を滑らせ、大切にしていた刺繍入りのハンカチを、泥水が溜まった深い溝に落としてしまいました。
お気に入りのハンカチが汚れた悲しみに、わたくしが小さく声を上げて泣きそうになった、その時です。
隣にいたお兄様が、わたくしの肩をそっと抱きました。その手は子供とは思えないほど温もりに欠け、けれどひどく安定していました。
「泣く必要はないよ、リリアーヌ。悲しみは判断を鈍らせる不要なものだよ」
彼は淡々と、まるで明日の天気を確認するかのように言いました。
そして翌朝。わたくしが窓の外を見て目にしたのは、耳を貸したくないほどの喧騒と、変わり果てた庭の姿でした。
まだ夜も明けきらぬというのに、松明の火が揺れる中、数百人もの作業員たちが蟻のように庭を埋め尽くしていました。重い石畳が次々と運ばれ、わたくしが昨日転んだ溝は、大量の土であっという間に埋め立てられていきました。
「……お兄様? これ、一体何をしていますの?」
隣に並んで窓の外を見下ろしていたアルフォンスは、手元の時計を確認し、わたくしに向かって微笑みながら、事も無げに答えました。
「昨日の夕方に、庭師と工区長を呼び出したんだ。君が転んだ原因を今すぐ物理的に抹消しろ、とね。……ああ、工区長はこの規模の工事には最低一ヶ月は必要だと泣き言を言っていたけれど、私が少しばかり予算と人道のトレードオフについて説いてあげたら、一晩でこれだけの人数を揃えてくれたよ」
窓の外では、泥にまみれた作業員たちが、お兄様の視線を感じているかのように必死に石を敷き詰めています。それはもはや、美しい庭園の整備ではなく、何か軍事的な陣地構築のような、異様な切迫感を孕んでいました。
「君が二度と躓かないよう、庭の設計をすべて変更させ、平坦な石畳で覆い尽くさせる。今日中には完了する手筈だ。それから、そのハンカチを作った職人の工房も買い取らせた。君が生涯、一秒ごとに新しいハンカチを使い捨てても足りるだけの生産ラインを、今この瞬間にも構築させている」
お兄様は、満足そうに微笑むことすらなく、ただ「当然の処理をしている」という顔で、混乱する庭を見つめていました。
その瞳には、自分の無理な命令で夜通し働かされている人々の疲労や、変わり果てた景観への惜別など、微塵もありませんでした。
今の彼の世界には「わたくしの不快指数の低下」という目的に対する最適解しか存在しない。そう感じました。
わたくし、その時、背筋に走った戦慄を今でも覚えています。
お兄様にとって、世界とはあくまでも自分で動かすための部品でしかない。
そしてその部品を調整するためなら、彼は羽虫を払うのと同じように、平気で誰かの人生を、一晩で書き換えてしまう。
(お兄様を刺激してはいけないわ。わたくしのささやかな一言で、世界が壊されてしまうもの……)
こうしてわたくしは、お兄様の冷徹な善意に怯えながら、共に学園へと入学することになったのです。
学園に進学しても、お兄様の調整は止まるどころか、より洗練されたものになっていきました。彼は入学と同時に生徒会長の座を奪取し、学園を一つの完璧な機能体へと作り変え始めたのです。
わたくしが、生徒会室で書類の山と格闘する彼の横で、お茶を淹れていた時のことです。扉が勢いよく開き、数人の上級生たちが泣きそうな顔で駆け込んできました。
「殿下! お願いです、演劇部の廃部撤回を! 我々はコンクールに向けて……」
お兄様は顔を上げることすらなく、手元の万年筆を動かし続けました。その声音は、冬の朝の空気のように冷たく、透き通っています。
「演劇部の昨年度の予算執行率、および部員一人当たりの修得単位数の推移は確認済みだ。結論から言えば、君たちの活動は学園の資産を浪費しているに過ぎない。帰りたまえ。警備員を呼ぶ手間を省かせてくれ」
