旅人と騎士、それと妖精
一体何が起こっているのだろうかとライアーバードは思った。
蜂蜜アイスを食べるために乗ったヴェパル島行きの船でマンティコアに襲われている子供達に遭遇しただけで結構な珍事だった。
その子供を逃してマンティコアの注意を引き付けて、避けきれずに体当たりをくらったのは仕方のないことだっただろう。
逃げ特化のライアーバードが囮役なんて慣れないことを引き受ければそんな失敗もする。
体当たりされた拍子にドアをぶち抜いた部屋に偶然騎士がいて、その凄く強い騎士がマンティコアをあっさりと倒してくれたのは、ただの幸運で済ませていい。
あそこでライアーバードが死んでもただの因果応報だったが、ライアーバードは再び自身の悪運の強さに救われた。
ただ、そこから先の展開はわけがわからないとライアーバードは思った。
その『凄く強い騎士』が自分が旅を始める直前に自分を暴漢達から助けてくれた兜の騎士だった。
奇跡と言ってもいいような偶然だった、こんなことって起こるんだなとライアーバードは思った。
そして、また助けられてしまった。
ライアーバードは元悪名高き横暴な歌姫で亡霊騒ぎを引き起こしていた愉快犯だが、一応十代の小娘である。
暴漢から自分を救ってくれたすっごく強い騎士に初恋とかしちゃってたし、そんな騎士様にもう一度命を救われたのである、乙女心が騒がぬわけがない。
しかもその素顔は、噂によるとその兜をはずしたところを誰も見たことがないというその顔は、どえらい美少年だった。
金糸のような髪に、宝石のような美しい赤い目。
その赤い目からライアーバードは悪友とそのストーカーである神竜を連想した、あの二人と同じく人間に化けた竜なのだろうかとライアーバードは思ったが、あの二人から感じられる独特の気配は彼から感じられなかった。
とはいえ、彼が竜であっても人であってもライアーバードにとってはどうでもいい。
自分を二度も助けてくれた憧れの人の素顔がどえらい綺麗な人だった、そんな事実はライアーバードの無いに等しいはずだった乙女心というやつを騒がせる理由としては十分だった。
それだけで終わっていたら、それだけで済んでいただろう。
今のライアーバードはどこにでもいる旅する小娘だが、元悪名高き我儘歌姫で割とタチの悪い亡霊な愉快犯である。
そんな過去を背負った自分が人並みに誰かに恋するとか、ありえない。
というか、そんな過去を知られた時が怖すぎる。
というわけでライアーバードはあの日言えなかった分も含めて素敵な騎士様にお礼をして、それだけで済ませるつもりだった。
それ以上関わるつもりはなかった、好きだなんていうつもりもなければお近づきになろうだなんて思っていなかった。
それなのに、なんでこうなったとライアーバードは考える。
「聞いてんのか?」
機嫌の悪そうな声はライアーバードの目の前にいる兜の騎士のものだ。
そんな不機嫌な彼が構える剣の鋒は、ライアーバードの喉に突きつけられている。
「はい……」
答えつつライアーバードはもう一度こう思う。
何故、こうなった。
マンティコアから助けてもらった直後は多分、そこまでおかしくなかった。
なんか凄く綺麗な顔の人に助けてもらったな、と見上げたその顔が大きく歪んで、遠くから聞こえてくる慌ただしい足音に、彼が慌てた様子で見覚えのある兜を被った時点で「あれ?」とライアーバードは思った。
そこまでは別にいい。
駆けつけてきた船員達がぐちゃぐちゃになった部屋の様子とマンティコアの死体に絶句した、これもまあ順当だろう。
ぐちゃぐちゃになった部屋をどうするか、今日中はどうにもならないからそこに泊まっていた彼をどうするか、という問題が提示されたのも当然の流れだ。
問題はその後だ。
その後で兜の騎士がさっとライアーバードの手を掴んで、やたら爽やかな声で「彼女は自分の知人なので、彼女の部屋にお邪魔させていただきます。君も一晩くらいいいだろう?」と宣った。
どういうこっちゃとライアーバードは思った。
