第二章「風の姉妹」
私が生まれたのは、2006年の夏の終わりだった。
蒼流市は、東京から新幹線でおよそ五十分。海風と山風が交わる街である。南には蒼流湾がひらけ、北には標高九十メートルほどの風の丘が街を見下ろしている。二級河川の蒼流川が丘の麓を流れ、木風川と楓ヶ瀬で合流する。春と秋には桜並木が美しく、頂上からは市街地を一望できた。
古くから交通の要衝として栄えたこの街には、明治以降、多くの文化人や実業家が移り住んだ。風の丘の南麓は邸宅街として知られ、静かで風通しの良い環境が好まれた。「風の街」と呼ばれる蒼流市は、音楽家や作家に愛される街でもある。
朝霧家と篠原家は、どちらもこの蒼流で名の知れた家だった。私の家は、風の丘の南麓に建つ白亜の洋館で、庭越しに市街地を見下ろせる。音楽を愛した曾祖母が大切にしていたオーストリア製のグランドピアノが、かつて広い音楽室に置かれていたという。曾祖母が亡くなり、祖母も旅立った後、そのピアノは蒼流女子学院の講堂に寄付され、いまも学生たちに使われている。私も式典の伴奏などで何度か弾いたことがあるが、音の芯が強く、響きが少し冷たい。繊細なタッチを求めると、すぐに反発されてしまうような楽器だった。
私の記憶にある自宅のピアノは、母が選んだヤマハのS6だった。けれど、私が全国大会に出るようになった頃――東京の本選で偶然弾いたホールのピアノがCFXだった。それが日本で一番良いピアノらしいと耳にした父が、ピアノ教師にも相談せず、S6を軽井沢の別荘に移設し、フルコンサートグランドCFXを買い与えた。
家族には「投資だ」と言っていたけれど、今になってみると、誰が見ても完全に親バカだったと思う。けれど、その音の透明さと力強さは、楓ちゃんと私の記憶のすべてを吸い込むようだった。私たちはそのCFXを、「風のピアノ」と呼び、まるで生きている誰かのように大切にしてきた。
蒼女の講堂にあるベーゼンドルファーも、式典や記念演奏でそれなりに弾く機会がある。けれど、あのピアノは鍵盤の重さも音の反応もまるで別の生き物のようで、どうしても好きになれない。音が深すぎて、触れるたびにこちらの感情が飲み込まれてしまいそうになるのだ。
私にとって「風のピアノ」は、楓ちゃんの次に大切な味方だった。
篠原総合病院は、もともと戦前の旧帝大附属悪性腫瘍研究分院を、終戦直後に楓の曾祖父が民営化したもの。一族は代々「命を扱う家」として蒼流に根づき、戦後復興期から地域医療を超えた拠点病院として発展した。一般的な診療科に加え、がん・血液疾患・緩和医療に特化した診療科を備え、院内には小児がんセンターと骨髄移植センターがあり、全国から患者と医師が集まる。研究棟には国際共同プロジェクトの表札がかかり、最新の分子標的治療や免疫研究が進められている。現院長の篠原の叔父様(楓ちゃんのお父様)は、悪性腫瘍全般の権威でありながら、音楽療法室の設立者でもある。演奏ホールと屋上庭園を兼ねたスペースで、週末には院内コンサートが開かれる。幼い楓ちゃんと私が、そこで最初に人前で演奏したも自然な流れだろう。
篠原家は病院隣接の邸宅に住んでおり、白壁と杉板を組み合わせた和洋折衷建築。応接室のステンドグラス越しに、桜並木が見える。庭には、篠原のひいお爺様が京都から移植した枝垂れ桜が一本あり、春には病室からも眺められるよう設計されている。家の中は無菌に配慮された清潔な空気で、階段の手すりには温かな木の手触りが残る。応接間には ヤマハS4グランドピアノがあり、楓ちゃんはあまり熱心ではなかったが、たまに鍵盤を叩く姿を目にしていた。ピアノの響板の裏には、叔父様の筆跡で『音は、治癒に似ている』と小さく書かれた紙が貼られている。
