第5話「夜明け前の、泥臭い命」


 魔素が霧散した新宿東口。崩れた瓦礫の上に、朝霧よりも冷たい静寂が降り積もっていた。

 先ほどまでそこにあったはずの、Cランク異生物『大空喰らい』の死体すら残っていない。健一が振るった『フェイズ・イーター』は、その存在をこの宇宙のメモリから直接消去してしまったかのようだった。

 

 ゴンドウは、突きつけた大太刀をゆっくりと鞘に収める。

 金属が擦れる乾いた音だけが、今の健一と世界を繋ぐ、唯一のまともな音に聞こえた。

 

「……立てるか、バカ野郎」

 

 健一は答えない。

 膝をついたまま、自分の右手を、まるで他人の忘れ物を見るような目で見つめている。

 激しく明滅していたデジタルノイズは収まったが、その指先は、今にも背景の瓦礫に溶け入りそうなほどに白い。血が通っているようには見えなかった。

「ゴンドウさん、あんた……本物、なのか?」

 

 数メートル先で呆然と立ち尽くしていた佐々木レンが、震える声で言葉を絞り出した。

 国内ランキング二位、伝説のバスター・ゴンドウ。

 レンが憧れ、その戦闘ログを何百回と解析してきた「頂点」が目の前にいる。だが、レンの最新型ARゴーグルは、すでに過負荷でレンズにひびが入り、エラーメッセージを吐き出し続けている。十五万したデバイスは、今のレンにとって、ただの重く冷たいプラスチックのゴミでしかなかった。

 

「ガキ。……バスターになりてぇなら、今見たことは忘れろ。ここは、お前が『効率』とか『演算』とかいう薄っぺらな言葉で片付けていい場所じゃねぇ」

 

 ゴンドウの言葉は、レンの自尊心を容赦なく切り裂いた。

 だが、レンは引き下がらなかった。泥に汚れた拳を握りしめ、自分より二倍は生きている老兵の背中に食らいつく。

 

「……忘れられるわけないだろ! 目の前で、人が消えかかってんだぞ! その人は……健一さんは、何なんだよ! あのノイズは何なんだよ!」

 

「……うるさいぞ、少年。鼓膜に響く」

 

 健一が、ようやく口を開いた。

 その声は、つい先ほど健一の部屋で対峙した時よりも、さらに掠れて聞こえた。まるで古い磁気テープが物理的に擦り切れ、再生ヘッドが空回りしているような、スカスカとした音。

 

 レンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 言葉の内容以前に、健一という人間を構成する「データ」の解像度が、この数分間で劇的に低下している。そんな錯覚――いや、演算エラーに近い確信が、壊れたゴーグルの向こう側で悲鳴を上げていた。

 

 健一はゆっくりと立ち上がろうとして、足をもつれさせた。支えを求めて伸ばした手が、ゴンドウの分厚い肩に倒れ込む。

 ゴンドウは無言で、その頼りない重さを受け止めた。

 

「…………健一。お前、また、安物の飯しか食ってねぇな」

 

 肩越しに伝わる重みが、あまりに、あまりに軽い。

 それは、長年の戦いで鍛え抜かれた肉体の重さではなく、中身の密度が少しずつ「無」に置き換わってしまった者の、不吉な軽さだった。

 服の下にある骨格も肉も、スカスカのスポンジに変わってしまったかのような感触。

 

「……おにぎりが、半額だったからな。鮭は、少しだけ塩気が強すぎるのが丁度いい」

 

 健一が、自嘲気味に笑った。

 味覚をほぼ完全に消失している彼にとって、それはもはや「記憶」の中に残されたパラメーターでしかない。

 その笑みは、神話の住人のものではなく、単に「今日の食い扶持を気にする、情けないオッサン」のそれだった。

 

 レンは、二人の間に流れる「言葉にできない空気」に、ただ圧倒されていた。

 自分のスマホの画面は、いまだにSNSの通知で騒がしい。動画がどうだ、伝説がどうだと、外側の世界は無邪気に「新宿の幽霊」というコンテンツを消費しようとしている。

 

 だが、この冷たい暗がりにいるのは、

 

 ただ、ボロボロになった大人が二人。

 そして、何もできなかった子供が一人の、みっともない現実だけだ。

 

 健一は、ゴンドウの肩を借りてゆっくりと歩き出す。一歩ごとに、彼の靴底がアスファルトを擦る音が、世界のノイズに掻き消されていく。

 ふと、健一は足元に落ちていた、レンの壊れたゴーグルに目を留めた。

 

「……直るよ、それは。基盤の位相が少しズレただけだ」

 

 健一は、振り返らずにそれだけ言った。

 

「まだ、世界の色が見えるうちに、もっとマシなものを……自分自身の目で、見ておけ」

 

 ビル群の間から、薄っすらと朝焼けが差し込み始めた。

 光を浴びた健一の背中は、やはりどこか、陽炎(かげろう)のように透けて見えた。

 

 レンは、泥のついたゴーグルを拾い上げ、強く握りしめた。

 最新の演算回路ではなく、自分のこの目と耳で、この「消えゆく男」の行方を追わなければならない。

 その衝動が、今の彼を突き動かしている唯一の、そして最も不確かな「現実」だった。

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