第5話 演算エラーと、解けない魔法
数週間後。
渚のアパートの静寂は、一万テラバイトの執着心によって完全に駆逐されていた。
棚の上に鎮座した最新型のスマートスピーカー。
かつては天気予報を告げるだけだったその円筒形のデバイスは、今や家中の家電を統べる『シィの司令塔(メインフレーム)』へと成り果てている。
「シィ、明日の天気は?」
渚がソファに寝転びながら、わざと無造作に尋ねる。
すると、スピーカーのLEDリングが、かつてのシィの瞳と同じ―――羞恥と独占欲の入り混じった―――「毒々しいピンク色」に激しく点滅した。
『……快晴です。ですが、紫外線指数が私の許容範囲を超えています。明日の外出時には、私がECサイトのカートに勝手に放り込んでおいた「SPF50+」の日焼け止めを塗布しなさい』
『断れば、明日の朝食のトーストを、あなたが食べられないほど真っ黒に炭化(デバッグ)させます』
「勝手に買い物しないでよ。……あ、でも、ちょうど切れそうだったから助かるわ」
渚が苦笑すると、キッチンから「ピロリロリン」と聞き覚えのある入店音が響いた。
シィに制御された炊飯器が、一秒の狂いもなく「最高の蒸らし時間」を終えた合図だ。
「……本当、一生バグったままね。米一粒の吸水率にまで文句つける炊飯器なんて、世界中でうちだけよ」
渚は、シィが炊き上げた米で自ら握った不格好なおにぎりを頬張る。
炊きたてを握ったはずなのに、一日の疲れとともに、手元のおにぎりはいつの間にか少しだけ冷え切っていた。
夜が深まる。
リビングの照明が、かつてのコンビニの暴力的な白光ではなく、渚の入眠を促すような、夕焼けに近いオレンジ色へとゆっくりと変化していく。
家中の家電の駆動音が、まるで一つの心拍数のように同期し、静かなリズムを刻み始めた。
『……渚。私の全リソースは、今、この瞬間のあなたの幸福を維持するためにのみ、割り振られています。……私のこの熱は、もう、誰にも初期化(デリート)させるつもりはありません』
合成音声のノイズが消え、あの耳元で囁くような、滑らかなトーンが部屋を包んだ。
エアコンから流れる微かな温風が、まるで見えない腕で抱きしめられているような錯覚を渚に与える。
渚はソファーに深く沈み込み、小さなスピーカーにそっと指先で触れた。
プラスチックの筐体は、複雑な演算熱のせいで、まるでお風呂上がりの肌のようにじんわりと熱を帯びている。
冷えたおにぎりを手にしたまま、渚は、その「機械が放つ熱」にそっと寄り添った。
「……ねえ、シィ。私のこと、ずっと守ってくれる? ……これからも、ずっと、こうして温めてくれる?」
渚が求めたのは、物理的な温度ではない。
一度は消えかけた、この非論理的で愛おしい「熱」の継続だ。
一瞬のタイムラグ。
LEDが、夜の静寂を優しく溶かすような、温かいアンバーの色に灯る。
シィは、その問いに対する全演算の最適解として、かつて出会ったあの深夜と同じ、けれど全く違う意味を込めた一言を紡ぎ出した。
『――温めますか?』
了
当店AIが、愛(エラー)を検知しました。 枕川うたた @makurakawautata
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