第八話 己の日常
着替えは、選択だ。
家の箪笥には、柄が並んでいる。
用途別でも、季節別でもない。
ただ、重ねられてきた順に。
一段、引き出す。
向い鶴。
対になった鶴が、互いに向き合っている。
距離は一定。
線は重ならず、余白を侵さない。
整っている限り、この柄は何もしない。
守ることも、拒むこともない。
ただ、場を落ち着かせる。
それを着る。
帯は、完全には締めない。
合わせも、寸分違わずには揃えない。
鶴の視線が、わずかに外れる位置で留める。
向き合ってはいるが、噛み合ってはいない。
その状態で、外に出る。
依頼先は初対面の者ばかりだった。
表情は揃っている。
困惑と警戒が混じった顔だ。
説明は求められない。
求められているのは、収まるかどうかだけ。
現場に入る。
音の出るはずの場所は、静かだ。
だが、柄は落ち着いていない。
向い鶴の片側が、さらにずれる。
視線が変わる。
床との距離が曖昧になる。
浮いている、という感覚はない。
ただ、そこに留まる理由が薄くなる。
何も起こらない。
しばらくして、音が止む。
空間が、元の重さを取り戻す。
向い鶴を整える。
左右が、再び向き合う。
足が床に触れる。
「……終わった、んですよね?」
頷く。
鶴が揃っている。
それで十分だ。
「気をつけることは?」
一瞬、柄を見る。
「崩さないことだ」
それだけ告げる。
人当たりは悪くない。
だが、安心もしないだろう。
帰り際、誰かが小さく言った。
「変な人じゃないけど……
気をつけた方がいい、って」
否定はしない。
外に出る。
向い鶴は、静かに向かい合っている。
何もしていない。
だが、崩せばどうなるかは、
己だけが知っている。
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