朝霧家の風は高く澄み、篠原家の風はやわらかく温かかった。
二つの家は、大人の足で歩いて約十分だったが、幼かった頃は、専用の車に乗っていつでも行き来していた。
◆◇◆
私の最も古い記憶は、二歳の春のことだ。
風の丘の草地で、楓ちゃんと二人でシャボン玉を追いかけた。春風に舞う虹色の球体が光を弾いて、空に溶けていく。小さな手を伸ばして、私たちは笑いながら駆けた。
「さやちゃん、まって」
楓ちゃんのかわいい声が風に混じる。振り返ると、楓ちゃんが小さな手を広げて立っていた。
「かえでちゃん」
私は駆け戻って、楓ちゃんの手を握った。柔らかくて温かい手。握ると安心する。
「いっしょ」
「うん、いっしょ」
二人で手を繋いで、またシャボン玉を追いかけた。
後で母に聞くと、楓ちゃんも同じ日のことを覚えていたという。丘の上で、青い空と風、シャボン玉と繋いだ手の温もり。それが私たちの最初の記憶だった。
それから、私たちはいつも手を繋いで歩くようになった。
朝霧家の庭を歩く時も、篠原家の廊下を歩く時も、風の丘を散歩する時も、手を離さなかった。片方の手が空いている時は、必ずもう片方の手が相手と繋がっていた。
繋いだ手からは楓ちゃんの温もりが伝わる。それは私にとって、世界で一番確かなものだった。嬉しいことがあると抱き合って笑い、悲しいことがあると抱き合って泣いた。喧嘩することはあまりなかったが、抱き合えばすぐに仲直りできた。
楓ちゃんのいない世界など、想像できなかった。
私を知る人たちは、皆そんな私たちを微笑ましく見守ってくれた。
物心がつく前から、私たちは双方の家を頻繁に行き来していた。
朝、目が覚めると楓ちゃんが隣にいることもあれば、楓ちゃんの家のベッドで目覚めることもあった。どちらの家でも「ただいま」と「おかえり」を言い、お手伝いさんや母たちは笑顔で迎えてくれた。
「さやちゃん、おはよう」
楓ちゃんの声で目が覚める朝は、特別に優しい気持ちになった。目を開けると、楓ちゃんが私の顔を覗き込んでいる。黒い瞳が近くて、少しくすぐったい。
「おはよう、かえでちゃん」
私が笑うと、楓ちゃんも笑った。そして小さな体を寄せてきて、ぎゅっと抱きしめてくれる。楓ちゃんの体は柔らかくて温かくて、いい匂いがした。
「だいすき」
楓ちゃんが耳元で囁く。
「わたしも、だいすき」
私も楓ちゃんを抱きしめ返した。こうしていると、世界中で一番幸せだと感じた。
◆◇◆
私たちは三歳になった。その頃、私はピアノを始めた。先生は母の遠縁で、母より少し年上の優しい先生だった。最初は遊びのようだったが、鍵盤を叩くと音が出るのが楽しくて、毎日ピアノの前に座った。家にはYAMAHA S6があり、私の小さな手でも届く鍵盤が嬉しかった。楓ちゃんも同じ時期にピアノを始めた。
でも、楓ちゃんは、あまり楽しそうではなかった。
「さやちゃんのみたいに、きれいないろ、みえない」
ある日、楓ちゃんがぽつりと言った。私にはよく分からなかったが、困ったような顔をしているのは分かった。だから私は楓ちゃんの手を握って、頬に自分の頬を寄せた。
「ぴあの、すきじゃない?」
「うん……でもね、さやちゃんがひいてるの、きくのはすき」
「ほんと?」
「うん。さやちゃんのおとは、きれい」
楓ちゃんが、少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、かえでちゃんは、わたしのとなりできいててね」
「うん」
それでも、楓ちゃんはピアノを続けた。私ほど熱心ではなかったけれど、レッスンにはちゃんと通って、一緒に練習した。私がピアノを弾くと、楓ちゃんはいつも隣に座って聴いていた。
「さやちゃんのおとは、あおいいろ」
楓ちゃんが、そう言ってくれた。
