第8話:針と風船

エピソード:針と風船


六本木の夜は、昨日と何も変わらない顔で、欲望と虚飾の光を放っていた。

『Frenzy』の店内もまた、同じだった。安い称賛、下卑た冗談、そして高価な酒が、虚しく行き交っている。

私は、新しい源氏名「サユリ」として、その風景に完璧に溶け込んでいた。新人らしい初々しさを演じ、客の自慢話に感心したフリをする。誰も、私がほんの24時間前、街を揺るがす残虐な事件の引き金を引いた犯人だとは夢にも思わない。


その、完璧な日常に、一本の針が突き立てられたのは、何の前触れもなかった。


「失礼、少しいいかな」


穏やかな、しかし有無を言わさぬ声。

顔を上げると、そこには見覚えのある、疲れた目をした中年男性が立っていた。スーツ姿だが、この店の客層とは明らかに異質だ。ああ、そうか。昨夜、ママと話していた刑事だ。多重、とか言ったか。


「昨夜はどうも。少しだけ、聞き込みの続きを」

多重は、私の隣に座る客に軽く目礼すると、当然のようにソファに腰を下ろした。彼は、私と向かい合うのではなく、カウンターの向こう側を眺めながら、まるで世間話でもするかのように、静かに語り始めた。


「昨夜、我々を騙った偽の刑事がいた件ですがね。どうも、単なる悪戯ではないようです。連中は、かなり正確な情報を掴んでいた。まるで…」


彼は、そこで一度言葉を切り、カウンターに置かれた私のグラスに、視線を落とした。


「…まるで、犯人を知っていて、誰かをハメようとしていたかのようにね」


私の心臓が、わずかに跳ねた。

しかし、表情は動かさない。私はサユリ。事件とは何の関係もない、ただの新人だ。


「物騒ですねぇ」

私は、練習通りのか弱い声で答えた。


多重は、私の返事には答えなかった。彼は、ただ静かに、何かを待っているようだった。

何を?

私にボロが出るのを? 無理な話だ。私は、もう前の私ではないのだから。


しばしの沈黙。

やがて、彼はふぅ、と長い息をつくと、諦めたように立ち上がった。


「失礼、仕事の邪魔をしましたね。我々も、少し焦っているのかもしれません」


彼はそう言うと、背中を向けて歩き出した。

店を出ていく。

その背中を見送りながら、私は内心で安堵の息をついた。勝った。この探り合いにも、私が。


多-重が、店の出口の扉に手をかけた、まさにその瞬間だった。

彼は、こちらを振り返ることなく、まるで独り言のように、ぽつりと呟いたのだ。


「ああ、そうだ。一つ、言い忘れていました」


その声は、静かだったが、店内の喧騒を貫いて、私の鼓膜だけを正確に震わせた。


「棚橋さん」


──たなはし。

私の、本当の姓。

その音の響きに、私の身体の全ての時間が、一瞬だけ、フリーズした。

心臓が、鷲掴みにされる。

グラスに伸ばしかけていた指が、ミリ単位で、空中で停止する。


ほんの一瞬。

コンマ数秒にも満たない、硬直。

誰にも気づかれなかったかもしれない。私自身でさえ、気のせいだと思ったほどに。


しかし、店の出口に立つ男は、それを見逃さなかった。

扉のガラスに映る反射。彼は、背中を向けたまま、私のその僅かな反応を、完璧に捉えていたのだ。


「……いや」


彼は、ゆっくりとこちらを振り返った。その目には、獲物を見つけた狩人の、冷たい光が宿っていた。


「人違いでしたかな? 失礼」


多重は、初めて口元に笑みを浮かべると、今度こそ本当に店を出ていった。


後に残された私は、完璧な笑顔を顔に貼り付けたまま、ただ一点を見つめていた。

バレてはいない。

まだ、決定的な証拠はない。

しかし、分かってしまった。


私は、巨大な風船。

彼は、鋭い針を持った男。


いつ、その針が風船に触れるのか。

ただ、それだけの問題だった。

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