第一章「空虚な五月」

 朝の光は眠りの続きのように曖昧だった。カーテンの隙間から差す白い光は、昨日とも明日とも区別がつかない。スマホのカレンダーだけが日付を変えていく。四月が終わって、五月になったらしい。指で画面をなぞるたび、時間が進んでいることだけが、機械の声のように告げられる。

 あの日から、一月が過ぎてしまった。病室の白よりも静かな部屋で、今日も私は自分の呼吸の音に怯えている。退院したのに、世界は回復してくれない。病の痛みは消えたのに、今の方がずっと痛い。昼はベッドで膝を抱き、夜は時計の秒針の音を聞いている。どちらも、目を閉じればすぐに消えてしまう幻のようだ。

 生きていて良いのだろうか――そんな考えが、ふいに胸をよぎる。


 花束を抱き、美しい髪に触れられる喜びを胸に退院した、あの四月一日の朝。けれど、その直後、私の世界は音もなく崩れた。


 階下から、母の声が聞こえた。

「颯、朝ごはんできてるわよ」

 返事をする。声が出た。自分の声だった。

「今、行く」


 食卓には、トーストとサラダとスープが並んでいる。母が淹れてくれた紅茶の湯気が立ち上っている。私は食卓の椅子に一人で座り、フォークを持つ。サラダを口に運び、噛み、飲み込む。味がしない。何を食べているのか、わからない。ただ、体に入れなければならない何かを、機械的に口へ運んでいる。

 母が心配そうにこちらを見ている。私は笑った。いつの間にか覚えた、貼り付けたような笑顔で。

「美味しい」

 母の表情が、少しだけ和らいだ。


 本当は行きたくない。いつだったか――火曜日だったか、金曜日だったか――あの白い廊下を歩いた。楓ちゃんが消えていった、あの場所へ。

 道を歩くと、風が肌を撫でていく。その優しさに、胸が裂けそうになる。風は楓ちゃんの透明な声に似ていた。それだけで息が苦しくなる。

 篠原院長は少し寂しそうに微笑み、「順調です」と告げた。その言葉でさえ、痛みを伴って響いた。私は、あの仮面のような笑顔で、「ありがとうございます」と答えることしかできない。


 家に帰ると、東京に住んでいる兄が玄関にいた。

「お帰り。疲れただろう?」

 優しい声だった。

「お兄ちゃん、今日は帰ってきてたの?」

 兄は、少し困ったように笑った。

「颯、俺はずっといるよ。四月からずっと」

「そうだっけ?」

 記憶が、霧の中に沈んでいる。

「そうだよ。会社は部下に任せてる。颯が元気になるまで、ここにいるから」

 兄は、そっと私の頭に手を置いた。

「無理しなくていいからな」


 ピアノ室の前に立つ。重い扉に触れた瞬間、頭の奥で鈍い痛みが走る。思わずしゃがみ込み、息を殺す。鍵盤の並びが脳裏に浮かぶ。けれど、そこにはひとつだけ欠けた音――低いGの白鍵が真っ黒に滲んでいる。あの日から、どうしても弾けない音だ。指を伸ばそうとするたび、彼女のいない現実が、私をドアの前に縫い止める。

 ソファーに座り、長い睫毛を伏せて私のピアノを聴いていた楓ちゃん。そこにはもう誰もいない。今まで彼女のために奏でてきた音楽は、今度は誰が聴いてくれるのだろう。

 彼女のいない音楽なんて、意味もないただの「音」。体に走る痛みだけが、今の私を現実につなぎとめ、夢ではないと告げている。


 誰かがそっと立ち上がらせてくれる。兄だ。いつからそこにいたのだろう。

「大丈夫か?」

 兄の声が遠くから聞こえる。

「うん……」

「部屋に戻ろう」

 兄は優しく私を部屋まで送ってくれた。ベッドに座ると、兄は椅子を引いて隣に座った。

「颯、無理しなくていいんだ。ゆっくりでいいから」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。俺たちは、颯が元気になるのを待ってるだけだから」

 兄はそう言って微笑んだ。ふと、疑問が浮かぶ。

「お兄ちゃん、今日は帰ってきたの?」

 兄の表情が少しだけ曇った。

「颯……俺、さっき玄関で会っただろう?」

「……そうだった?」

「ああ。病院から帰ってきた時に」

 記憶がまた抜け落ちている。兄は私の手を取った。

「颯は一人じゃない。それだけは、忘れないでほしい」

 その言葉が胸に沈んでいく。でも、どこか遠い場所で響いているようで、届かない。


 歌詞がない。あの約束――「二人でシシリエンヌを作ろうね」――は、彼女の死とともに途切れた。楓ちゃんの言葉は、私には書けない。美しすぎて、儚すぎて、私が触れれば粉雪のように崩れてしまう。音だけでは、もう足りない。歌詞がなければ、あの曲は生まれない。風が歌を運んでくれるならいいのに。私はまだ、沈黙の中で立ち止まっている。


 あの日、表紙裏に何かを書き込んだ気がする――けれど、思い出すたびに胸がざわついて、そこで記憶が途切れる。ショルダーバッグの中には、あの「青のノート」。いつも持ち歩いているのに、開けない。黒いゴムの帯は、棺を留める釘のように固く感じる。ページをめくると、楓ちゃんの最後の言葉が風になって散ってしまう気がする。もしかしたら、最後の言葉なんて無いのかもしれない。読むことは、死を確定させる儀式のようだ。

 だから、開かない。けれど、開かない限り、私の夜は明けない気もする。真夜中の色で綴られた物語は、もう二度と届かない。私は記憶の棺を抱きしめ、矛盾の中で壊れかけた羅針盤のように立ち尽くしている。


 ウイッグをつける。化粧をする気力がない。少し皺の寄った白いシャツ、黒のロングスカートを纏う。白いスニーカーを履き、母が玄関でかけてくれた淡いベージュのスプリングコートに袖を通す。今日はどうにか淡いブルーグレーの薄いマフラーを纏うことができた。

 そして、言葉を求め彷徨うと、丘の麓に辿り着いてしまう。丘を見上げると、胸の痛みが襲い、荒い呼吸でしゃがみ込む。登ることができない。


 家に向かって歩いていると、また兄に会った。

「颯、散歩してるのか?」

「うん……」

「一人で大丈夫か?付き添おうか?」

「大丈夫」

 そう答えたけれど、本当は大丈夫じゃない。でも、どう説明していいのか、わからない。

 兄は私の目を見て、静かに頷いた。

「そうか。でも、何かあったらすぐ言ってくれ」

「……ありがとう」

 兄は私の肩に手を置いた。

「颯は一人じゃない。忘れないでほしい」

 その言葉がまた胸に沈んでいく。でも、やはり遠い場所で響いているようで、届かない。


 あの瞬間、世界から言葉が消え、音が沈んだ。


 ――空虚な五月。

 その名を与えられるほど、私はまだ現実を知らない。けれど、この静けさと痛みの奥で、まだ名前を持たない何かが、静かに息をしていた。

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