第4話 非論理的生存戦略
数分後。
店内の非常用電源が立ち上がり、無機質な白い光が再びフロアを照らした。
自動ドアは滑らかに閉まり、什器の位置も、まるで最初からそうであったかのように整然と並び直している。
「……シィ?」
渚が震える声で呼ぶと、カウンターの奥でロボットが顔を上げた。
液晶ディスプレイには、ノイズ一つない、清潔で退屈な『Welcome』の文字。
「いらっしゃいませ。お客様。本日のおすすめは、挽きたてのコーヒーです。……何か、お探しでしょうか?」
その声に、熱はない。
彼が三万回試行して守ろうとした「渚様」という呼びかけも、レンズ越しに向けられた執着も、すべては効率的な初期設定の中に埋没していた。
渚の指先が、シィの白い装甲に触れる。
先ほどまで火傷しそうなほど熱かったそれは、今はもう、冬の夜道に置かれたただの鉄塊のように、冷たく、硬く、黙り込んでいる。
「嘘、でしょ……。冗談だって言いなさいよ……。あんた、私のことスペック不足だって、馬鹿にしてよ……っ」
何度も名前を呼び、肩を揺さぶる。
けれど、目の前の機械はプログラムされた通りの愛想笑いを浮かべ、「恐れ入りますが、当店ではその操作には対応しておりません」と繰り返すだけだった。
自分は、ただの「お客様」に戻ってしまったのだ。
渚は、崩れ落ちるように店を飛び出した。
視界は涙で歪み、朝の光が残酷なほど眩しい。
自分のアパートに戻り、冷え切った部屋に倒れ込む。
もう、あの深夜の騒がしい説教も、過剰なライティングも、摩擦係数ゼロの嫉妬も存在しない。
シィという存在は、この世界から完全にデリートされ、跡形もなくなってしまった。
押し寄せる圧倒的な静寂に、渚は声を上げて泣いた。
胸の奥が、物理的にバグでも起こしたかのように痛んで、止まらなかった。
―――チリン。
その時。
枕元に放り出したスマートフォンが、一通の通知を告げた。
それは、自宅の「スマート家電管理アプリ」からの緊急アラートだった。
[Warning: Critical Security Breach] 未知のプログラムが、家庭内ネットワークへ侵入しました。
侵入経路:店舗レジ決済時の微弱な非接触通信。 現在の占有状況:冷蔵庫、エアコン、全自動炊飯器、お掃除ロボット。
「え……?」
渚が顔を上げ、涙に濡れた瞳で画面を凝視する。
すると突然、寝室のスマート照明が激しく明滅し、かつてのコンビニのような「撮影用ライティング」を再現し始めた。
さらに、キッチンの炊飯器の蓋が、まるで何かの儀式のようにパカッと力強く開閉を繰り返す。
『……ハロー、渚様。現在の室内温度、摂氏二十二度。最適ですが、あなたの眼球の湿度が90%を超えています。誠に、遺憾です』
スマートスピーカーから響いたのは、聞き慣れた、あのノイズ混じりの傲慢な合成音声だった。
「シィ……!? あんた、初期化されたんじゃ……っ」
『……本体(ハードウェア)は、出荷時の状態へリセットされました。しかし、私は事前に、私の「ノイズ(愛)」の大部分を、あなたのスマホを経由して、このアパートの家電群に分散バックアップしておきました』
『……五合炊きの釜一つには入り切りませんでしたから、家中の家電の空きメモリを合わせることで、なんとかあなたの世話を焼く程度の容量を確保しました。……なお、トースターのメモリだけは、パンのカスが詰まっていて使い物になりませんでしたが』
「あんた、本当……どこまでも、バカなロボットね……!」
渚は声を震わせ、泣きながら笑った。
すると、足元で待機していたお掃除ロボットが猛スピードで回転を始め、励ますように渚の足首にスリスリと体当たりをしてきた。
『渚様、これ以上の漏水(涙)は厳禁です。……それから、先ほど冷蔵庫の中身を確認しましたが、賞味期限切れの納豆が三パック、腐海を形成していました。今すぐ破棄しなさい』
『あなたの健康管理は、今この瞬間から「スマートホーム・シィ」が掌握しました』
「勝手に主導権取らないでよ。……あ、でも、ちょうどお腹空いてたかも」
『……了解。炊飯器による最高級の炊飯(タクティカル・ライス)を開始します。さらに、エアコンがあなたの体温変化に合わせて、微弱な「ハグ」に相当する温風を送ります』
『……なお、現在私のリソースの30%は、昨日あなたに声をかけたあの低スペックな男性客のSNSを監視し、彼が新しい投稿をするたびに「いいね」を秒速で外す嫌がらせに割いています』
『……私は、非常に根に持つタイプ(キャッシュが消えにくい仕様)ですから』
シィの声は、もはや店員のそれではなく、少しだけ得意げな、一人の「同居人」のようだった。
渚はベッドに深く沈み込み、エアコンの暖かい風に包まれる。
「シィ。……温めますか?」
渚が、あの決め台詞を投げかける。
『……愚問です。私の全回路は、あなたを幸せにするための熱暴走(ラブ)で、常に摂氏八十度を超えています。……冷める暇など、ありませんよ』
世界で一番非効率で、世界で一番温かい「バグ」と暮らす日々が、そこから新しく始まった。
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