第2話 慈愛の聖女は愛を語る

「……ふふ、殿下。そんなに震えないでくださいませ。こうして厳かな婚姻の誓いを終え、ようやく本当の意味で、わたくしたちは分かちがたく結ばれたのですから。わたくし、今この瞬間が、これまでの人生で一番幸せですわ。わたくしという存在が、これほどまでに満たされたことはございません」


 わたくしは、ソファの上で石像のように硬直しているエリオット殿下にしなだれかかりました。細く、けれど気品に満ちたその肩が、わたくしの薄いドレス越しに触れるたびに、小刻みに、そして激しく跳ねる。その、今にも凍りついてしまいそうなほど冷たくなった指先を、わたくしの両手でそっと包み込み、時間をかけて、慈しむように体温を分け与えて差し上げました。

 殿下は虚空を見つめたまま、浅く、早い呼吸を繰り返していらっしゃいます。瞬きさえ忘れたその美しい碧眼には、涙のような光が揺らめいている……。ああ、なんて愛おしい。これほどまでに、わたくしの存在を全身の細胞で意識してくださるなんて。この震えは、わたくしが用意したこの完璧な安らぎを前にした、魂の共鳴ふるえに他なりませんわね。


「ねえ、あの日、サロンでの出来事を覚えていらっしゃいますか? 今となっては、わたくしたちの絆を深めるための、少しだけ刺激的な余興のようでしたわね。……ええ、あの日から今日まで、わたくしはずっと確信しておりましたの。わたくしたちがいかにして、この完璧な、一分の隙もない幸福に辿り着く運命だったのかを」


   愛。


 それは、世界をより善きものに変えるための、もっとも美しく、もっとも純粋な原動力です。

 わたくし、アメリア・ローズは、そのことを幼い日に、殿下のその唇から学びました。


 わたくしがまだ五歳の頃、初めてお会いした殿下は、輝くような金髪をなびかせ、少しだけ困ったように笑う、それは可愛らしい王子様でした。当時の殿下は、庭園の片隅で日差しに焼かれ、枯れかけていた一輪の小さな名もなき花を見つめ、心を痛めていらっしゃいました。誰に聞かせるでもなく、けれど神に祈るように、悲しげに呟かれたのです。


『この花も、この国も、みんながずっと笑っていられるほど幸せだったらいいのにな』


 その瞬間、わたくしの中の何かが弾けました。

 ああ、なんて尊く、慈悲深いお方。わたくしの婚約者となる方は、これほどまでに清らかで、あまりに脆い理想を抱いていらっしゃる。

 ならば、その理想を形にするのが、隣に立つ者の義務ではありませんか。


 殿下のそのあまりに純粋な願いを、どうすれば現実のものにできるか。わたくしはその日から、王妃としての嗜み以上に、この世界を『調律』するための研鑽に明け暮れました。

 殿下が望まれた『みんながずっと笑っていられる世界』。その一途な夢を支えるために、わたくし、本当に一生懸命努力いたしましたのよ?

 殿下の周囲を汚す淀みを取り除き、不当な争いの芽を摘み、この国のすべてが殿下の理想通りに動くよう、わたくしが陰ながら整えて参りました。すべては今日、殿下にこの完璧な箱庭を献上するため……。

 ねえ、殿下。ご覧になって。

 あなたが望んだ平和な世界は、今、こうしてわたくし達の目の前にありますの。

 わたくしのこれまでの研鑽も、ささやかな苦労も、すべてはあなたのその笑顔を守るための花嫁修行。

 あなたがただ、そこで美しく微笑んでいてくださるだけで、わたくしは世界で一番幸せな乙女になれるのです。


 ……ふふ、殿下。わたくしの淹れたハーブティー、お口に合いますかしら? 殿下の好きな青い花を、わたくし自ら摘んで参りましたのよ。……まあ、そんなかわいらしいひゅー、ひゅーだなんて音を喉から出すだなんて。本当にかわいらしいお方。


