第19話『聖夜の告白』
第13話 聖夜の告白
取調室の空気は、重く澱んでいた。
私の言葉を待つ二人の刑事の視線が、突き刺さるようやった。
どこから話せばええんか…。私は、乾いた唇を舐めると、ぽつり、と呟いた。
「…すべての始まりは、クリスマスの夜やった」
きらきらと、光の粒が街に降り注いでいる。ありふれた大阪のクリスマスイブ。テレビの向こうからは、誰かが作った陽気な声がひっきりなしに聞こえてくる。ケーキの甘ったるい匂い、チキンの香ばしい匂いが、あの部屋の淀んだ空気と混じり合って、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてきたのを、今でも思い出せます。
あの部屋には、何もない。温かい食事も、冷たい体を包む上着も、夜の底知れぬ寒さから守ってくれる布団もない。ただ、しんと静まり返った暗闇と、骨の芯まで喰い込んでくるような冷たさだけが、うちを生きたまま殺そうとしていた。
ぐう、と腹が鳴る。もう慣れたはずの空腹が、あの日はやけに鋭く内臓を抉ってきた。
食べな、死ぬ。
本気で、そう思ったんです。
――あいつさえ、いなくなれば。
脳裏をよぎった黒い衝動に、ぞくりと肌が粟立った。
でも、そのすぐ後に浮かんだのは、冷たい鉄格子の風景やった。ああ、あんな場所へ行っても、今と何も変わらへん。いや、もっと惨めか。あんな化け物と同じ、人から蔑まれ、憎まれるだけの存在になる。
殺したい。心の底から、あいつを八つ裂きにしてやりたい。でも、あいつみたいには、なりたくない。どうしようもない怒りと悲しみが、ぐちゃぐちゃに混じり合って、腹の底で渦を巻いていました。
それから何日が経ったんやろう。
カレンダーを見る気力もなかった。世間が新しい年やと浮かれているのを、遠い国の出来事のように感じていた。うちの飢えは、もう限界を超えていた。クリスマスから、ひとかけらの固形物も口にしてへん。
私は、床をゆっくりと這って台所へ向かった。
目的は、残飯。
あのクリスマスイブの夜、あいつが食い散らかした鶏の骨が、シンクの隅に打ち捨てられたままになっとったんです。
人間としてのプライドなんて、とうの昔にかなぐり捨ててた。ゴミだろうが何だろうが、生きるためには食らうしかない。震える指で、冷え切った骨を掴んだ。
その、瞬間やった。
ガチャリ、と錆びついた玄関のドアが開く音がした。
「絹代? おるんか、絹代!」
お兄ちゃんやった。直樹やった。
なんで、今。そう思いました。
「どないしたんや、その顔…。なんや、その痣は…」
お兄ちゃんの声が、驚きと戸惑いに揺れていた。そして、シンクにうずくまる私の姿を認め、息を呑む気配がした。
「なにしとるんや! 絹代! それ、生ゴミやないか! あかんて!」
直樹の絶叫が、耳の奥でキン、と甲高く鳴り響く。
でもうちは、まだその骨を離すことができひんかった。あれが、うちの命綱やったから。
直樹がうちの手から、骨をひったくった。
「アホ! そんなもん食うたら腹壊すだけや! しっかりせえ!」
お兄ちゃんの腕が、氷みたいに冷え切ったうちの体を抱き起こす。久しぶりに触れた人の温もりやった。でも、その温かさが、かえって自分の惨めさを際立たせるようで、涙も出んかった。
「待っとれ。今、なんか買うてきたる」
直樹はそう言うと、慌てて玄関へ向かおうとした。その拍子に、ポケットからコンビニの袋が落ちた。中から見えたのは、おにぎりやった。
「ゆっくりやで。ゆっくり食べや」
差し出されたおにぎりを、うちは獣みたいにひったくり、口に詰め込んだ。米の甘さがじんわりと口の中に広がっていく。
ああ、うまい。
食べ物って、こんなにうまかったんや。
熱いものが頬を伝う感覚があった。涙やった。食べながら、声もなく、ただ泣いた。
その時やった。
ガチャリ、と再び玄関のドアが開く。今度は、さっきの直樹の音とは違う。鼻をつく、安っぽい香水の匂いと、腐ったような酒の匂い。
和子やった。
「…なんや、直樹やないの」
酔うとるんか、呂律の回らへん声。和子は、泣きながらおにぎりを頬張る私と、怒りに震える直樹を、汚いもんでも見るような目で見下ろした。
「母さん…これ、一体どういうことや。絹代のこの姿、一体何があったんや!」
「なんやて? ああ、こいつのこと? 知らんわ。言うこと聞かんかったから、ちょっとシメただけや」
「シメただけやて!? こいつ、何日も飯食ってへんのやぞ!」
「うるさいな、大声出すなや。近所に聞こえるやろが」
…刑事さんらには、分からんやろな。この時のうちの気持ち。
この人にとって、私やお兄ちゃんの苦しみは、近所迷惑以下の、どうでもええことなんやと、はっきり分かったんです。
和子は私の方にずかずかと歩み寄ると、私が必死に握りしめていたおにぎりを、その手から叩き落とした。
パン、と乾いた音がして、白い米粒が汚れた床に無残に散らばる。
「汚い手で食うなや、乞食みたいに。見てるこっちが気分悪いわ」
ああ。
ああ、もう、あかん。
あんたらには、たかがおにぎり一個やと思うやろ? でも、あれは、うちの命そのものやったんです。お兄ちゃんがくれた、ほんの小さな、小さな希望の光。それが、和子のその一言と行動で、完全に吹き消された。
散らばった米粒を、うちはただ、見つめていた。
直樹と和子の怒鳴り合いが、遠くで響いている。でも、もう、うちの耳には届いてへんかった。
ああ、そうか。
あいつを殺しても、刑務所に入るだけ。もっと惨めになるだけやと思ったけど、間違っていた。
刑務所は、三食昼寝付きや。殴られることも、飢えることもない。
ここより、ずっと、マシやないか。
私の視線は、台所の隅に転がっている、使い古された包丁の柄に吸い寄せられていた。
朦朧とした意識の片隅で、最後の理性がささやきました。(あかん、あいつと同じになったら、あかん)と。
でも、もう一つの声が、それを優しくかき消した。(もう、ええやん。楽になろうや)と。
和子の甲高い笑い声が、頭に響く。
この地獄から抜け出す方法は、もう、一つしかない。
私は、震える足で、ゆっくりと立ち上がった。
床に散らばった米粒を、ぐしゃりと、踏みつけながら。
そして、和子を振り返った。私の口元には、ふわりと柔和で優しい、可愛らしい笑みが浮かんでいた。けれどその瞳の奥には、底知れない闇が蠢き、静かで不気味な光を宿していた。
「ふふ、ああ…やっと、分かったんよ…」
静かにそう呟いた私の顔は、きっと、今までで一番穏やかやったに違いありません。
この絶望の淵で、私は、確かに新しい自分を見つけ出したのですから。
…あの瞬間、うちの中で、何かが完全に死んだんです。
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