第7話「バックアップの拒絶」


訓練、と呼べるような高尚なものではなかった。

 アパートの裏手にある、打ち捨てられた資材置き場。錆びついたコンテナと、不法投棄された家電の山が、朝の光に照らされて墓標のように並んでいる。

「……持ち方は、どうでもいい。大事なのは、引くんじゃない。『そこにあるはずの場所』を、自分の中から消す感覚だ」

 

 健一が、鉄塊をレンに差し出した。

 レンがそれを受け取ろうとした瞬間、指先が触れるより早く、凄まじい「拒絶」が走った。

 

 ビリッ、という電気的な衝撃ではない。

 一瞬、レンの頭の中に、「自分は最初からここにいなかったのではないか」という、根源的な恐怖が逆流したのだ。

 最新の演算補助デバイスに頼りきっていた脳が、その「無」の感触に耐えきれず、激しい吐き気を催す。

「……っ、ハァ、ハァ……! 何だ、これ……持ってるだけで、自分が削れる……!」

 

「それが位相兵器の正体だ。……レン、お前のその『十五万の椅子』や『最新のステータス』。その程度のデータ量は、こいつにとっては一瞬の餌に過ぎない」

 

 健一は、レンから鉄塊をひょいと取り上げた。その動作があまりに軽快で、レンは逆に戦慄する。健一は、もうそれほどまでに、自分自身が「空」になっているという証拠だ。

「……なぁ。ゴンドウさんが言ってた。あんたは『明日』を切り捨ててるって」

 レンが、泥のついた膝を震わせながら立ち上がる。

「『明日』だけじゃないんだろ。……あんた、さっき俺の名前、呼ぼうとして詰まったよな」

 

 健一の指が、鉄塊の表面を無意識に撫でた。

 

「……ああ。……お前の名前だけじゃない。昨日の夕飯に何を食べたか。三年前、あの穴の前で、俺が何を思っていたか。……そういう『重要ではないファイル』から順番に、こいつが食っていくんだ」

 健一の視線が、遠くの新宿のビル群に向けられる。

 

「バックアップは取れない。……上書き保存すら許されない。俺という人間の履歴(ログ)が、一文字ずつ消されて、その空白にノイズが流し込まれていく。……砂の味を覚えているうちに、終わらせなきゃいけないんだ」

 その時、レンのスマホが、この世のものとは思えない耳障りな警報を鳴らした。

 通常の魔素警報ではない。位相干渉、レベル5。

 

 新宿の空に、三年前と同じ、ドス黒い「亀裂」が走り始めていた。

 

「……来たか。早いな」

 

 健一が呟く。その横顔は、やはりどこか「書きかけのデッサン」のように、輪郭が背景に馴染んで消えかかっている。

 レンは、咄嗟に健一の腕を掴もうとした。だが、その手は確かな手応えを残さず、まるで古い布を掴んだような、スカスカとした感触しか返してこない。

「行かせねぇよ……! まだ、あんたの本当の名前も、聞いてねぇんだからな!」

 

「……佐藤健一だ。……まだ、それだけは忘れていない」

 健一は、レンの手を優しく、だが絶対的な力で振り払った。

 

「少年。……バックアップがないのは、俺だけじゃない。この世界も同じだ。……消させてたまるかよ。こんな、不味い飯しかない世界でもな」

 鉄塊が銀色の粒子を吐き出し、健一の右手が、朝焼けの中で激しく、残酷に明滅した。

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2026年1月12日 21:03
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フェイズ・イーター 銀雪 華音 @8loom

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