第9話:犯人の食卓
エピソード:犯人の食卓
警視庁捜-査一課の会議室は、澱んだ空気と、消えることのない事件現場の写真、そして冷めきったコーヒーの匂いで満ちていた。多重が『Fre-nzy』での「接触」から戻ると、若い井上刑事が興奮気味に、しかし小さな声で尋ねてきた。
「どうでした、係長? やはり、あのサユリとかいう女が…」
「ああ、黒だ。間違いねぇ」
多重は、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを一口飲むと、まるで昨日の天気の話でもするかのように、こともなげに言った。
「『棚橋』と呼んだ瞬間、コンマ2秒、動きが止まった。あれは、訓練されたプロでも隠しきれんレベルの反応だ」
その確信に満ちた言葉に、井上は拳を握りしめた。
「よし…! すぐにでも任意同行を…!」
「まだだ」
多重は、前のめりになる若手を制した。「あれは、まだ物証じゃねぇ。ただの状況証拠。今の段階でヘタに動けば、腕利きの弁護士一人に全部ひっくり返される。あの女、タマじゃないぞ。相当なタヌキだ」
その評価に、井上はどうしても納得がいかないという顔で、素朴な疑問を口にした。
「しかし…ホシだとしてですよ?」
彼は、室内の誰もが心のどこかで思っていた、最も根源的な問いを言葉にした。
「あれだけ残虐な事件を起こしておいて、すぐ翌日に、何食わぬ顔で同じ街の店に出勤できるもんなんですかね? 普通の人間なら、罪悪感とか、恐怖で、とてもじゃないけど…」
その、あまりにも正論で、あまりにも青臭い問いに、多重はしばし黙り込んだ。
彼は、窓の外に広がる、無機質な東京のビル群を眺めている。彼の目には、そのビルの一つ一つの窓の中に、数え切れないほどの「普通ではない人間」たちの人生が見えているのかもしれない。
多重は、井上の方を振り返ることなく、静かに言った。
「井上。お前は、人を殺したことがあるか?」
「はぁ?」
突拍子もない質問に、井上は目を丸くした。
「いえ、滅相もございません! 僕は、犯人じゃないので、分かりかねますが…」
その答えを聞いた瞬間、多重は溜め込んでいた何かを吐き出すように、大きく息をついた。
そして、ゆっくりと振り返ると、
バシンッ!
乾いた音が、静かな会議室に響き渡った。
多重の大きな掌が、井上の後頭部を、愛情とも苛立ちともつかない強さで、はたいていた。
「いった! な、何するんですか、係長!」
「馬鹿者!」
多重の、普段からは想像もできないほどの、腹の底からの怒声だった。
「お前は、何年この仕事やってるんだ! “普通の人間なら”? “罪悪感”? んなもんはな、俺たちや、お前みたいな、人を殺したことのない側の人間の、ただの願望であり、幻想なんだよ!」
彼は、鬼の形相で井上の胸ぐらを掴み上げた。
「俺たちが追ってるのはな、その“普通”の線路から、自らの意志で、あるいはどうしようもなく、脱線しちまった連中なんだ。奴らの飯の味も、見る夢も、罪の重さの感じ方さえ、俺たちとは違う! その想像力の欠如が、いつかお前の命取りになるぞ! 分かったか!!」
「は…はいぃっ!」
多重は、ふん、と鼻を鳴らして井上を解放した。
そして、まるで何事もなかったかのように、また窓の外へと視線を戻す。
「…奴は、飯も食うし、クソもする。男と寝て、くだらない冗談で笑いもするだろうよ」
彼の声は、もう怒りを含んでいなかった。ただ、深い、深い諦念と、そしてプロとしての揺るぎない覚悟だけが、そこにはあった。
「俺たちの仕事はな、井上」
「そんな怪物の、何気ない日常の中に、そっと**手錠という名の“句読点”**を、置いてくることだ」
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