第17話 『兄の言葉』



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### 第17話 兄の言葉


無機質な蛍光灯が、殺風景な取調室を白々と照らし出している。

テーブルを挟んで、多重寺と井上は、目の前の女と対峙していた。

棚橋絹代。

昨夜の追跡劇で見せた獣のような抵抗は嘘のように消え、今は化粧の落ちかけた顔で、ふてぶてしく脚を組んでいる。


「名前は」

多重寺が、静かに口火を切った。


女は鼻で笑うと、気だるそうに答えた。

「…言ったでしょ。鈴木君代だって」


「ふざけるのも大概にしろ!」

隣に座っていた井上が、耐えきれずに机を叩いた。

「指紋も前歴も、全部お前が棚橋絹代だって示してるんだ!いつまで茶番を続ける気だ!」


井上の激昂を、女は冷めた目で見返すだけだった。そして、まるで心の底からそう信じ込んでいるかのように、はっきりと繰り返した。


「**違うわ!わたしは鈴木君代、棚橋絹代なんて女じゃないわ!**」


その、あまりにも堂々とした否認。

それは嘘というよりも、彼女自身が作り上げた、強固な現実だった。兄を犠牲にした「棚橋絹代」という過去を葬り去り、別人として生きることでしか精神を保てなかった、12年間の絶望と孤独の結晶。


井上がさらに何か言おうとするのを、多重寺は手で制した。

彼はゆっくりと一枚の写真をテーブルの上に滑らせる。

油に汚れた作業着で、実直な顔つきで働く、一人の男の写真。髙橋製作所で撮った、棚橋直樹の姿だった。


「この男を知っているな」


絹代は写真に一瞥をくれると、つまらなそうに爪をいじり始めた。その瞳に、ほんの一瞬だけよぎった動揺を、多重寺は見逃さなかった。だが、彼女はすぐに完璧な仮面を被り直す。


「さあ?知らない男ね。あたし好みのタイプじゃないわ。それがどうかしたの?」


兄・直樹の名を出すも、絹代は平然とそれをかわしてみせた。

その鉄壁の防御に、井上は絶句する。


多重寺は、深く息を吐き出した。

彼は一度目を閉じ、目の前の女の、必死に作り上げた脆い砦を、自らの手で破壊することへの微かな躊躇いを振り払った。そして、救いようのない魂に最後の言葉をかける神父のように、静かに口を開いた。


「…そうか。そこまで言い張るか」


彼は椅子に深くもたれかかると、決定的な一言を、静かに、しかし部屋の空気を震わせるほどの重みをもって、放った。


「俺たちは昨日、東京に来る前…**岐阜へ行って、お前の兄さんに会ってきたんだ!**」


その言葉が突き刺さった瞬間、絹代の動きが、完全に止まった。

爪をいじっていた指が、凍りついたように動かない。


多重寺は、畳み掛けるように続けた。その声は、もはや尋問ではなく、逃げ場のない現実を突きつける宣告だった。


「『当たり前やないですか。たった一人の、身内やぞ』…兄貴は、そう言ってたぜ。お前のことをな。**もう言い逃れはできんぞ!**」


「あ……」


絹代の唇から、意味をなさない声が漏れた。

兄の、生々しい言葉。

自分と兄の間にだけ流れていたはずの12年の沈黙を、目の前の刑事が土足で踏み破ったという、絶対的な事実。


ガタガタと、彼女の体が震え始めた。

「鈴木君代」という、必死に作り上げてきた硬い殻に、大きな亀裂が入る。

そこから、12年間閉じ込めてきた「棚橋絹代」の、本物の絶望が、黒い奔流のように溢れ出した。


仮面が、砕け散る。

その震える唇から、12年間、誰にも聞かせることのなかった、か細い本音が、ぽつりとこぼれ落ちた。


「……お兄ちゃんは……元気…だった…?」

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