第2話 宿敵(勇者)と機械浴(処刑台)は使いよう

介護現場において、もっとも心臓に悪い音。

 それは、徘徊する入居者の足音でもなければ、深夜のナースコールによる電子音でもない。

 早朝7時。静寂を切り裂く、職員からの電話の着信音だ。

 トゥルルルル、トゥルルルル……。

 その音は、まるで地獄の釜の蓋が開く音のように、スタッフルームに響き渡っていた。

「……はい、もしもし。特別養護老人ホーム『エデン』です」

 受話器を取る俺、佐藤守の手は小刻みに震えていた。

 電話の主は、今日の入浴介助を担当する予定だったベテランパートの田中さんだ。

『あ、佐藤さん? ごめんねぇ、朝起きたら熱が39度あって……インフルエンザみたいで……』

「あ、ああ……インフルエンザですか。それは大変ですね……お大事にしてください……」

 俺は能面のような顔で電話を切った。

 ガチャリ。

 その10秒後。再び地獄のファンファーレが鳴る。

『あ、もしもしィ〜? 新人の鈴木っス。いやー、なんか朝起きたら腰が爆発したっていうか、ギックリ腰っスかね? 動けないんで休みまァす』

「……はい、お大事に。……診断書、後で持ってきてね(低音)」

 俺は虚空を見つめながら、ゆっくりと受話器を置いた。

 ホワイトボードのシフト表を見る。

 本日の早番スタッフ、全滅。

 入浴担当のパート、全滅。

 残された戦力は、夜勤明けですでにHPがマイナス領域に突入している職員と、本来は優雅に事務仕事(ケアプラン作成)をするはずの俺だけ。

「……終わった。俺の今日の業務が、藻屑と消えた」

 机に突っ伏し、絶望に打ちひしがれる俺。

 介護業界における「欠員」とは、単なる忙しさの増加ではない。「死」を意味する。

 入浴、排泄、食事介助。分刻みのスケジュールが全て破綻し、現場は阿鼻叫喚の巷と化すのだ。

「情けない顔をするんじゃないよ、守」

 その時、背後から野太い――いや、地底の底から響くような威厳のある声が降ってきた。

 俺がのろのろと振り返ると、そこには白衣を羽織った小柄な老婆が立っていた。

 白髪を後ろでひっつめ、丸い眼鏡の奥から鋭い眼光を放つ彼女こそ、この施設の施設長。

 そしてかつて、聖剣一本で魔界を壊滅させ、魔王を封印した伝説の元勇者、グランマ・オーガ(90歳)である。

「せ、施設長……。今日、現場(フロア)が回りません。物理的に無理です。法的配置基準もギリギリです」

「甘えるんじゃないよ。人がいないなら、私が出る。それだけさ」

 グランマは老眼鏡を外し、バキボキと指を鳴らした。

 その小さな背中からは、かつて魔王城の城門を素手でこじ開けた時と同じ、修羅のオーラが立ち昇っている。

「で、でも施設長! 貴女、御年90歳でしょう!? 腰は大丈夫なんですか!?」

「心配無用さ。伊達に半世紀以上、魔物と戦っちゃいないよ」

 彼女はニヤリと笑い、俺の肩をバシッと叩いた。骨がきしむ音がした。

「いいかい、守。よくお聞き。……世界を救うことよりね、当日の朝に穴が空いたシフトを埋めることの方が、よっぽど命懸けなんだよ」

 その言葉は、どんな英雄譚よりも重く、そして悲痛だった。


 数分後。

 俺と施設長は、魔王ヴェルザリアの居室の前に立っていた。

 今日の彼女は「入浴日」に当たっている。

 よりによって、もっとも手のかかる(ワガママな)VIP入居者の日に、スタッフが全滅するとは。神も仏もない。あるのは人手不足という現実だけだ。

「入るよ」

 ノックもそこそこに、施設長がドアを押し開ける。

 薄暗い部屋の中、車椅子(聖剣エクスカリバー)の上で、魔王ヴェルザリアは優雅に二度寝を貪っていた。

「……むにゃ。……そこだ、燃やせ。村を焼き払え……」

 物騒な寝言を呟いている。

 俺は心を無にして声をかけた。

「おはようございます、魔王様。起床の時間です」

「ん……? なんだ、騒々しい……」

 ヴェルザリアが気だるげに深紅の瞳を開ける。

 しかし、俺と施設長の姿を認めた瞬間、彼女はビクッと体を震わせ、車椅子の背もたれに張り付いた。

「な、なんだ貴様ら!? なぜそのように殺気立っている!?」

