第21話聖夜の告白・序章



聖夜の告白・序章


【取調室・現在】


私の淡々とした語りに、取調室の空気は凍りついていた。

若い方の刑事(井上、やったか)は、信じられないものを見るように、固まったまま動かない。ベテランの方(多重寺)は、ただ静かに煙草の煙を吐き出している。

私は、乾いた唇を舐めると、記憶の扉をさらに開いた。


「…お兄ちゃんが帰ってきたのは、本当に、偶然やったんです。うちを助けるためでも何でもない。ただ、たまたま、あの地獄のど真ん中に、迷い込んでしもただけで…」


【回想・12年前のクリスマスの夜】


「なにしとるんや!やめんかいね!」

お兄ちゃんの太い声が、冷え切った台所に響き渡った。その声には、怒りよりも、もっと深い、悲鳴のようなものが混じっていた。

私の身体は、お兄ちゃんの言葉にぴくりとも反応しない。ただ、冷たい鶏の骨を握りしめ、僅かに残った肉片を、かじり取ろうと必死だった。それだけが、今の私を、この世に繋ぎとめる唯一の糸やった。


「絹代!」

お兄ちゃんの太い指が私の肩を掴み、無理やり自分の方を向かせた。その瞬間、直樹の息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。

「なんや、その顔の傷は…誰にやられたんや!なあ?」

私の頬には、くっきりと指の跡が赤く残り、首筋には青黒い痣が、冬の枯れ枝のように広がっていた。俯いたまま、私は小さく、しかしはっきりと、首を横に振る。言いたくない。言えない。言えば、この地獄がさらに深くなるだけや。


私の反応に、直樹の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「……言うたらあかんやつか。そうか」

直樹の声は、低く、重く、地面に這いつくばる私を深く突き刺した。脳の芯が、一瞬で凍りついた。ああ、知られてしもうた。この、誰にも知られたくなかった惨めな現実を、お兄ちゃんに。


そのとき、廊下の奥から、ふらふらと足を引きずる音が聞こえてきた。暗闇の中から、人の形がゆらりと現れる。焼酎の瓶を片手に、身体を左右に揺らしながら、母、和子が姿を現したのだ。その顔は酒で浮腫み、焦点の合わない目だけが虚ろに濁っている。人間としての輪郭が、アルコールに溶けて崩れてしまったかのような、見るも無残な姿やった。


「なんや、誰や思うたら?直樹やないか。久しぶりやな。なにしに来たんや?」

和子は、ぼんやりとした目で直樹を見つめ、どこか間の抜けたような声で言った。


直樹は、何も言わなかった。ただ、目の前の光景を、信じられないものを見るように見つめていた。ゴミ溜めのような部屋。飢えて骨の浮き出た妹。そして、その元凶であるはずの、泥酔した母親。

お兄ちゃんの顔が、絶望に歪む。


【取調室・現在】


私はそこで一度、言葉を切った。

あの時の、お兄ちゃんの絶望に満ちた顔を思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。


沈黙に耐えかねたように、井上刑事が身を乗り出した。

「おい!それでどうなったんや!」

その声は、尋問というより、物語の続きをせがむ子供のようにも聞こえた。多重寺は、そんな相棒を制することなく、静かに私を見つめている。


私は、ゆっくりと顔を上げた。

「…どうなったか、ですか? あの時、うちの中で、何かが完全に変わったんです」


【回想・12年前】


お兄ちゃんの胸の内に、底知れぬ無力感と、腹の底からせり上がってくる冷たい怒りが渦を巻いているのが、痛いほどに伝わってきた。

そして、その絶望と怒りに満ちたお兄ちゃんの顔を見た時、私の心の中に、今までとは違う、もっと冷たくて硬い何かが、静かに芽生えたのを、はっきりと覚えている。


ああ、あかん。

お兄ちゃんまで、この地獄に引きずり込んでは、あかん。

私のせいで、お兄ちゃんの未来まで、この家の闇に喰わ尽くされてしまう。


その瞬間、飢えも、痛みも、どこか遠くへ消えていった。

私の頭の中は、たった一つの思いで、いっぱいになった。


どうすれば、お兄ちゃんを、ここから逃がしてあげられるやろうか。

この地獄を、今、この瞬間、終わらせるには、どうすれば。

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