第3話:最初のワルツ



『私の名前はSILK』

第3話:最初のワルツ


事件のせいで、閑散としていた。

普段なら、週末の夜はもっと、欲望と活気で満ちているはずなのに。あの『フレンドリー』での惨劇は、六本木の夜そのものを、わずかに怯えさせているようだった。

それでも、店には明かりが灯る。私(SILK)も、他の女たちも、そしてママも。みな、同じだ。生きるために、今日も嘘をつく。


カラン、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ!」

黒服の、どこか力の抜けた声。入ってきたのは、二人組の男だった。くたびれたスーツに、場違いなほど真面目そうな顔。この店の客層とは、明らかに異質だった。


店内を、値踏みするように見回す二人組。マネージャーが、慌てて駆け寄る。

「お客様、どなたかお探しで? ご指名はございますか?」

作り笑いを浮かべ、何とかこの静かな夜に、少しでも金を落としてもらおうと必死だ。


年嵩の男は、マネージャーの言葉には答えなかった。

ただ、店内をゆっくりと見渡し、そして、その視線が、一つのテーブルで、静かにグラスを磨いている私の姿を、捉えた。

男は、私を、無遠慮に、指差した。


「あの娘。名前は?」


その、あまりにも無作法な振る舞い。だが、金は金だ。

マネージャーは、少し顔を引きつらせながらも、取り繕うように答えた。


「ああ、**SILK(シルク)と申します。うちで今、一番“売り出し中”**の、人気の娘(こ)でして」


“売り出し中”。“人気”。

その嘘は、私が入ってまだ数時間しか経っていないという事実を、巧みに覆い隠す。夜の街では、時間はこうして歪められていく。誰も気にしない。夜の始まりは、いつも、新しい嘘の始まりでもあるのだから。


男――多重寺は、まっすぐに、私のテーブルへと歩いてきた。

そして、私の目の前のソファに、どかりと腰を下ろす。


「……」


SILK。と、呟く彼の唇が、かすかに動いた気がした。

そして、ふと、目が合う。


その、瞬間。

私の、全身の毛が、逆立った。

間違いない。

こいつ、刑事だ。


あの店(フレンドリー)に現れた、偽物たちとは、種類が違う。本物だ。本物の、**“こちら側”**の人間だ。獲物の匂いを嗅ぎつけ、その魂の在処すらも見透かす、飢えた猟犬の目をしている。


恐怖が、喉元までせり上がってくる。

しかし、ここで動揺すれば、終わりだ。

これは、ゲームだ。腹の探り合い。ブラフと、駆け引きの、心理戦の始まり。


私は、息を吸った。

そして、女優「SILK」として、最高の笑顔を、彼に向けた。

主導権は、絶対に、渡さない。


「何か、お作りしましょうか?」


私が、先に、言葉を発する。

これは、私の舞台だ。私がルールだ。お前は、ただの客。私は、お前をもてなすホステス。この関係性を、最初に、相手に刻み込む。自分サイドに、引き込むための、最初の布石。ペースは、私が作る。


大丈夫。バレやしない。

私は、ただの新人の、SILKなのだから。


多重寺は、私の笑顔を、無表情で見返した。

そして、低い声で、注文を告げた。


「ウィスキーを、ロックで。…強めで、頼む」

「かしこまりました」


順調だった。

私は、か弱い新人を完璧に演じ、男は、無口で、少し気難しいだけの、ただの客だった。そう、見えるはずだった。


グラスを、彼の前に置く。

氷が、澄んだ音を立てる。

その音を合図にするかのように、男は、唐突に、話を切り出した。


「…昔な、SILKって名前の娘がいてね」


私の手が、わずかに、震えた。


「俺が、よく通ってた店なんだ。『フレンドリー』って、知ってるかな?」


回りくどい、探り。その、粘つくようなアプローチに、私の心の仮面が、少しだけ、揺らぎそうになる。

私は、動揺を隠すために、近くの客のために水割りを作り始めた。その、手を動かすという行為が、私の平常心を保つ、唯一の錨だった。


「さあ…ええ、まあ、同業者ですから、名前くらいは」

水と、ウィスキーと、そして、嘘を混ぜる。言葉を、かき混ぜる。


「可愛い娘だったよ。気立ても良くてな。…まさか、あんなことになるなんてなぁ」

多重-jiは、そう言って、ウィスキーを、一気に煽った。


そして、空になったグラスを、私に差し出しながら、言った。

初めて、私に興味を示したかのように。


「ところで、お嬢ちゃん」

「君の名前は?」


今、この瞬間、この店にいる誰もが、私の名前を知っている。

それでも、彼は、あえて、聞いたのだ。

私自身の口から、その禁断の名前を、言わせるために。


私は、微笑んだ。

もはや、逃げることはできない。

ならば、踊ってやる。この、悪魔との、最初のワルツを。


「SILKと、申します」


私は、答えた。

わずか数時間前に起きた、爆破事件の、その被害者の名を、自ら。

あまりにも大胆な、自らのその振る舞いに、私は、思わず苦笑いを浮かべそうになるのを、必死で堪えた。


女優は、決して、素の顔を見せてはならないのだから。

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