第16話『追跡』



六本木の安宿の一室。コンビニの弁当の匂いが立ち込める中、多重寺は眉間に深い皺を刻み、井上が持ち込んだ捜査資料のコピーを睨みつけていた。そこに写っているのは、ビニールシートで覆われた、およそ人の形とは思えない「何か」だった。


「…本当に棚橋絹代か? これをやったのが」

多重寺の声は、絞り出すように掠れていた。


「はい。間違いないですね」

井上は青ざめた顔で頷いた。

「被害者は『Club Minerva』での絹代の同僚ホステス。店から姿を消した絹代を心配して、個人的に捜していたようです。そして数日前、この遺体で発見されました」


井上は一度言葉を切り、おぞましい記憶を振り払うように頭を振った。

「問題は、その手口です。法医学のベテランですら『見たこともない、残虐な殺害方法』だと。怨恨というレベルを遥かに超えている。まるで、人間の尊厳を徹底的に破壊するためだけの…」


言葉が続かない井上に、多重寺は静かに問うた。

「…第一発見者は?」


「一緒に飲んでいた、婚約者の男性らしいですよ。あまりの光景に、その場で完全に心が壊れて…今はもう、まともな会話もできない状態だと」


重い沈黙が、部屋を支配した。

多重寺は凄惨な写真から目を離し、窓の外の無機質なビルの壁を見つめた。まるで、何か別のパズルのピースを頭の中で探しているかのように。

やがて、彼はぽつりと、全く違う角度からの質問を投げかけた。


「…なあ?井上よ!棚橋絹代の兄は機械工学部だった、らしいな」


唐突な問いに、井上は一瞬戸惑いながらも、手元の資料を確認する。

「はい、成績はかなりよかったらしいです。 それが何か…?」


井上の問いには答えず、多重寺は再び黙り込んだ。

だが、その沈黙は、井上に全てを悟らせるには十分だった。

『見たこともない、残虐な殺害方法』。

それは、ある種の専門的な知識、例えば人体の構造ではなく、機械や構造物に対する深い理解がなければ実行不可能な手口だったのではないか。

まさか。あの実直な男が?

いや、しかし。妹の犯行に、兄の知識が、何らかの形で利用されたとしたら…?


疑惑は、底なしの沼のように広がり始める。

兄の純粋な愛と、妹の悪魔のような所業。そして、その二つを繋ぐかもしれない「機械工学」という不気味なキーワード。


多重寺は立ち上がった。その目には、もはや単なる犯人を追う光だけではなく、この兄妹にまつわる歪んだ真実の全てを暴き出すという、執念の炎が宿っていた。

「行くぞ。人の皮を被った『何か』を、野放しにはしておけん」


【キャバレー サステナ】


時代がかった看板の下、二人は重いベルベットの扉を開けた。

むせ返るような酒とタバコの煙、一昔前の歌謡曲。その猥雑な空気の中に、多重寺は死の匂いを感じ取っていた。


客のフリをしてボックス席に座り、フロア全体に鋭い視線を走らせる。

「…いた」

井上が、息を殺して呟いた。ステージの薄暗い照明の中、物憂げな表情でバラードを歌う女。源氏名は「ミドリ」。写真の女。そして、悪魔のような事件の最重要容疑者。


歌い終えた絹代が、フロアに視線を流す。

その視線が、多重寺と井上のテーブルで、コンマ数秒、凍りついた。

獲物の匂いを嗅ぎ分ける肉食獣のように、彼女は瞬時に二人の正体を見抜いた。


表情は、変わらない。

何事もなかったかのようにステージを降りると、その足は一直線に従業員用のバックヤードへと、澱みなく向かっていく。


「逃げるぞ!」

多重寺はテーブルを蹴るように立ち上がった。

井上が客をかき分け、最短距離でバックヤードへ突進する。

多重寺は店の構造を瞬時に判断し、叫んだ。

「井上!裏口だ!まわれ!逃がすなよ!」


自らは正面玄関から外へ飛び出し、建物の側面を全速力で駆ける。

ゴミの悪臭が漂う薄暗い裏路地。金属製のドアが乱暴に開け放たれ、ハイヒールを片手に裸足で飛び出してくる絹代の姿があった。

その先には、裏口から回り込んでいた井上が、壁のように立ちはだかっていた。


行き場を失った絹代が、一瞬怯んだ隙を逃さず、多重寺が背後からその細い腕を鷲掴みにした。


「ッ!」

絹代は獣のように身をよじり、必死に抵抗する。

「はなしてよ!なんなの!あんたたち!」


あくまでシラを切ろうとするその甲高い声に、多重寺は有無を言わさぬ低い声で、耳元に真実を叩きつけた。


「警察だ!」


その一言が、全ての音を消し去った。

絹代の激しい抵抗が、ピタリと止まる。

多重寺に掴まれた腕から、力が抜けていく。


彼女はゆっくりと顔を上げた。

その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも、驚きでもない。

全てを諦めきったような、それでいて、どこかこの結末を予期していたかのような、冷たい、冷たい笑みだった。


この女が、本当に。

多重寺は、その笑みの奥に潜む、底知れぬ闇と、そこにちらつく兄の影を、同時に見つめていた。

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