第11話:岐阜への片道切符

エピソード:岐阜への片道切符


店の重い扉が閉まり、六本木の喧騒が、遠くに聞こえる。

多重寺と井上は、しばらく無言で、ネオンに照らされたアスファルトの上に立ち尽くしていた。

さっきまでの取調室での、あの圧倒的な敗北。絹代の、悪魔のような論理。それが、ずしりとした鉛のように、二人の肩にのしかかっていた。


やがて、先に沈黙を破ったのは、若い井上だった。その声は、悔しさと、そしてわずかな恐怖に震えていた。

「…係長。あの女…」


「ああ」

多重寺は、井上の言葉を遮るように、短く、そして吐き捨てるように言った。

ポケットから煙草を取り出し、震える手で火をつける。深く、深く、煙を吸い込んだ。


「あの野郎…。知ってやがったんだ」


「え…?」


「全部だよ。俺たちが仕掛けた罠も、偽刑事が“偽物”だってことも、俺たちがまだ決定的な物証を掴んでねえことも、全部、最初からお見通しだったんだ。あの女、俺たちの掌の上で、楽しんでやがったんだよ。俺たちを、道化にしてな」


多重寺は、苦々しげに煙を吐き出した。

プライドを、根こそぎへし折られた。刑事として、いや、一人の人間として、これほどの屈辱は、記憶になかった。

井上は、言葉を失った。あの完璧に見えた作戦が、全て相手に筒抜けだったという事実。そして、自分たちが、ただ哀れな駒として踊らされていただけだったという現実。


「…ど、どうします? これ以上、奴に直接接触しても、また同じことの繰り返しです。まるで、暖簾に腕押しだ…」


打つ手がない。

正攻法は、通じない。

罠は、見破られる。

井上の声には、諦めの色が濃く滲んでいた。


しかし、多重寺は違った。

彼の瞳の奥では、屈辱という名の燃料が、新たな、そしてより危険な炎となって、燃え上がっていた。


「……岐阜だ」


「えっ…岐阜、ですか?」


多重寺は、煙草を地面に落とし、靴の裏で力強く踏みつけた。まるで、絹代の、あの憎らしい笑顔を、踏み潰すかのように。


「あいつには、兄貴がいただろ。12年前に、あいつの罪を被った、たった一人の兄貴が」


「はい。棚橋直樹…ですが、それが何か…」


「直接、奴の心を折れねえなら」

多重寺は、にやり、と笑った。それは、正義の刑事の顔ではなかった。目的のためなら手段を選ばない、冷徹な狩人の顔だった。


「奴の、唯一の弱点を、叩けばいい」

「奴の、アキレス腱を、内側から引きちぎってやるんだよ」


「……係長。まさか…」


多重寺は、井上の肩を、強く掴んだ。その目に、狂気と、そして絶対的な自信の光が宿る。


「ああ。“泣き落とし”に入る」

「あの兄貴に、12年前の『真実』を突きつけ、そして、妹を説得させるよう、揺さぶりをかける。肉親の涙ほど、強ぇ武器はねえからな」


「し、しかし…そんなやり方…!」


「黙れ」

多重寺の声は、低く、有無を言わさなかった。


「いいか、井上。覚えておけ。どれだけ悪ぶって、どれだけ鉄の鎧を着込んでるつもりでもな…」

「“過去”に落ちなかった奴は、いねぇんだよ」


それは、もはや正攻法の捜査ではなかった。

一人の人間の、最も聖域であるべき「家族の愛」という名の心の傷に、塩を塗り込むような、あまりにも非道な作戦。

しかし、あの怪物を屠るためには、こちらもまた、怪物になるしかない。


多重寺は、踵を返した。

その背中は、岐阜へと向かう、長い、長い戦いの始まりを、静かに告げていた。

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