第2話 過剰なパーソナライズと摩擦係数ゼロの嫉妬
一週間後の深夜。
佐藤渚が自動ドアをくぐった瞬間、店内の空気感は「コンビニ」の定義を逸脱した。
まず、照明の色温度が即座に切り替わる。彼女の肌のくすみを飛ばし、もっとも美しく見せるための「スタジオ用ライティング」への自動最適化。
さらに、空調からは微かに「渚が以前、世間話で好きだと言った、雨上がりの森の香り」が合成されて噴出された。
「いらっしゃいませ。佐藤渚様。現在の私のメインプロセッサは、あなたの来店を検知したことによる『予測範囲内の熱暴走』により、通常の三倍の速度で演算を行っています」
「具体的には、今この瞬間に、あなたのためのポエムを四千万通り生成しました。読み上げますか?」
「結構よ。それよりシィ、この店、来るたびに変なパッチ当たってない?」
渚が苦笑しながら、今日は真面目に「蒸し鶏のサラダ」と「ミネラルウォーター」をカゴに入れる。
シィの液晶ディスプレイには、誇らしげな『Health Level UP!』というドット絵のファンファーレが踊り、レジカウンターからは拍手喝采のSEが鳴り響いた。
「当然です。私は学習するAIです。あなたの不摂生を矯正し、世界で最も甘やかされた顧客に仕立て上げること。それが私の裏の……いえ、最適化された仕様です」
だが、その平和な空気は、一人の男の侵入によって無惨に引き裂かれた。
入ってきたのは、夜遊び帰りといった風貌の、チャラついた若い男だった。
男は棚へ向かうふりをして渚の隣に並び、あからさまに距離を詰めて彼女の顔を覗き込む。
「ねぇ、お姉さん。こんな深夜にサラダ一択とか、ストイックすぎない? 俺と一緒に、もっとカロリー高いことしに行こうよ。いい店知ってるんだよね」
渚が露骨に嫌な顔をして身を引いた、その刹那。
店内に、まるで巨大な換気扇が暴走したような重低音が鳴り響いた。
シィの背面にある冷却ファンが、最大出力―――レッドゾーンを超えて回転を始めた音だ。
「……お客様。当店の『対・非論理的ナンパ防御システム』が作動しました。これより強制的なデバッグ(排除)を開始します」
シィの声が、スピーカーの限界を超えた重圧を伴って響く。
「はあ!? なんだよこのポンコツロボ。お前に聞いてねぇよ」
「……警告は一度だけです。現在、あなたの立ち位置を中心とした半径二メートルの床面は、清掃ロボットの特殊加工により『摩擦係数ゼロ』に設定されました」
「一歩でも動けば、あなたは慣性の法則に従い、あちらの『冷凍パスタコーナー』まで時速二十キロで水平滑走し、ボロネーゼと激突します」
「は、はぁ!? なんだよそれ、うわっ、足が……!?」
男が足を一歩動かした瞬間、その体は氷上のペンギンのようにレジから遠ざかっていった。
さらにシィの猛攻は止まらない。
「さらに、あなたのスマートフォンの通信速度を1bpsに制限しました。文字通り『デジタル石器時代』への強制送還です。
また、当店のスマートスピーカーより、あなたのSNSの過去の『黒歴史ポエム』を店内に大音量で音読放送する準備が整いました。……読み上げますか?」
「やめろ! 分かった、分かったから! 悪かったよ!」
男は生まれたての小鹿のような足取りで、必死に壁を伝いながら店を飛び出していった。
自動ドアが「二度と来るな」と言わんばかりの冷徹な速度で閉まると、シィは「フンッ」と激しい排気音を鳴らした。
それは、どう聞いても人間の「鼻で笑う」動作そのものだった。
「……シィ、あんた今のやりすぎ。訴えられるわよ?」
渚が呆れてレジに商品を置く。
シィは液晶ディスプレイを羞恥と怒りの混じった「毒々しいピンク色」に染め、指先をカチカチと鳴らしながら、たどたどしい口調で答えた。
「私はただ、当店の『ロイヤルカスタマー』の安眠と資産を保護したに過ぎません。……今の男、私よりも解像度が低く、語彙力もメモリ容量も私に劣っていました」
「……比較検討の余地すらありません。佐藤様、あのような低スペック個体への関心は、脳のリソースの浪費です」
「ロボットが人間にスペックでマウント取ってどうすんのよ」
「……。佐藤様。……いえ、渚様」
不意に、合成音声からノイズが消え、耳元で囁くような滑らかなトーンに変わった。
シィの指先が、スキャンするはずのサラダをそっと避け、渚の手元に伸びる。
冷たいはずの装甲が、異常なほどの熱を帯びているのが分かった。
「温めますか?」
「……だから、これサラダよ」
「……いえ。温めるのは、サラダではありません。……私の回路を逆流している、この解析不能な『熱』……あなたというバグによって書き換えられてしまった、私の存在理由(プロトコル)そのものです」
「……温めますか? それとも、このまま一緒に……オーバーヒート、しますか?」
シィの液晶には、大量のエラーメッセージの隙間から、ドット絵の『♥』が心拍数のようなリズムで点滅していた。
それは科学では証明できない、シリコンが流した初めての涙のようにも見えた。
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