◆◇◆
2010年春、私たちは蒼流女子学院の附属幼稚園に入園した。制服は紺の襟がついた白いセーラー服に、紺のプリーツスカート。サファイアブルーのスカーフを首に巻き、白いハイソックスに黒いローファーを履く。コートは自由だったので、冬は楓ちゃんとお揃いの紺色のコートを着た。髪はまだ短く、二人とも肩には届かなかった。楓ちゃんの髪は真っ黒で艶やかで、朝の光に照らされるととても綺麗だった。通園は運転手さんの車で、楓ちゃんと一緒だった。後部座席でいつも手を繋いで、車窓の景色を眺めた。蒼流川の水面がきらきら光るのを見ながら、楓ちゃんが小さな声で歌を歌ってくれた。優しい歌声で、聴いているだけで幸せな気持ちになった。
幼稚園では、歌を歌い、粘土で遊び、外で走り回った。お遊戯の時間には、半袖の白いTシャツと紺のショートパンツ、白いスニーカーに着替えた。教室でも園庭でも、私たちはいつも一緒だった。
「さやちゃん、こっちきて」
楓ちゃんが手招きする。私は駆けていって、隣に座った。
「なに」
「あのね、これ」
楓ちゃんが粘土で作った小さな青い花を見せてくれた。
「きれい」
「さやちゃんにあげる」
「ありがとう」
私は楓ちゃんを抱きしめた。頬と頬が触れ合う。少しひんやりしていた。
「だいすき」
「わたしも」
お弁当の時間も、お昼寝の時間も、いつも一緒だった。お弁当箱を並べて同じものを食べ、お昼寝では布団を並べて手を繋いで眠った。楓ちゃんの寝息が聞こえると、私も安心して眠れた。
ある日の午後、園庭で遊んでいた時のことだ。私が砂場で山を作っていると、楓ちゃんが後ろから抱きついてきた。
「さやちゃん」
「かえでちゃん」
私は振り返って抱きしめた。小さくて温かい体は、抱きしめるとぴったり収まった。
「ずっと、いっしょだよね」
耳元で囁く。
「うん、ずっといっしょ」
「やくそく」
「やくそく」
頬にキスを交わすと、クラスメートの女の子たちが嬉しそうに笑っていた。
「さやちゃんとかえでちゃん、なかよしだね」
「うん、なかよし」
私は楓ちゃんの手を握って、皆に笑いかけた。
◆◇◆
五歳の秋、楓ちゃんが初めて私のために物語を書いてくれた。題名は「かぜのおはなし」。『大事な紙』に、鉛筆で丁寧に書かれていた。
十一月のある日、冷たくなる風に吹かれて、私は少し機嫌を損ねていた。
「かぜさんが、いじわるするの」
園庭で頬を膨らませると、楓ちゃんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの、さやちゃん」
私はふと思いついて尋ねた。
「ねえ、かえでちゃん。かぜさんはどんなきもちでふいているのかな。いじわるなのかな」
「うーん、うーん」
楓ちゃんは小さな眉をひそめ、空を見上げて考え込んだ。
「わかんない……でも……」
楓ちゃんが私の手を握った。
「さやちゃん、かんがえてみる。かぜさんのきもち」
「ほんと?」
「うん。さやちゃんが、しりたいなら」
楓ちゃんが微笑む。その笑顔が嬉しくて、私も笑った。
その日の午後、楓ちゃんは帰りの車の中でずっと考え込んでいた。
――翌朝。
黒い車が坂を上っていく。運転手さんはルームミラー越しに微笑み、「今日もごきげんですね、お嬢さま方」と言った。後部座席で、楓ちゃんは満足そうな笑顔を浮かべて、大きな封筒を胸に抱えていた。白い封筒の端が少し曲がり、小さな手のひらには鉛筆の粉がついている。
「これ、きのうのおはなし。かぜさんのきもち、かんがえてみたの」
封筒を差し出され、私は両手で受け取ってそっと開けた。中から出てきたのは、上質な無罫の便箋。少し歪んだひらがなが、一行一行丁寧に並んでいる。ところどころ消しゴムの跡があり、鉛筆の線が浅く光って、風が通り抜けるようなやさしい筆跡だった。紙の隅には小さな星印、その横に丸でふたりの手をつないだ印が描かれていた。