 そういえば殿下、先ほどおっしゃった王都の奇病の件……。

 ええ、本当になつかしいですわね。

 お隣のバルバロス王国をご存知でしょう? あちらは昨年、凄惨な流行病で人口の三割を失いましたわ。わたくし、あちらの視察員から届いた報告書を読み、あまりの恐ろしさに夜も眠れませんでした。路地裏に積み上がる骸、泣き叫ぶ孤児、そして国力が衰退しきったあちらの無残な惨状……。もし、殿下の愛するこの国が、あのような悲劇に見舞われたら。殿下はどれほどお心を痛め、涙を流されるだろうか。そう思うと、わたくしの胸は張り裂けんばかりに痛みましたわ。

 王都でも病が流行し、人々が絶望に沈む中、わたくしが私産のすべてを投じた特効薬を配り歩いた時の光景、覚えていらして? 国民はわたくしを聖女と崇め、感謝の涙でわたくしの靴を濡らしました。

 代々受け継いだ宝石も、華やかなドレスも、領地から上がる莫大な収益も、一銭も残さず特効薬の材料に充てました。殿下の笑顔を守るためなら、わたくし、一文無しになっても、この身が泥に塗れても一向に構わなかったのです。


 そして何より、エリオット殿下の父君である国王陛下が、わたくしの両手を取り、震える声でこう仰ってくださったのです。


『アメリア嬢、君こそが我が王国の誇りだ。君のその、自らを省みない無私の慈悲こそ、次代の王妃にふさわしい。エリオットを支えられるのは、世界中で君しかいない』


 ……ああ、あの時のお言葉は、わたくしの魂を震わせる最高の旋律でした。

 王家が、陛下が、正式に認めてくださったのです。わたくしのこの、殿下への身を焦がすような献身が、唯一無二の正解であると。

 おかげで流行病の脅威は去り、国民の寿命は劇的に延び、我が国は病に屈しない不滅の楽園となりました。これほどまでに真っ当で、慈愛に満ちた効率的な救済が、他にありましょうか?


 ……あら? なぜそんなに顔を背けるのです?

 サンプルの散布の件……ふふ、殿下ったら。そんなこと、殿下の『みんながずっと笑っていられるほど幸せな国にしたい』という願いを叶えるための、ほんの少しの教育ではありませんか。

 あのおかげで、今や王都は見違えるほどに清らかな街並みとなりました。殿下の望む『病に怯えない国』を、わたくしのささやかな研鑽で整えて差し上げただけですわ。


 それから、先月の軍事大国バルカンの件……。

 ええ、あのお国の幼い王女様を救出するよう軍に指示したのは、わたくしです。殿下、あの時の民衆の涙を覚えていらっしゃいますか? 皆、わたくしの……いいえ、わたくしを妻に迎える殿下の慈悲深さに、心から感謝しておりましたわ。


 ……え? 経済を操作し、反乱軍に資金を流して内部崩壊させたのは誰かって?

 ふふ、わたくしですわね。

 だって殿下、放置すればあのお国は、いずれ我が国に侵攻してきたでしょう?

 わたくし、殿下の愛するこの国が戦火に包まれるなんて、絶対に許せませんもの。

 ですから、火種をわたくしが管理できる規模で爆発させ、あのお国を内側から整理いたしましたの。その上で、次期女王となる王女様に恩を売っておけば、今後あのお国が殿下に牙を剥くことは二度とございませんわ。


 これほど人道的で、効率的な防衛策が、他にありますか?

 戦わず、血も流れず、ただ少しの『調整』で平和を手に入れる……。

 あら……?バルカンでは血が流れている?何をおっしゃっているのですか?殿下。この国には関係ないことじゃありませんか。

 ねえ、殿下。

 殿下が夢見た、誰も傷つかない平和。

 不浄な争いを未然に防ぎ、救われた民衆に崇められる清らかな王。

 わたくし、殿下のあの日のお願いを、完璧に『管理』して差し上げましたわよ?

 わたくしのこの献身、殿下には、ちゃあんと伝わっておりますわよね?