理路整然とした、しかし救いのない宣告。上級生たちは、お兄様の放つ圧倒的な正論の重圧に、反論の言葉を失って部屋を去っていきました。
(お兄様、また……。あんなに冷たくしなくてもよろしいのに)
わたくし、溜息をついて新しいお茶を兄の机に置きました。すると、さっきまで氷のようだったお兄様の表情が、ふっと和らぐのです。
「ああ、ありがとうリリアーヌ。君の淹れる茶は、いつも適温で素晴らしいね。……疲れてはいないかい? 嫌な奴らが騒いで済まなかった。少し休むといい」
そう言ってわたくしの頭を優しく撫でるお兄様の手は、とても温かいものでした。
そう、お兄様はわたくしにだけは、昔からずっとお優しいのです。わたくしが望むことは何でも叶えてくれるし、わたくし達……家族の言葉には唯一、人間らしい反応を見せてくれる。
……けれど、だからこそ恐ろしいのです。
わたくしにこれほど柔らかな眼差しを向けるお兄様が、一歩外へ出れば、他人の夢を平気で踏みにじる冷徹な独裁者に豹変する。きっとお兄様は、この世界の人間を「人間として認識するもの」と「それ以外の無価値な有象無象」の二種類にしか分類していないのでしょう。
そんな中、彼に寄り添う一人の少女がいました。婚約者のエレナ嬢です。彼女は、鉄の仮面を被ったようなお兄様の横で、いつも健気に彼を支えていました。
「アルフォンス様、少し厳しすぎるのではありませんか? 彼らも一生懸命……」
エレナ様がそう苦言を呈した瞬間、お兄様の瞳から温もりが消えました。
「エレナ。君は私の隣で、将来の王妃としての『記号』を維持するために選ばれた。不要な慈悲を垂れ流して私の判断を鈍らせるなら、君という『部品』の適性も再考せざるを得ない」
エレナ様は顔を真っ白にして黙り込みました。
わたくし、その時確信しました。お兄様にとって、エレナ様は愛する対象ではなく、単なる「王家という機械を動かすための歯車」に過ぎないのだと。
(……ああ、可哀想なエレナ様。お兄様のような冷徹な男と結婚するなんて、地獄そのものですわ。お兄様のこの極端な二面性が、いつかエレナ様を壊してしまわなければよろしいのだけれど……)
わたくしはこの時、まさかお兄様が、そのエレナ様という「歯車」そのものを、自分の人生から「排除」する機会を虎視眈々と狙っていたなどとは、夢にも思っていなかったのです。
そして、とうとう迎えた学園の卒業パーティー。会場は、これからの国を背負う若者たちの熱気と、どこか張り詰めた空気で満ちておりました。
壇上に立つのは、生徒会長にして次期国王、アルフォンス・ファン・ディートリヒ。その姿はあまりに神々しく、誰もが真の賢王が降臨したと、畏怖を込めて見つめていました。
わたくしは、生徒会副会長として、そして彼の双子の妹として、お兄様の背中を数歩後ろから見守っていました。隣には、美しいドレスに身を包みながらも、緊張で指先を震わせているエレナ様の姿があります。
(ああ、今日でようやく学園生活も終わり。お兄様も、卒業すれば少しは角が取れて、エレナ様を部品ではなく一人の女性として見てくださるようになるとよろしいのだけれど……)
そんなわたくしの淡い期待は、次の瞬間、お兄様が放った凍てつくような一言で粉砕されました。
「エレナ嬢。君との婚約を白紙にさせてもらう」
会場の空気が、一瞬で凍りつきました。音楽が止まり、列席者たちの呼吸の音さえ聞こえなくなるほどの静寂。エレナ様は、あまりの衝撃に目を見開いたまま立ち尽くしていらっしゃいます。
(お、お兄様……!? 公衆の面前で、なんてことを……!)
