三
「治せるかもしれない医者を見つけました」
主治医がそう言った時、亜実よりも私のほうが目を見開いていたと思う。
「旧友なんですけど、先日たまたま会ったときに症状をお話しまして。あ、もちろん個人情報まではお伝えしていませんよ。岡山で開業医をしているんです」
頭に思いついたことをそのまま話すように、主治医が言葉をつなげる。
おかやま。
亜実が小さな声で呟いた。
「本当に治るんですか?」
自分でも驚くくらいに興奮していた。亜実が治るかもしれない。そしたら、きっと普通の生活が送れる。また大学にも行ける。
私の高揚に反して、主治医は冷静に答えた。
「保証は無いと言っていました。ただ、診てみることはできる、と。紹介状を書きましょうか?」
亜実の顔を見る。亜実は眉間にしわを寄せて、地面をじっと見つめている。その瞳には明らかに不信感が漂っているのがわかる。
主治医も、私も、亜実の答えを待った。
十秒ほど無言の時間が流れて、主治医が助け舟を出す。
「紹介状、とりあえず書くだけ、でもいいですよ。まー、遠いですからね、悩まれるのもわかります。行くかどうかはゆっくり考えて、ご都合の良い時で結構ですから、ね?」
その言葉に、亜実はようやく、こくりと小さく頷いた。
ローテーブルの上に置かれたコンビニのチーズケーキとプリン、そして「山本先生御侍史」と書かれた長封筒を挟んで、私たちは向かい合う。プリンの蓋を開けた亜実に、私は言葉を投げた。
「行こうよ、病院」
亜実は紹介状をじっと見つめたまま、プリンを小さくすくって口に入れる。無言でプリンを食べ続けて、中身がカップ半分くらいになった頃、亜実はようやく、ぽつりと言った。
「治らないよ」
「行ってみないとわかんないじゃん」
「むりむり」
「なんで?」
「絶対意味ないって」
何の根拠もなく、亜実はただ否定的な言葉を並べる。
「それでも、可能性があるなら試してみないと」
私の言葉に亜実は返事すらせず、また黙ってプリンを食べ始めた。
亜実が疑う気持ちもわかる。たしかに、治る根拠が無いのに、ほんの少しの診察のために何時間もかけて岡山まで行くのは面倒だ。それに、いつ吐くかわからない中での長時間の移動はストレスにもなる。だから、亜実はずっと旅行にすら行きたがらなかった。
亜実は今まで「治るかもしれない」という言葉に何度も騙されてきた。
私はなんとか亜実の病気を治せないかと、いろんな病院を調べては一緒に足を運んだ。大きな病院、小さな開業医、怪しいクリニックにも。「治せます」と自信満々に言った医者もいた。だけど、そんな医者も最後は吐き気止めを処方することしかできなかった。「病院めぐり、もうやめたい」と亜実が言ってから、私は病院を探し回るのをやめた。
亜実の写真吐きは若干の食道炎を引き起こすだけで、それこそ食事とか呼吸とか、あるいは買い物の仕方、家電やスマホの使い方といった、生活上必要な記憶は無くならない。だから、治らなくても生きていける。それも亜実を迷わせる理由になっていると思う。
「なこちゃんはさ」
カップの底に残ったプリンの欠片をすくいながら、亜実が言う。
「あたしが治ったらうれしい?」
何かを期待されているような、不思議な問いかけ。そんなの、答えを考える必要すらない。
「嬉しいよ。今まで大変だったじゃん、その病気のせいで。治ったら大学だってまた行けるようになるかもだし」
「いや、そうじゃなくて」
亜実は空になったカップを机の上に置いた。
「私に治ってほしい? なこちゃん自身がそう思ってる?」
その質問の真意がわからず、私は亜実を見た。
「治ってほしいよ」
それは自分の言葉じゃないみたいだった。自分で言っておいて、違和感を感じた。
治ってほしい。吐かなくなって、記憶も失わなくなって、何も怖がらないで、困らないで生きてほしい。そう願っているはずなのに、どこか、何かが引っ掛かっている。
亜実が治ったら、私はもう亜実の家に来なくてよくなるし、吐いた時の介抱も、家の手伝いをする必要もなくなる。亜実は大学に通い始めて、また前みたいに明るくなって、いろんな人と話して、きっと友達もたくさんできる。それは素晴らしいことに違いない。
でも、そんな生活を今さら想像できない。幼い頃から私は亜実を支える生活しか送ったことがないから。亜実を支える必要が無くなったら、私の生活から亜実は消えてしまうのだろうか。
治ってほしい? 心からそう思ってる?
自分に問いかけてみる。
「治ってほしいに決まってる」
ひとりごとのように言ってみる。それでも、何かが私の中で腑に落ちない。それが何なのか、今の私にはわからない。
私の言葉を聞いているのかいないのか、亜実は空になったカップを覗きこむようにうつむいた。亜実が迷っていることはわかる。でも、迷っている本当の理由が何なのかまでは、その表情からは読み取れない。こんなに長く一緒にいるのに、今でも亜実の考えはわからないことばかりだ。
しばらくの沈黙の後、亜実がもう一度、紹介状に視線を投げる。
そして、ぽつりと言った。
「行こっかな」
本当に行きたくなったのか、渋々なのか、その声色からはわからなかった。
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