第6話「砂の味、鉄の記憶」
朝焼けに染まる新宿は、血を流しすぎて青白くなった病人の顔に似ていた。
健一のボロアパートに辿り着いた時、レンの足取りは、高級なスニーカーのソールが削れるほどに重くなっていた。
「……何で、ついてくる」
ドアを開け、健一が背中で問いかける。
ゴンドウは途中で「死ぬんじゃねぇぞ」とだけ言い残し、夜の闇に消えた。残されたのは、世界から半分ログアウトしかけている男と、その幽霊を必死に観測しようとする若者だけだ。
「納得、できてないだけだ。……あんたの右手、あれ、何なんだよ」
健一は答えず、洗面台の蛇口を捻った。
錆びた鉄の匂いが混じった水が、勢いよく流れ出す。彼は、指先から肘にかけて激しく明滅し続ける右手を、その水流に晒した。
ジャ、ジャジャッ。
水が手に当たった瞬間、不自然なノイズが弾ける。
水しぶきが健一の肌に触れた途端、それは液体であることをやめ、一瞬だけデジタルな立方体(ブロック)へと姿を変え、霧散した。
「……っ!」
レンは息を呑んだ。
最新の物理シミュレーターでも見ているかのような、現実味のない光景。
健一は、その「バグった右手」を、痛がりもせずにただ眺めている。
「三年前だ」
健一の、掠れた声が響く。
「新宿大侵攻。……あの時、空に巨大な『穴』が開いたのを覚えているか。物理定数が狂い、街そのものがデータの塵になろうとしていた」
「ニュースで見たよ。……でも、あれはSランクバスターたちが食い止めたって」
「食い止めたんじゃない。……『フェイズ・イーター』という、失敗作の黒箱(ブラックボックス)で、穴を無理やり塞いだんだ」
健一は、濡れた手をタオルで乱暴に拭った。タオルの繊維すら、彼の肌に触れると僅かにノイズを吐く。
「俺が持っているのは、その時のスペアだ。いや、残骸と言った方が正しい。あれは武器じゃない。……世界のバグを自分の中に引き受ける、ただの『ゴミ箱』だよ」
健一は、台所に置きっぱなしにしていた、昨夜の残りのおにぎりを手に取った。
レンは見た。健一がそれを口に運ぶ時、彼の瞳に「美味そう」という期待が微塵も宿っていないことを。
「なぁ。……あんた、それ食ってて、何を感じるんだよ」
レンの問いは、震えていた。
自分は毎日、最新の栄養学に基づいたサプリを飲み、有名店のテイクアウトをSNSに上げている。食事は快楽であり、自己顕示の手段だ。
だが、健一にとっての食事は、ただ消えゆくバッテリーを無理やり充電するような、虚しい作業に見えた。
「砂だ。……時々、鉄の味が混じる」
健一は、咀嚼を止めずに答える。
「でもな、少年。……これしか、俺をこの世界に繋ぎ止めておく方法がないんだ。腹が減って、何かを噛み締めて。……そうしていないと、俺の意識そのものが、ノイズの海に溶けて消えちまいそうで」
そう言って笑った健一の顔は、あまりにも「普通」で、そして救いようがなく孤独だった。
ただの、くたびれた独身男。
賞味期限を気にし、狭い部屋で独り、砂を噛みながら世界を救った代償を支払い続けている。
その「みっともなさ」が、レンの胸を、電磁ナイフよりも鋭く突き刺した。
「……教えろよ。その、『ゴミ箱』の扱い方」
レンが、壊れたゴーグルを床に投げ捨てた。
「効率なんて、もういい。……あんたが消える前に、そのノイズの正体を、俺のこの目に焼き付けてやる」
朝陽が、ボロアパートの窓から容赦なく差し込む。
逆光に照らされた健一の身体は、まるで古いフィルムのように、端から少しずつ白く焼き切れていくように見えた。
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