 さすがは元魔王。俺たちの異常さを瞬時に察知したらしい。

 無理もない。現在、我々は「1分1秒の遅れが昼休憩の消失に直結するデスマーチ」の真っ只中にいる。目つきが鋭すぎて、完全に魔物を狩る時のそれになっているのだ。

「魔王様、単刀直入に言います。お風呂の時間です」

「風呂だと? ……ふん、断る! 今日は貴様の顔色が土気色で、見ていて不愉快だ。気分が乗らん!」

「四の五の言わない! 行くよ!」

 施設長がズカズカと歩み寄り、車椅子のグリップを鷲掴みにした。

「ひぃっ!? き、貴様は……勇者オーガ!! なぜここに!?」

 ヴェルザリアが悲鳴を上げる。

 彼女にとって、施設長は天敵中の天敵。かつて居城を半壊させられ、部下を蹴散らされたトラウマが蘇ったのだろう。

「ここは私の城(施設)だからだよ! さあ、観念してお風呂に入りな! 身体清潔は健康の第一歩だよ!」

「嫌だ! 貴様のような暴力装置に肌を見せるなど……! 我に『恥辱』という名の猛毒を与える気か!」

 魔王が必死に抵抗し、車椅子のブレーキレバーにしがみつく。

 だが、今の施設長(勇者)には、「入浴予定時間を守る」という正義がある。その腕力(ATK999)の前には、魔王の抵抗など赤子の駄々こねに等しい。

 ズズズ……と車椅子が強制的に廊下へ引きずり出されていく。

「離せ! 我はVIPだぞ! せめて若い娘を呼べ! 肌ピチピチの乙女を! そのような干からびた老婆に洗われてたまるかァァァ!」

「贅沢言うんじゃないよ! 今日は若いのが全滅したんだ!」

 施設長が吠える。

「90歳の私か、男の守か、どっちがいいんだい!」

「どっちも地獄ではないかァァァ!! 選択肢が腐っているぞ!!」

 魔王の絶叫が廊下にこだまする。

 他の入居者さんが「あらあら、元気ねぇ」と微笑ましく見守る中、ドナドナのように魔王は浴室へと連行されていった。


 特別養護老人ホーム「エデン」の浴室。

 そこには、最新鋭の「ストレッチャー式機械浴槽」が鎮座している。

 寝たきりの人でも、ストレッチャー(担架)に寝たまま、機械操作で安全に入浴できるハイテク機器だ。

 だが、初めてそれを見る魔王の目には、まったく別の用途の装置に見えていた。

「な……なんだこの銀色の棺桶は!? 禍々しい蒸気を吐き出しおって……! 貴様ら、我を生きたまま水葬(すいそう)にする気か!?」

「ただのミスト浴機能です。毛穴の汚れが落ちて気持ちいいですよ」

 俺は淡々と説明しながら、ストレッチャーの高さを調整する。

 ここからはスピード勝負だ。

 俺と施設長の阿吽の呼吸で、魔王の衣服を脱がせ(もちろんバスタオルで隠しながら)、手際よくストレッチャーに移乗させる。

「放せ! この拘束具(安全ベルト)を解け! 我を煮る気か! 出汁をとっても不味いぞ!」

「誰がアンタの出汁なんか啜るかい。さあ守、操作盤を!」

「了解。お湯張り完了。温度40度。沈めます」

「沈める言うなァァァ!!」

 ウィィィィン……プシュゥゥ……。

 油圧式のリフトが作動し、魔王の体がゆっくりと、しかし無慈悲に浴槽の中へスライドしていく。

「あ、足が……足が酸の海に……! 溶ける、我が魔力が溶け出してしまう……!」

 チャポン。

 お湯が魔王の肩までを包み込んだ。

「……あ、熱ッ……! ……ん?」

 魔王の表情が、凍りついた恐怖から、ふにゃりと緩んだものへと変化する。

「……悪く……ない……」

「はい、今のうちに洗うよ! 時間がないからね!」

 感傷に浸る隙など与えない。施設長がスポンジと泡立てネットを構えた。

 ここからは戦場だ。ゆっくり優雅に「お湯加減はいかがですか〜?」などと聞いている暇はない。

 次の利用者が、すでに脱衣所で待機しているのだ。タイム・イズ・マネー。時は金なり、そして介護報酬なり。

「覚悟しな! 必殺・高速旋風洗い(サイクロン・ウォッシュ)!!」

「ぎゃああああ!? 痛い痛い! 貴様、皮を剥ぐ気か!!」

「角質だよ! 全く、背中に垢が溜まってるねぇ! これじゃ魔力も詰まるってもんさ!」

 ゴシゴシゴシゴシ!!