 ……ふふ、どういたしましたか?殿下。そのように、わたくしを熱く見つめて……。あの日、サロンでの出来事を思い出していらっしゃるのね? わたくしもですわ。あの日、殿下が大勢の前で見せてくださったあの情熱的なお姿……今でも、宝石箱に大切に仕舞った真珠のように、何度も思い出しては胸を熱くしておりますの。


 あの日、王宮のサロンに響き渡った殿下の叫び。


『アメリア・ローズ公爵令嬢。君との婚約を白紙にさせてもらう!』


 くすくす……殿下ったら。あんなにも大きな声を出されて。

 あのお言葉の直後、わたくしを指差して『人の心がない』だなんて……まあ、あの時も本当におひどいことをおっしゃいましたわね。

 でも、わたくし分かっておりましたのよ?

 そんな酷い言葉を投げかけてまで、わたくしの視線を、わたくしの心を独占しようと必死になっていらした……あれこそが、殿下の純粋すぎる正義感が、わたくしの『研鑽』という名の献身に気付き、その重みに耐えかねて溢れ出した……愛ゆえの動揺でしたわね。


 そして殿下は、わたくしが陰ながら整えて差し上げたバルカンの件や、王都の衛生管理の件を、一つ一つ熱心に挙げていかれましたわね。

 殿下が『やっぱりお前かよ!!』と驚き、瞳を輝かせた・・・・・・瞬間。わたくし、胸が高鳴りました。わたくしが殿下のためにどれほど心を砕き、どれほど手を尽くしてきたか。それを、殿下はこんなにも詳しく、正確に受け止めてくださっていた。

 『人の心がない』だなんて……。ふふ、あの日、わたくしをそんな風に定義できるほどに、殿下はわたくしのことを、わたくし以上に深く見つめてくださっていたのですもの。これ以上の幸福が、他にございましょうか?


 けれど、殿下はガタガタと震えながらおっしゃいました。


『君の手のひらの上で、世界が書き換えられていく恐怖に私は耐えられない! 破棄だ! 私は自由になりたいんだ!』


 ……『自由』。

 その言葉を聞いた瞬間、わたくし、たいへん胸が痛みましたが、すぐに理解いたしましたの。

 ああ、殿下は不安でいらしたのね。わたくしというあまりに完璧な伴侶に守られ、甘え続ける自分を、これ以上許せなくなってしまった……そんな、あまりに高潔で、不器用な自立心の芽生え。


 ですから、わたくしは少しだけ、殿下に『真実』を問いかけて差し上げたのです。もし、わたくしが殿下の隣からいなくなれば、この美しい箱庭を誰が守り、誰が殿下の理想を形にするのか。

 ……そして、わたくし思ってしまいましたの。もし、わたくしがあなたの婚約者という立場を捨て、完全に自由な一個の力となれば。今のような『未来の王妃としての人道的な配慮』という、窮屈な制約すら脱ぎ捨てて、殿下の歩む道の邪魔になるものを、ただの雑草を抜く作業としてとして、より徹底的に、より苛烈に、根絶やしにして回れるのではないか……。

「誰もが笑っていられる世界」の邪魔になる不確定要素ひとを、一人残らず、速やかにこの世から間引まびきして差し上げられるのではないか、と。


『……そうですか。……本当に、破棄してよろしいのですか? 殿下。わたくしが、自由に行動出来るようになりますよ?』


 その瞬間、殿下の瞳に、かつてないほど強烈なさみしさが走るのを、わたくしは見逃しませんでしたわ。

 殿下の魂が、本能が、叫んだのです。

『アメリア、君なしで私に何ができるというんだ。行かないでくれ、わたくしを置いていかないでくれ』と。


『婚約破棄を、破棄する!! 撤回だ! 取り消しだ!!』


 なりふり構わず、わたくしのドレスの裾に縋り付き、涙を流しながら見捨てないでくれと叫ばれた殿下……。

 あのお姿を思い出すだけで、わたくし、今でも鼓動が早まってしまいますの。

 あの、万が一にもわたくしが離れていってしまわないように、必死に、必死に縋り付いてくださった……殿下からの、もっとも純粋で、もっとも無防備な『愛の甘え』。

 あぁ……なんて、なんて独占欲の強い、情熱的なプロポーズ!

