第4話 姉妹

 重い身体を引きずって、藍は姉の元へと向かった。呼吸は荒い。激痛が苛む。傷口から溢れ出す血が止まらない。

 ――もう、あまり猶予は無い。


「お姉ちゃん」


 掠れた声で、姉を呼んだ。

 姉はいつものように、ベッドに繋がれたまま藍を見た。


「お姉ちゃん……ごめんね。失敗、しちゃった」


 失敗した。いつものように連れ込んだ男に睡眠薬を与えて殺害するつもりが、今度の男は薬の効きが悪く、途中で目覚めて反撃されてしまった。

 揉み合いになり、何とか男の息の根を止めたが、藍まで深手を負ってしまったのだ。

 藍は己の死が間近に迫っていることを悟り、最後に一目、姉に会いに来たのだった。


「私、もう……駄目みたい」


 だから――。

 姉を拘束する枷を外す。不思議と、姉はいつものように唸ることはせず、藍が近付いても大人しくされるがままになっていた。

 手錠を外して姉を解放すると、藍は姉に向けて両腕を広げた。


「私を食べて」


 せめて、最期は姉と一緒に――姉の中で、一つになろう。

 藍は想像した。この身が姉に食いちぎられて、消化される。姉の中で、溶けて混ざり合い、新たな血となり肉となり、永遠に共に在り続けるのだ。

 ――それは、とても幸福なことのように思えた。

 そうなった時、初めて自分が赦されるような気がした。

 

 覚悟を決めて目を瞑ったが、予想した衝撃がいつになっても訪れなかった為、藍は怪訝に思って目を開けた。

 ――そこには、信じられない光景があった。

 姉が、悲しげに微笑んでいた。

 その澄んだ瞳には、確かな知性が感じられる。姿も在りし日の美しい姉のままだ。


「……もういいの」


 桜色の唇を割って、姉が厳かに言葉を紡いだ。


「もういいのよ、藍」

「……お姉、ちゃん?」


 ――お姉ちゃんだ。

 間違いない。ゾンビになってしまう前の、藍がよく知る大好きな姉だ。


「元に……人間に戻ったの!?」

「藍が頑張ってくれたからね」


 姉は柔和な笑みを刻み、藍を優しく見つめた。


「藍が私の為にしてくれたこと……ちゃんと覚えてるよ。あんな風になっていた時も、意識はあったの」


「ありがとう」と、姉は告げた。


「ありがとう、藍。苦労をかけて、ごめんね」


 みはられた藍の瞳が、潤んで揺れる。しかし、それを振り切るように、藍は首を左右に振った。

 ――違う。


「違うの。私はお姉ちゃんにお礼を言われるような資格は無い」

「藍?」

「苦労をかけてきたのは、私の方だよ。私、ずっと謝りたかったの。私の存在が、お姉ちゃんの負担になってること、知ってて何も出来なかった」

「そんなこと……」

「それだけじゃない。私……本当は、知ってたの。叔父が、お姉ちゃんにしてること」


 沈黙が降りた。

 急な静寂に、今日も降り注ぐ外の雨音が微かなノイズとなる。


 藍は知っていた。

 叔父の家で共に暮らしていた幼い頃、夜中にふと目が覚めてトイレに立つと、叔父の部屋から姉の声が聞こえてきたことがあった。

 その扉の向こうで、何が行われているのか――好奇心に負けて、覗いてしまった。


「私、知ってたのに……っ」


 恐ろしくて、忌まわしくて、藍はその記憶を自ら封じ込めた。――無かったことにしてしまった。

 しかし、叔父を見ると嫌な気分になるし、時折見たことのない、あるはずのない光景が脳内でフラッシュバックすることがあった。

 それが、実際の記憶だとは、思いもせず――いや、違う。本当はずっと、分かっていた。分かっていて、知らんふりをしていたのだ。


「ごめなさい、お姉ちゃん」


 あの時、逃げてしまって……弱い妹で、ごめんなさい。

 ずっと、謝りたかった。――なのに、姉は死んでしまった。

 謝ることも、救うことも出来ないまま。


「ごめんなさい……っ」


 絞り出すように告げ、藍は頭を下げた。姉の顔が見られなかった。きっと、失望された。嫌われた――そう思っていたのに。

 不意に、柔らかな感触に包まれる。息を呑んで目を開くと、藍は姉の腕の中に居た。――温かい。ちゃんと体温がある。息をしている。

 

 生きている。姉が、生きている!


「私も藍が知ってたこと……知ってたよ」


 姉の告白に、藍は身を固くした。しかし、姉は変わらぬ優しい声音で、藍の耳元に囁いた。

 

「でも、いいんだよ。藍が自分を責める必要は無い。悪いのは、全部アイツなんだから。藍は何も悪くない」


 何も悪くない――。

 ずっと、そう言って欲しかったのかもしれない。

 

 藍は今度こそ涙を堪えることが出来なくなった。次から次から、溢れ出しては止まらなくなる。

 嬉しいのか、悲しいのか、分からない。けれど、ずっと抱えていた重たい十字架を一つ、下ろしたような気分だった。

 

 滲んだ視界が徐々に狭まり、暗くなる。音が、世界が、遠ざかる。

 いつの間にか痛みは感じなくなっていた。安堵したせいか、異様に眠気も襲ってきている。

 ――ああ、そうか。もう終わりなんだ。

 この生命の灯火が、尽きようとしている。

 だけど、怖くない。思い残すこともない。姉はもう大丈夫だ。姉に見送られながら、姉の腕の中で逝けるのなら、最高の人生だ。


「おねぇ、ちゃん……」


 動かない唇から、ぽつりと零す。


「だいすきだよ」


 見えない視界の中、姉が微笑わらってくれた気がした。

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