第9話:絶望の涙と、聖なる響き『主人』

(――ッドォォォォォォォォォォンッ!!!!!)


トップブリーダー・かおりに「メッ!」とされ、完全に「お座り」状態の翔。


その背後で、腰を抜かしていたスカウトマンが、震える手で名刺を差し出した。


「あ、あの……! 店長さん、本当にお願いします! 翔さんと一緒の誌面を見て、あなたにしか表現できない『癒やし』を確信したんです! ぜひ、モデルを……!」


翔の背中からドス黒いオーラが立ち昇るが、かおりの視線を気にして必死に抑え込んでいる。


(翔の脳内・独占欲の断末魔:……ダメだ、断れッ! かおりッ!! モデルなんてなったら、もっと多くの不届き者にその笑顔が晒されてしまうッ!! 俺の心臓はもう、パルクールで百階建てのビルから飛び降りるよりバクバク言ってるんだァァッ!!)


だが、かおりは小首を傾げて、ふわりと微笑んだ。

「……モデルさんですか。はい、喜んで!」


(――ッドォォォォォォォォォォンッ!!!!!)


翔の頭上に、巨大な絶望の岩が降り注いだ。 

「……ッ!? か、かおり……今、『喜んで』って……」


翔の目から、大粒の涙が溢れ出した。


世界王者、加藤翔。数々の激闘でも一度も流さなかったその涙が、ボロボロと床を濡らす。


「かおりが……かおりが遠くに行ってしまう……ッ。光り輝く世界に行って、俺のことなんて『重たい大型犬だわ』って捨てちゃうんだぁぁぁッ!! 嫌だッ! 嫌だぁぁぁかおりィィィィィッ!!」


(翔の脳内・大洪水:……終わった。俺の人生、ここで完着(終了)だ……ッ。かおりのいない人生なんて、足場のない空間を跳ぶようなもの……ただ墜落するだけだァァァッ!!)


声をあげて泣きじゃくる猛獣(大型犬)の姿に、スカウトマンも佐々木さんも引き気味で見守る中、かおりが優しく、だが凛とした声で続けた。


「――ただし、条件があります。『主人』と一緒なら、引き受けます」


ピタッ。


翔の涙が止まった。それどころか、時が止まった。


「……今、なんて?」

「私一人じゃ不安ですし、何より、私の隣は『主人』さんが一番似合うと思うんです。ね? 一緒にいいでしょ?」


(――ッドォォォォォォォォォォォンッ!!!!!)


衝撃波。それも、宇宙を再構築するレベルの至福の衝撃波が、翔の全身を駆け抜けた。


(翔の脳内・昇天:……し、しゅ、しゅじん……ッ!! 今、俺のことを、外の人に向かって『主人』と呼んだかッ!? それはつまり、公的に、社会的に、俺が加藤かおりの唯一無二の伴侶であると、その愛らしい唇でビルドアップ(宣言)したということかァァァッ!!)


悲しみの涙は一瞬で蒸発し、代わりにダイヤモンドよりも輝く「歓喜の涙」がドバドバと溢れ出した。


「受けるッ!! 受けるぞォォォッ!! 何でも撮影してくれッ!! 24時間365日、俺とかおりの密着ショットでも構わんッ!! なぜなら俺は、この女神の『主人』だからだァァァッ!!!」


あまりの落差。あまりの豹変。


あまりの「チョロさ」に、ジム内には深い溜息と呆れ顔が広がった。


「……悲劇から喜劇への着地が速すぎるだろ」と佐々木さん。

「……はっはっは。さすがは世界王者。感情のパルクールも超一流ですな」と田中さん。

世界最強の男は、たった一言の「聖なるバフ」によって、この上ない幸福へと跳躍したのだった。


(リトル翔の実況:ッドォォォォォォォォォォンッ!!!!! 見たかッ! 絶望の淵から『主人』という聖なる言葉一つで、エベレストの頂上まで一気に駆け上がったこの跳躍をォォォッ!! 涙の色が、灰色から黄金色に変わる瞬間を俺は見逃さなかったぜェェェッ!!! 翔さん、アンタもう『主人』って呼ばれるたびにIQがパルクールでどっか飛んでいっちまってるぞォォォォォッ!!!))

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