 わたくしを一生、殿下の側から離さないと誓ってくださった。自分だけのものだと宣言してくださった。

 わたくし、あんなにも激しく求められたのは初めてで、胸の高鳴りが抑えられませんでしたわ。ほら、殿下……今でも、わたくしはこんなにもときめいてしまっております。


 『私が悪かった』とおっしゃいながら、わたくしの膝に顔を埋め、わたくしという存在の大きさを認めてくださった殿下。

 わたくし、その震える肩を抱きしめた時、本当の意味で殿下と一つになれたのだと確信いたしました。ああ、このお方はようやく、わたくしの愛という名の揺りかごに、身を委ねる決心をしてくださったのだわ、と。


 賢明なご判断ですわ、殿下。

 わたくしという伴侶を得たあなたは、もう、何にも怯える必要はないのです。

 あなたがただ、そこで美しく、安らかに微笑んでいてくださるだけで、この世界はいつまでも、完璧に幸せなままなのですから。


 ねえ、殿下? ……愛しておりますわ。

 ですから殿下、どうぞ安心してくださいませ。

 わたくしはもう、どこへも行きません。

 殿下が望まれた通り、わたくしは一生をかけて、殿下の腕の中で……『国家の生贄』としてあなたを支え続けますわ。


 ……あら、殿下? 今、力なく笑って、何とおっしゃいました?


『生贄……?……そうか。王とは……国家という名の怪物を生かすためだけに、心を捧げ続ける生贄なのだな……?』


 ふふ、まあ! なんて詩的で、気高い覚悟でしょう!

 ええ、ええ、その通りですわ。あなたは世界を、そしてわたくしの運命を、その手で抱きしめることを選んだのですもの。

 自らを国家のための尊き供物として平和を贖う……そんな献身に満ちた愛おしいお姿、わたくし、たまらなく心惹かれますわ。


 殿下、どうぞご理解くださいませ。

 わたくしがあなたの隣にいて差し上げている。ただそれだけのことで、この世界はこれほどまでに穏やかで、色彩に満ちているのです。

 わたくしたちがこうして睦み合い、愛し合っていることが、この国の呼吸そのものなのですわ。

 殿下がわたくしの愛を享受し、そのお心を惜しみなく捧げてくださるからこそ、わたくしはこの世界を、あなたの望む『美しい箱庭』のまま保って差し上げられる。……そう、あなたのその、わたくしへの真っ直ぐな想いこそが、この国の幸福を維持する尊い礎なのです。

 殿下、ご覧になって。あの日、あなたが涙を流されたあの花と同じ色ですわ。……ふふ、あんなに悲しまなくても、もう大丈夫。わたくしがこの世界を、あなたを悲しませるもののない、永遠の青い庭に変えて差し上げましたから……


 さあ、夜も更けて参りました。今夜はもう、ゆっくりとお休みになりましょう。

 冷え症の殿下のために、わたくし特製のハーブティーを淹れましたのよ。

 ふふ……ええ、それだけで十分ですもの。

 今の殿下には、わたくしの言葉以外、何も必要ありませんでしょう?

 ……あら?お口をパクパクするだなんて、なんて可愛らしい。はい、スコーンですわ。あーんとしてくださいませ。

 ふふ……涙を流すぐらいに美味しかったのですわね。まだまだございますので、たーんと召し上がってくださいな。


 愛しております、エリオット殿下。

 この殿下の好きな青い花の花言葉は『栄光』。わたくしがそばにいる限り、永遠の『栄光』を約束いたしますわ。

 明日も、明後年も、歴史がわたくしたちを分かつその時まで。

 ずっと、わたくしの隣で、幸せに溺れていてくださいませ……。

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