第20話壊れた夜
絹代の最後の言葉が、シン、と静まり返った取調室の空気に溶けていくようだった。
「…あの瞬間、うちの中で、何かが完全に死んだんです」
全てを吐き出し終えた彼女は、まるで魂が抜け落ちたかのように、虚ろな目でテーブルの一点を見つめている。もはやそこには、刑事たちを挑発する獣の光も、偽りの名を名乗る女の強がりもなかった。ただ、12年前のクリスマスの夜に取り残された、飢えた少女の姿があるだけだった。
隣で、井上が息を呑む音が聞こえた。
彼の顔は青ざめ、唇を固く結んでいる。その若い瞳には、これまで絹代に向けていた容疑者への怒りではなく、筆舌に尽くしがたい境遇への絶句と、目の前の女に対する深い憐憫の色が浮かんでいた。
脳裏に、絹代が語った光景が、おぞましいほど鮮明に再生されていた。
飢え、暴力、そして母親からの完全な拒絶。
床に叩きつけられ、無残に散らばった、兄がくれたたった一つのおにぎり。
あれは、単なる食べ物ではない。
人の心が、希望が、踏みつけられる音だったのだ。
井上は、これまで追いかけてきた事件の輪郭が、全く別のものに変わっていくのを感じていた。これは、残虐な殺人鬼が起こした事件などではない。ただ、救いを求める術を知らなかった少女が、生きるために上げた、あまりにも悲痛な悲鳴だったのではないか。
「…ひどすぎる」
絞り出すような井上の呟きに、絹代は反応しない。
多重寺は、黙って煙草に火をつけた。
紫煙が、彼の険しい顔の前でゆっくりと揺らめく。井上のような感情の昂ぶりは、その表情からは読み取れない。だが、その深く静かな瞳は、これまで以上に鋭く、事件の、そして棚橋兄妹という人間の本質を見据えていた。
(そういうことか…)
多重寺の脳裏で、岐阜の工場での直樹の顔が蘇る。
『当たり前やないですか。たった一人の、身内やぞ』
あの言葉の、本当の重み。今、ようやく理解できた。
直樹は、単に妹の犯した罪を肩代わりしたのではなかった。彼は、あの夜、あの瞬間に、妹が人としての最後の境界線を越え、母親と同じ「化け物」になってしまう、その寸前で全てを背負ったのだ。
妹の人生を、ではない。妹の魂を、地獄の淵から救い出そうとしたのだ。
多重寺は、静かに煙を吐き出した。
「棚橋」
彼の呼びかけに、絹代の虚ろな目が、ゆっくりと向けられる。
「包丁を手にした後、どうした」
それは、尋問ではなかった。
ただ、壊れてしまった夜の続きを、静かに促す言葉だった。
絹代の告白は、まだ終わっていない。物語は、最も重要な核心の部分を、まだ隠している。
「…お兄ちゃんが…」
絹代の唇が、わずかに動いた。
「お兄ちゃんが、叫んだんです…『やめろ、絹代!』って…」
その瞬間、取調室の扉がノックされ、若い制服警官が顔を覗かせた。
「多重寺警部補、警視庁の方から至急の連絡が…」
多重寺は、無言で立ち上がった。
「今日はここまでだ」
井上にそう告げ、取か'調室を出ていく。
廊下で、井上が追いついてきた。
「多重寺さん…あいつ…」
「ああ」
多重寺は、歩きながら答えた。
「まだ何かを隠している。だが、根っこは見えた」
彼は窓の外の、灰色の東京の空を見上げた。
「俺たちが追っているのは、単なる殺人事件じゃない。12年前に壊れてしまった、一つの家族の物語だ。そして、その物語の本当の主役は、まだ何も語っていない」
その視線の先には、岐阜の工場で黙々と汗を流す、不器用な兄の姿が見えているようだった。
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