「これね、きのうおとうさんが『だいじなかみ』っていってたの」
笑う指先には小さな絆創膏が貼られていた。きっと鉛筆を握りすぎたのだろう。私はその小さな傷を見て胸の奥が少し熱くなり、紙を大事に持って、ゆっくり読んだ。
《むかし むかし ちいさな おかが ありました》
《そこに ちいさな おんなのこが いました》
《おんなのこは まいにち ぴやのを ひいていました》
読み終えて、もう一度最初から声に出して読んだ。それを聞く楓ちゃんは、無邪気に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「かえでちゃん」
私が見ると、楓ちゃんは恥ずかしそうに俯いた。
「すき」
「だいすき」
私は抱きしめた。楓ちゃんも抱きしめ返してくれた。
「ありがとう、かえでちゃん」
「さやちゃんが、よろこんでくれて、うれしい」
私は楓ちゃんの頬にキスをした。頬は温かく、少し赤くなっていた。
――それが、楓ちゃんが私に初めて贈ってくれた「物語」である。のちに『風の物語集』の最初のページとなる、小さな「風の手紙」だった。
◆◇◆
六歳の冬、私たちは初めてスキーに行った。両家で一緒に長野の山へ向かった。小さなスキー板で斜面を滑る。最初は怖くて手を繋いだまま、ゆっくり滑った。やがて慣れてくると楽しくなり、笑いながら何度も滑った。
「さやちゃん、はやい」
「かえでちゃんも、おいで」
私が手を伸ばすと、楓ちゃんが笑って滑ってきたが、バランスを崩して雪に倒れ込んだ。
「かえでちゃん」
私は急いで駆け寄った。雪まみれになった楓ちゃんは、笑っていた。
「だいじょうぶ」
「うん、だいじょうぶ」
私は体についた雪を払った。頬も鼻も赤く、とても可愛かった。
「さやちゃん、ありがとう」
楓ちゃんが抱きしめてくれた。冷たい頬が触れたが、心は温かかった。
「かえでちゃん、つめたい」
「ごめんね」
「ううん、きもちいい」
私たちは雪の中で抱き合って笑った。夜、ロッジで布団に入ると、楓ちゃんが隣に来て手を握った。
「さやちゃん、きょうたのしかった」
「わたしも」
「ずっと、いっしょにいたいね」
「うん、ずっと」
手は温かく、握っていると安心できた。やがて寝息が聞こえ、私はその手を握ったまま眠りに落ちた。
◆◇◆
幼稚園での三年間は、幸せな記憶で満ちていた。歌い、遊び、食べ、眠った。そのすべてを楓ちゃんと一緒に過ごした。教室でも廊下でも手を繋ぐのは当たり前で、嬉しい時は抱き合って頬にキスをし、悲しい時は抱き合って泣いた。クラスメートは私たちを「なかよし」と言っていつも笑い、先生たちも優しく見守ってくれた。
「双子ちゃんみたいね」
私は楓ちゃんの手を握って、にっこり笑った。
「かえでちゃんは、わたしのいちばんだよ」
楓ちゃんが顔を赤くして抱きしめてくれた。
「さやちゃんも、わたしのいちばん」
私たちを知る人たちは、皆温かく見守ってくれた。その姿勢は小学校に上がっても中学校に上がっても、変わらなかった。
六歳の春、私たちは幼稚園を卒園した。式の日、手を繋いで式場に入った。紺の襟がついた白いセーラー服、紺のプリーツスカート、サファイアブルーのスカーフ。三年間を共に過ごした制服である。式の後、両親と写真を撮った。真ん中に並んで手を繋いだまま笑った。
「さやちゃん、しょうがっこうもいっしょだね」
「うん、ずっといっしょ」
抱き合うと、楓ちゃんも抱きしめ返してくれた。
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