二
夏の始まり、明るく清々しい青空の下でゆるやかな坂道を登る。住宅の隙間を吹き下ろしてくる風は気持ち良いけど、坂道を登っていると体が熱くなり、だんだん汗ばんでくる。
亜実の下宿は米城駅から歩いて十分ほど、丘の上の静かな住宅地にある。冬場の空気が澄んでいる時には、建物のすき間から横浜の港町と海が見えることもある。
坂道を登りきって、車がギリギリ一台通れそうな路地を抜けると、亜実が住んでいるマンションが見えてくる。三階建てで、ひとつの階に三部屋しかない。一階は倉庫になっていて誰も住んでいない。
ところどころひび割れた外付けの階段を三階まで登り、薄暗い廊下を一番奥まで進む。一応ドアをノックして、声をかける。
「亜実ー」
いつも通り返事は無くて、私は合鍵を使ってドアを開けた。
電気がついていない部屋、カーテンは開いていて、外から入る光で部屋の中は控えめに照らされている。
「なこちゃん」
私を呼ぶ声がする。「加奈子」だから「なこちゃん」。亜実専用の、私のあだ名。そう呼ばれるたびに、まだ私のあだ名が忘れられていないことに安堵する。
声が聞こえたほう、ユニットバスの中を覗き込むと、そこには便器の横に尻もちをついてうなだれている亜実がいた。便器の中、土色の吐瀉物の中にくしゃくしゃに丸まった写真が埋もれている。
その光景を見た私の体は、何も考えなくても無意識に動く。キッチンに行き、コップに水道水を入れ、戸棚の中からビニール袋とポリエチレン手袋を引っ張り出す。コップの水は亜実に渡し、背中をさすってあげる。
「大丈夫?」
「ん」
亜実の様子が落ち着いていることを確認したら、ビニール手袋に手を通して、便器の横に置いてあるトングで写真を拾い上げる。写真は水道水で汚れを洗い流してから、一度アルコールで消毒して、中性洗剤で手洗いする。キッチンペーパーで水気を拭いて、もう一度アルコールで拭く。写真の材質が何なのかはわからないけど、この作業で印刷が消えてしまうことはない。
幼い頃から何度も何度も繰り返してきたこの動作は、もはや他のことを考えながらでもできるようになっている。
写真には、ふたりの人が映っていた。どこかの店だろうか、商品棚やレジカウンターのようなものも背景に見える。
「昨日どこか出かけた?」
私が聞くと、亜実はベッドのうえに座り、気だるげに髪をかきあげながら答えた。
「コンビニ行った、夜、なんかアイス食べたくて」
なるほど。言われてみれば、写真の背景はコンビニの店内に見える。
「あの期間限定のやつ? 亜実が食べたいって言ってた、紅茶バニラの」
「そうそう、めっちゃうまかった」
亜実が嬉しそうに笑う。
「電話くれたら買いに行ったのに」
「めっちゃ夜中だったもん、さすがに悪いよ」
写真について、私はそれ以上何も聞かないことにした。きっと、コンビニでこの二人がたまたま目について記憶に残っていただけだろう。これは無くしたら困るような、大した記憶じゃない。
私は本棚からクリアファイルを取り出して、写真をポケットの中に入れた。
「なこちゃん、抹茶のやつ好きだよね。買って帰ろかなーって迷ったんだけど」
「いいよ、いま甘いもの控えてるし」
話しながらローテーブルの上に置いてあるピルケースに目を向ける。ケースの中の薬は決められた通りに減っていて、明日の朝には無くなる。
「十時だよね、明日の病院」
「そー」
「吐いた回数、ちゃんと書いてる?」
「書いてる書いてる」
ピルケースの横に置いてある手帳を開くと、日付ごとに写真を吐いた回数が正の字で書かれている。今日一回、その前は四日前に一回。ここ数ヶ月の吐く頻度は一週間に一、二回程度で、あまり多くない。
亜実は大学生になってから、また病院に通い始めた。というよりも、私が病院に行くように説得した。
一年生の頃に教室で吐いてしまってから、亜実は大学に行かなくなった。私はできるだけ亜実が嫌がらないよう、本人の希望を最大限に聞きながらも、病院に行くことを勧めた。亜実には元通り大学生活を楽しんでほしかったし、このまま亜実が何もできないまま時間が過ぎていくのはあんまりだと思ったから。亜実は納得したのか、あるいは諦めたのかはわからないけど、最後は首を縦に振ってくれた。
私と一緒にいくつかの病院を巡り、今は気に入ったクリニックに隔週で通っている。だけど、治る見込みなんてない。処方されるのは吐き気止めと胃薬だけ。それでも、飲まないより気分は良いらしい。
「夕飯何にする?」
「あんま食欲ない」
「おかゆにしとこうか」
そう聞くと、亜実は「ん」と声を上げながらベッドの上に寝転がった。
私はいつも通り、部屋の掃除を始める。落ちたままになっているゴミを捨て、フロアワイパーで拭き掃除をする。大学に通っていた頃は足の踏み場もないくらい散らかっていたのが、休学してからは部屋のモノも自然と減っていった。
一通り掃除が済んだら夕飯の準備。と言っても、大したことはしない。ストックしてあるおかゆのパウチを皿に移して、レンジで温めるだけ。亜実は卵が好きで、私は鮭にした。
キッチンの音を聞いたのか、亜実がのそのそと起きてくる。
「何か手伝う?」
「ん、大丈夫」
窓の外はすっかり明るさを失い、私は部屋の電気をつける。二人分のお皿を運んで、ローテーブルの上に並べた。
ご飯を食べている時はあまり話さない。私がときどき大学のこととかバイト先のことを話して、亜実が相槌を打つ。それだけ。週に一回は会っているから、話すことも無くなってくる。
小さい頃の亜実はもっとおしゃべりだった気がする。授業で習った外国のこととか、日本の地理とか、そういうことを嬉しそうに話していた。誰とでも分け隔てなく接して、初対面の人でもすぐ仲良くなれるのが亜実の良いところだった。
吐いて、記憶を無くす。
それを繰り返すごとに、亜実は亜実じゃなくなっていった。
今は人と会ったり話すことを避けて、私の前ですら楽しそうに喋ることはほとんどない。
「ごちそうさま」
お皿を持って立ち上がろうとした亜実を静止する。
「いいよ、置いといて。片づけるから、シャワー浴びてきなよ」
亜実は少し迷うようなしぐさを見せた後、「ありがと」と言って皿を元の位置に戻した。
夕飯を食べたら、交互にシャワーを浴びて、寝る準備をする。亜実の家に泊まる時は、いつも床に座布団を敷いて、上から薄いブランケットをかけて寝ている。寝心地は悪くないけど、翌日どうしても背中が痛くなる。
これが、亜実の家で過ごす一日。毎週水曜日、大学の講義が午前だけで終わってバイトも無い日は、こうやって様子を見に来るのが私の習慣になっている。幼いころから、ずっと続く習慣。きっと、これからもずっと続いていく。亜実のためになるなら、私はそれでいいと思う。
「おやすみ」
部屋の電気を消す前に、私はベッドの上で丸くなった背中に声をかけた。
「おやすみ」
小さな返事が返ってくる。まだ亜実の手元ではスマートフォンが光っているけど、私は電気を消して、ブランケットの中にもぐりこんだ。
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