第12話『髙橋旋盤加工製作所』
エピソード:鉄の匂いと、古い嘘
岐阜の空は、東京のそれとは違い、どこか広くて、そして少しだけ、色が薄いように見えた。
多重寺が降り立ったのは、電車が日に数本しか停まらない、小さな無人駅。そこからタクシーを走らせること20分。目的の場所は、田園風景の中に、ぽつりと取り残されたように建っていた。
『髙橋旋盤加工製作所』
錆びついたトタンの壁、油の染みたコンクリートの床。時代から忘れられたような、小さな町工場だ。
中からは、キーン、という金属を削る甲高い音と、鉄の焼ける匂いが、絶え間なく漏れ出してくる。
多重寺が、事務所の引き戸をガラリと開けると、作業をしていた数人の男たちが、一斉に訝しげな顔を向けた。
「あの! こちらに、棚橋直樹さんとかたいらっしゃいますか?」
多重寺は、あえて無遠慮な大声で、そう尋ねた。
すると、奥から人の良さそうな、しかし芯の強そうな目をした初老の男が、手を油で汚したまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。この工場の社長、髙橋だろう。
「…あの、失礼ですが、どちら様でしょうか?」
その声には、セールスマンを追い返すための、長年の経験で培われたような、穏やかだが揺るぎない壁があった。
多重寺は、わざと人懐っこい笑みを浮かべてみせた。
「いやぁ、どうも! 俺、直樹の昔のダチでしてね! 近くまで来たんで、顔でも見ていこうかと思いまして。ただの、お友達ですよ」
その、あまりにも場違いな馴れ馴れしさ。
髙橋社長の目が、一瞬、鋭く光った。彼は、この見慣れない男の正体を、瞬時に悟ったのだ。友達などではない。こいつは、あの古い傷を、再び抉りに来た部外者だ、と。
「…そうですか。ですが、あいにく直樹は今、立て込んでまして…」
「まあまあ、そう言わずに! 邪魔はしませんから!」
多重寺は、髙橋社長の制止を無視し、ズカズカと工場の中へと上がり込んだ。
「お邪魔しますよ」
その、強引な一言が、合図だった。
髙橋社長の、人の良さそうだった表情が、能面のように消える。
そして彼は、工場の奥で、黙々と旋盤に向かって作業をしていた一人の若者の背中に向かって、これ以上ないほどの大声で、叫んだ。
それは、警告であり、愛する者を守るための、魂からの叫びだった。
「警察だ!!」
その言葉に、作業をしていた若者が、ビクリと肩を震わせる。
「直樹! 警察だぞ!!」
旋盤の甲高い音が、鳴り響く工場の中。
棚橋直樹は、12年ぶりに聞くその言葉に、ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り返った。
その顔は、12年前の新聞の写真の面影を残しながらも、真面目な労働だけが刻むことのできる、誠実な皺が刻まれていた。
しかし、その瞳の奥には、決して消えることのない、深い、深い怯えの色が、まるで古傷のように、こびりついていた。
「…けい、さつ…?」
直樹の唇が、震えながら、その音を紡ぐ。
髙橋社長は、直樹をかばうように、多重寺の前に立ちはだかった。
「何の用だ!」
多重寺は、何も言わなかった。
ただ、静かに、警察手帳を開いて見せた。
そして、その奥で震えている、元殺人犯の――あるいは、愛する妹のために全てを捧げた聖者の顔を、じっと、見つめていた。
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