第15話『東京へ』



第15話 東京へ


ガシャン、ガシャン、とプレス機の重い作動音が、規則正しく工場に響き渡る。

多重寺たちが去った翌日も、直樹はいつもと変わらず、油と鉄の匂いにまみれて汗を流していた。5年間の空白を埋めるように、そして、何か余計なことを考えないように、ただひたすらに腕を動かす。

棚橋直樹は出所後、真面目に更生し、こうして汗を流し働いていた。 それが、髙橋社長が彼に与えた居場所であり、彼自身が選んだ生き方だった。


だが、昨日までとは、機械の音も、流れる汗の意味も、何もかもが違って聞こえた。


(手紙は、届いとったんか…)


捨てられたのではなかった。忘れられていたのではなかった。その事実が、安堵と共に、12年という失われた時間の重みを、彼の心にずしりとのしかけてくる。


『君は、妹さんのことが、好きか?』


あの刑事の、最後の質問。

あの問いのおかげで、直樹は自分の心の中心にある、たった一つの、決して揺るがないものに気づかされた。


『当たり前やないですか』


そうだ。当たり前だ。だから、罪を被った。だから、耐え抜いた。

妹・絹代が、どこかで笑って生きていてくれれば、それでよかった。


だが、今は違う。絹代は何かの罪を犯し、追われる身となっている。

俺が守ろうとしたものは、12年の時を経て、歪んでしまったのだろうか。


ガコンッ!という音と共にプレス機を止めた直樹は、油に汚れた軍手で顔の汗を拭った。

じっと、工場の窓から見える空を見上げる。この空は、ずっと向こうの、あの巨大な街に繋がっている。


「絹代…」


呟いた声は、誰にも聞こえない。

だが、その瞳には、確かな決意の光が宿っていた。

行かなければ。会いに行かなければ。そして、今度こそ、俺が兄として、あいつの話を聞いてやらなければ。


直樹は軍手を脱ぎ捨てると、迷いのない足取りで、髙橋社長がいるであろう事務所のドアへと、まっすぐに向かった。


その頃、所轄の警察署では、井上の憤りに満ちた声が響いていた。


「しかし、まさか行き先が六本木とは…」

井上は、新たに手に入れた棚橋絹代の経歴資料に目を通し、忌々しげに吐き捨てた。

「兄貴が汗と油の匂いにまみれて、5年もムショに入ってたってのに、妹は香水とシャンパンの匂いがする六本木ですか!店の売上金を持ち逃げして、今もどこかで高笑いしてるのかもしれない…どこまでふてぶてしいんだよ!」


直樹のひたむきな姿を見た後だからこそ、兄妹の生き様のあまりの隔たりに、井上の怒りは収まらない。


「…そう見えるか?」

コートを羽織りながら、多重寺が静かに問いかけた。彼の目は、壁に貼られた相関図…その中心にある『棚橋絹代』という名前に向けられている。

「俺には、必死で虚勢を張っているようにしか見えんがな。弱い犬ほどよく吠える。派手なドレスも、高い酒も、そいつにとっては鎧だったのかもしれんぞ」


「鎧…ですか?」

「ああ。12年間、たった一人で、兄を罪人にしたという重荷を背負って、あの街で生きてきたんだ。まともな神経でいられるわけがないだろう」


多重寺の言葉に、井上はハッと息を呑んだ。

多重寺は紫煙を深く吸い込むと、遠い目をして続けた。


「六本木か…。あそこは嘘と本音が酒に溶けて混じり合う街だ。俺たちのような田舎の刑事は、下手をすれば簡単に飲み込まれるぞ」


その声には、これからの捜査の困難さを予感させる響きがあった。

「行くぞ、井上。全ての始まりはそこだ。彼女が最後にいた場所には、必ず、何かの痕跡が残っている」


東海道新幹線のぞみが、滑るようにビル群の間を駆け抜けていく。

品川駅到着を告げるアナウンスが、無機質に車内に響き渡った。


多重寺は、ようやく手に入れた絹代の写真を眺めていた。

少し画質の粗い写真の中で、派手なドレスを着た女が、どこか寂しげに微笑んでいる。

兄の人生を犠牲にして、この大都会の夜に身を投じた女。

そして、兄の出所を前に、全てを捨てて逃げ出した女。


人の欲望と孤独が渦巻く、眠らない街・六本木。

兄妹の歪められた12年の時が、今、この一筋縄ではいかない「魔窟」で、再び動き出そうとしていた。

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