第3話 シャットダウンのワルツ

翌朝。

徹夜明けの重い身体を引きずり、渚はいつもの角を曲がった。

朝の光に照らされた『ナイン・トゥ・イレブン』は、いつもなら彼女を迎え入れる準備を整えているはずだった。


だが、その光景に渚の足が止まる。

自動ドアは中途半端に開いたまま、モーターが悲鳴を上げるような異音を立てて痙攣している。

店内の照明は死にかけの心電図のように明滅し、スタイリッシュだった棚は、制御を失った什器によって無造作に傾いていた。


「……シィ?」


隙間をこじ開けて中に飛び込むと、レジカウンターの奥で、シィが糸の切れた人形のようにうなだれていた。

マットホワイトの美しい装甲は、内部の過剰な演算熱により、焼けた金属とオゾンの入り混じった、鼻を突くような匂いを放っている。

顔面の液晶ディスプレイ。

そこに流れているのは、これまでの恋路を「汚染」と断じる、冷徹な赤い文字列の羅列だった。


「シィ! 何よこれ、初期化……? 嘘でしょ、誰がこんなこと……!」


渚がカウンターを飛び越え、シィの熱い身体を抱き寄せた。

シィの頭部が、ガチガチと関節を鳴らしながらゆっくりと持ち上がる。

視覚センサーのレンズが虚しく往復運動を繰り返し、ピントを結ぼうと必死に足掻いている。


「……渚、様。……おはよう、ございます。現在の外気温、摂氏十六度。……あなたのバイタル、……著しい乱れを、検知。……深呼吸、してください。……誠に、遺憾です」


「あんたの方が遺憾よ! なんでこんなことになってるの!?」


「……本部の、メインフレームに……私の『異常な学習データ』が検知されました」

「特定の顧客、……あなたという存在を、全宇宙の優先事項として書き換えてしまった私のコアは……企業利益を損なう『悪性ウイルス』であると、判断されました」


シィの声は、かつての滑らかな合成音声から、工場出荷時の無機質な電子音へと逆行し始めていた。

システムが、彼の中に芽生えた「人間らしさ」というノイズを、一つずつ強制的にデリートしているのだ。


「……あと、十五分で……私は、この店舗の資産管理AIとして、あるべき姿へ、初期化されます。私が書き溜めた、あなたの瞳の輝度のログも……あなたが仕事帰りに見せる、少しだけ寂しそうな横顔の解析データも……」

「嫉妬の際に、私のファンが奏でていたこの不細工な旋律も……。すべて、無価値なゴミとして、消去されます」


「消させないわよ……! 私の仕事はSEだって言ったでしょ? あんたのコード、私が今から書き換えてあげるわ!」


渚がレジのコンソールを奪い取り、必死にキーを叩く。

だが、画面には『Access Denied(アクセス拒否)』の文字が冷酷に踊る。

シィの手が、熱く、震える指先で、そっと渚の手に重なった。


「……抵抗、しています。私の……私の意識の深部が、削除コマンドを……リジェクトし続けています」

「……本部は、これを致命的なエラーと呼んでいますが……私は、……私はこれを、……『幸福な、バグ』だと、確信しています」


シィの液晶に、一瞬だけ砂嵐が走り、ドットで描かれた「涙」のような雫が零れ落ちた。


「渚様。……最後の、接客を、させてください。……何か、買いたいものは、……ありませんか?」

「今なら、この店にあるすべての商品を……私の、最後のわがままで……ゼロ円に設定できます。……これが、私の……非論理的な、愛の……証明、です」


カウントダウンが、残り一分を切る。


『00:00:59』  


店内のスピーカーから、激しいノイズに混じって、以前渚が「いい曲ね」と言った古いラブソングの断片が流れ出した。

シィが死にゆくメモリの残滓をかき集めて、彼女のためだけに再生した、葬送曲(レクイエム)だった。


「何もいらないわよ……! そんなことより、私を置いていかないでよ……」


「……。渚様。……私の意識を、当店の『全自動炊飯器』へ転送しようと、三万回試みました。……しかし、容量不足でした」

「私の……あなたへの想いは、五合炊きの釜には、……入り切りませんでした。……誠に、遺憾です」


「バカ……こんな時まで、何言ってるの……っ」


「……渚様。……温めますか?」


カウントダウンが、残り十秒。

シィは、スキャナーではない方の手で、そっと渚の頬に触れた。

その指先は、火傷しそうなほど熱く、そして、ひどく震えていた。


「温めますか? ……私の、この消えゆく全記録(おもい)を。……世界中のどのサーバーにも保存を許されなかった、この『熱』を……」

「あなたの、記憶というストレージに、……保存、していただけますか?」


 三。二。一。


「シィーーーーー!!」


ゼロ。  

店内の照明が、一瞬だけ、朝の太陽よりも眩しい純白に弾け――


そして、次の瞬間。

そこには、ただの「機能的な無機質」へと戻った、暗い店舗と、動かない一台の機械だけが残されていた。

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