わたくしは血の気が引くのを感じました。お兄様のことですから、きっとエレナ様が何か、彼の「最適解」に反する致命的なミスでも犯したのだわ。彼女を排除し、より効率的な「部品」に挿げ替えようとしているのだわ……!
お兄様は一歩、エレナ様に詰め寄りました。その瞳には、かつて演劇部を廃部に追い込んだ時と同じ、冷徹なまでの正論が宿っています。
「理由は三つだ。第一に。君はリリアーヌが卒業式のために新調したドレスに、三十分前、うっかり炭酸水を跳ねさせた。シミは消せたが、彼女の精神的安定を一時的に損なった罪は重い」
先ほどとは別の意味で、会場の空気が凍りつきます。
「……はえ?」
エレナ様の口から、マヌケな声が漏れました。会場にいる全員の頭の上に「?」が浮かんだのが見えました。
「第二に。君が王妃になれば、リリアーヌは臣籍降下、あるいは他国への嫁入りを検討せねばならなくなる。……私が彼女を視界から失うという不利益は、この国家の国家予算三年分に匹敵する損失だ」
ざわ……と、会場が別の意味で揺れました。
わたくしの手にも力が入ります。
「そして第三に! これが最大の不合理だ! 私が一生をかけて護り、慈しみ、同じ屋根の下で目覚めを共にするべき対象は……この、世界で一番可愛い双子の妹、リリアーヌ以外にあり得ないからだ!!」
お兄様は、神聖な誓いでも立てるかのような気高い表情で、わたくしをビシィッ!と指差しました。
「私は決めた。リリアーヌと結婚する。法が邪魔をするなら書き換え、神が禁じるなら世界を調律するまでだ。さあ、リリアーヌ! 婚約破棄を……ぐべっ!?」
わたくしは、気づいたらお兄様の綺麗な顔面に、全力の裏拳を叩き込んでいました。
「こ……このっ……!大馬鹿お兄様あああぁぁっ!!!」
「ぐふっ……!? り、リリアーヌ……いい……今のは、これまでにないほど、鋭く、完璧な……衝撃だ……」
床に転がり、鼻血を出しながらも、お兄様は恍惚とした表情でわたくしを見上げています。
冷徹な独裁者? 賢王の再来? 冗談ではありませんわ!
目の前にいるのは、
「エレナ様に謝りなさい! 今すぐ! 破棄の破棄ですわ!!でないと、わたくしの目の前から今すぐ永久追放ですわーっ!!」
「ううっ、だ、だって……だって私は、君がいないと生きていけないんだ……。エレナ、すまなかった、今の発言はすべて私の不徳だ……だからリリアーヌ、そんなに怖い顔で永久追放なんて言わないでくれ……!」
さっきまでの威厳はどこへやら。お兄様は情けなくわたくしのドレスの裾に縋り付き、子犬のように震えています。
会場の貴族たちは、もはや笑っていいのか泣いていいのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしていました。
会場の隅では、お父様が「ああ、やっぱりか……」と力なく笑いながら、ハーブティーを啜っていました。そしてその隣で、お母様は満足そうに微笑んで。
「あら。あの子のあの執着心、あなたの時より少しだけ効率を無視していて、とっても情熱的ですわね?」
「はぁ……アメリア、教育を間違えたよ。僕たちは」
「エレナ様に!どれほどの不名誉を!与えたと思っているのですっ!!こんなのっ!お詫びにわたくしがエレナ様の弟君に嫁ぎに行きますわっ!!馬鹿お兄様っ!!馬鹿お兄様ーっ!!!」
「そ……そんな!リリアーヌ……頼むから……私が悪かったから、どうかそれだけはやめてくれ……!」
「あ……あの、わたくしは大丈夫ですので、リリアーヌ様も落ち着いてくださいませ……」
わたくしは、お兄様の上に馬乗りになりぽかぽかと叩きながら、これからの人生、この史上最高に面倒臭い片割れをどう扱っていくべきか、遠い目をして考えるのでした。
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