ひょっとしてあの時助けた化粧崩れ化物女の正体が自分だと一目で看破したのか、覚えていてくれたのかと乙女心が悲鳴をあげかけたが、困惑を口にする前に掴まれた手をやたらと強い力で握られたので、何かが違うと悟る。
ひとまずそういうことにしたいのだろうとライアーバードは話を合わせた、初恋云々を除いても彼は二度も命を救ってくれた恩人だったので。
それで困惑したまま彼と共に自分が泊まっていた部屋に戻った直後に、ライアーバードは部屋の奥の方に突き飛ばされた。
そして即座に詰問された、自分の顔を見たな、と。
何故そんなことを聞かれたのかその理由はさっぱりわからないが、嘘を吐いても仕方がないのでライアーバードは「はい、見ました」と正直に答えた。
そしたら、剣を突きつけられて「絶対に誰にも言うな」と脅され始めたのである。
乙女心どころの話ではないが、生命の危機と乙女心なドキドキが混じり合って何が何だかわからないなとライアーバードは阿呆なことを考えた。
鋭くてなんでも切れそうな刃がギラリと光っている、ちょっと前の廃遊園地ペシャンコ未遂事件の時に比べると迫力は欠けるが、それでも彼がちょっとでもその気になればこちらの首は呆気なく飛ぶのだろうとライアーバードは思った。
彼は、とにかく自分の顔を見られたくなかったらしい、そしてライアーバードが見たそれを、その特徴を誰にも言われたくないらしい。
ライアーバードの語彙力だと「あの人、すっごく綺麗な顔しているんですよ」程度のことしか言えないが、ひょっとしたらその美貌で過去に何かトラブルでもあったのかもしれない。
それなら隠したがるものなのかもしれないが、脅し文句にやたらと物騒な言葉を使われている。
曰く、バラしたら全身を切り刻んで殺すとか、腹を掻っ捌いて内臓を引き摺り出すとか、つま先から頭まで少しずつ削ぎ落とすとか、そういいことを。
そこまで言われずとも、命の恩人から黙っていてくれと頼まれたら普通にその通りにするのに、と思った。
ライアーバードの顔を睨む彼を見上げて、ライアーバードは口を開く。
「わかりました、そこまでいうのなら言いふらしたりしません。そもそも言いふらすような知人もいません」
本心からそう言ったし、本当にそうするつもりだったライアーバードだったが、彼の信頼を勝ち取ることができなかった。
それで、上っ面の言葉だけでは信用できないからと、しばらく監視されることになった。
しばらく行動を共にすることになった、初恋の人と。
どうしてこうなったのだろうか、とライアーバードは思った。
その後、ライアーバードは彼に名前と素性を聞かれた。
ライアーバードはライアーバードという偽名と共にただの旅人であると名乗った。
本名も聞かれたがそれは黙秘した、彼はライアーバードの双子の兄の同僚なので、
彼経由で兄に自分がどこで何をしているのか知られると面倒だし、何より自分があのケバケバしい我儘歌姫モリオンだと知られたくなかった。
身分証明書も無理矢理引っ張り出されたが、ライアーバードが持っていた身分証明になるものは偽名でも登録可能なギルドの証明書だけだったので、そこから本名がバレることもなかった。
老女みたいな声について、何故そんな声なのかとも聞かれた。
ライアーバードは前職で色々あったと答えた、呪い云々は魔法に聡いものが見ればそれだけでそんなものはないということが一目瞭然だったので、これまでと同様にかなりぼんやりと誤魔化した。
幸い、彼はこの老女の声から歌姫モリオンを連想しなかったらしい、というかそもそもそんな歌姫のことなんて知らなかったのだろうとライアーバードは考える。
双子の兄の同僚なら知っていそうな気もするが、歌姫モリオンは所詮下の下の歌姫だ、知らなくても不思議ではない。
その時にライアーバードは彼がこの船に乗っている理由を知った、なんでもヴェパル島に住み着いたという海竜退治に行こうとしているそうだった。
そんなことを話した後、随分と遅い時間になっていたので寝ることになった。