 施設長の腕が残像に見える。それはまさしく、かつて魔王軍を薙ぎ払った剣技「百烈斬り」そのものだった。

 ただし、剣ではなくナイロンタオルであることが唯一の違いだ。

「やめろ! そこは性感帯……ではない、脇腹はくすぐったい!」

「はい背中終わり! 次、右足! もたもたしない!」

「扱いが雑だぞ! 我はかつて世界を恐怖に陥れた……」

「今のアンタは『10時30分枠』の入浴者だよ! ここで押したら、私の昼休憩(カップ麺タイム)が伸びて麺がデロデロになるんだ!」

 殺気。純然たる殺気だった。

 「昼休憩がなくなる」「麺がのびる」という、現代社会において最も恐れられる事象を前に、魔王は震え上がった。

 かつての宿敵が放つ、生活感にまみれたプレッシャー。それは聖剣の輝きよりも恐ろしかった。

「ひぐっ……わ、分かった……洗え……好きなように洗うがよい……」

 ついに魔王が陥落した。

 彼女は涙目で抵抗を諦め、為す術もなくピカピカに磨き上げられていった。


「……殺せ。いっそ殺してくれ……」

 入浴後の脱衣所。

 ドライヤーで髪を乾かし、新しい服に着替えた魔王ヴェルザリアは、燃え尽きた灰のように車椅子の上でぐったりとしていた。

 肌は一皮むけたようにツヤツヤ。髪は天使の輪ができるほどサラサラ。

 しかし、そのプライドはズタボロだった。

「宿敵(勇者)に垢を落とされ、下の世話までされるとは……。魔族の尊厳は、排水溝へと流れていった……」

「はい、お疲れ様でした。水分補給しましょう」

 俺は手早く冷蔵庫から瓶入りのフルーツ牛乳を取り出した。

 もちろん、嚥下(飲み込み)を助けるための「とろみ剤」を混ぜて、シェイカーで振った特製ドリンクだ。

「……フン。貴様らのあざとい懐柔策には乗らんぞ」

「施設長からの奢りですよ」

「……」

 魔王は「奢り」という言葉にピクリと反応し、乾いた喉には勝てず、ストローに口をつけた。

 ズズーッ。

「……美味い」

「でしょう」

「貴様ら、腕は落ちたが……風呂上がりの牛乳の選定センスだけは認めてやろう」

 少しだけ機嫌を直した魔王は、隣の椅子で死にそうな顔をしている施設長をチラリと見た。

 施設長は腰をトントンと叩きながら、湿布の臭いを漂わせている。

「ふぅ……。なんとか回ったねぇ。……守、次の入浴者は?」

「あと3名です。……施設長、腰は?」

「ギリギリさ。コルセットが悲鳴を上げてるよ」

「……求人、出してるんですけどね」

「来るのは人材派遣の高い売り込みか、営業電話ばっかりさ……」

 施設長が遠い目をする。その目には、魔王と戦った時以上の哀愁と、終わりの見えない戦い(人手不足)への疲労が滲んでいた。

 それを見た魔王は、ふっと鼻で笑った。

「……人間とは、不便で哀れな生き物だな。たかが数名の欠員で、ここまで組織が瓦解しかけるとは」

「……返す言葉もありません」

「だが……まあ、今日の礼(牛乳)だ。契約(ケアプラン)にはないが、特別サービスを検討してやらんでもない」

 魔王は空になった牛乳瓶を置き、不敵に笑った。

「我が全盛期の魔力を取り戻した暁には……泥人形(ゴーレム)の一体や二体、作ってやるぞ。文句も言わず、給料も要求せず、24時間365日働き続ける忠実な下僕をな」

 その瞬間。

 俺と施設長は、魔王の両手をガシッと握りしめた。

「「是非お願いします!!!」」

 二人の声がハモった。

 かつて世界を救うために手を組んだことなど一度もない勇者と一般人が、今、初めて心を一つにした瞬間だった。

「わっ!? き、貴様ら、目が血走っているぞ……!」

「ゴーレム! いつ納品ですか!? サイズは!? 介護保険適用外でも構いません!!」

「夜勤はできますか!? ワンオペ夜勤は可能ですか!?」

「う、うわ、引くわ……。貴様らの闇は魔界より深いな……」

 ドン引きする魔王をよそに、俺たちは「ゴーレム導入による人件費削減シミュレーション」について熱く語り合いながら、次の入浴介助へと向かうのだった。

(第2話 完/続く)

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