初恋の人、しかも素顔はすごく美形と同じ部屋にいて寝られるかと思っていたライアーバードだったが、疲れていたらしく意外なほどあっさりと眠りに落ちてしまった。
翌朝になってライアーバードは彼に叩き起こされた、よく呑気に寝られるものだと呆れきった声で言われた。
部屋から出た後でライアーバード達は昨日の船員に声をかけられた。
昨日のマンティコアが何故現れたのか、何故子供達を襲っていたのか。
マンティコアは召喚されたものだった、その召喚を行った者がそれに子供達を襲わせていたらしい。
その犯人が襲わせていた理由はとてもくだらない内容だった、その程度で子供の命を狙うなとライアーバードは思った。
犯人は確保、子供達も無事、めでたしめでたし、で終わらなかった。
マンティコアによって破壊された彼の部屋だが、船旅中にどうにか人が泊まれる程度まで修復するのは不可能らしい。
他に部屋も空いていない、そして船が目的地に着くのは翌日の午前中。
そういうわけでもう一泊、彼はライアーバードの部屋に泊まることになった。
そんな報告が終わった後に朝食を食べて、海でも眺めようかと思っていたライアーバードだったが、彼に手を引かれて部屋に連れ戻された。
その後特に会話もなく気まずいだけの時間が流れ、昼食の時間になった。
昼食後にまた部屋に連れ戻されそうになったので外で海を見ていたいと言ったら、その程度なら別にいいと甲板に出ることを許された。
彼は当然のようについてきた、付き合う必要はないとライアーバードは言ったが、逃げる気か、と凄まれただけだった。
運が良ければクジラやイルカの群れが見られるという話だったが、ライアーバードが目にしたのは青い海と時折跳ねる魚だけだった。
特になんの会話もなかった。
それでも部屋の中にいるよりも気まずさは薄かった。
青い海が橙色に染まって、黒くなる。
もう少し待てば綺麗な星空が見られるからもう少し待っていようかとライアーバードは思ったが、腕を引っ張られ「飯」と言われたのでその場を離れて夕食を。
夕食後にもういい頃合いだろうと思ったライアーバードは片手を上げて「星を見に行ってきます」と甲板に戻ろうとしたが、彼に平手で頭を叩かれ部屋に連れ戻された。
そこでようやくライアーバードは彼に対して不満を持った、星くらい見に行ったって別にいいと思うと。
船の上で見る星は綺麗なのだ。
そしてその光景は自分が夢を諦め、古い夢を思い出した夜のそれとよく似ている。
だからライアーバードは船に乗れば星空を見る、天候が悪くなくて船旅が夜を跨ぐ場合は必ず。
昨日はマンティコア騒ぎがあったので星空どころではなかった、けれど今日は一応平和で、天気も悪くない。
それなのに駄目だという、散々付き合ってやっただろう、と。
そんなに遅くない時間なのにもう寝ろとベッドに押し込まれたライアーバードは、絶対に寝るものか、この人が寝た後こっそり部屋を抜け出てやる、と思っていた。
そう思っていたくせにいつの間にかライアーバードは寝落ちていた、そして前日同様彼に叩き起こされるのだった。
そういうわけでヴェパル島に到着したライアーバードと兜の騎士だったが、そこでまた珍事が発生した。
正確には発生していた。
船がとまった港町、そこから出ている鉄道が止まっていた。
前日に魔物が大暴れしたらしく、線路が壊れてしまったらしい。
直るのは三日後という張り紙を見て、彼は愕然としていた。
「どうするのですか?」
張り紙の前で佇む彼にライアーバードが問いかけると「線路が直るまで待つ」と苦虫を噛み潰すような声で彼は答えた。
そういうわけで宿を取ることになった、当然のように同じ部屋だった。
受付でライアーバードは「はっ」とした、ひょっとした傍目から見ると自分と彼は恋人や夫婦にでも見えているのではないか、と。
いや、そう思うのはちょっと思い込みが激しいというか烏滸がましいぞ元悪名高き歌姫が、とかなんとかライアーバードは思っていた。
ないに等しい乙女心の暴走の止め方がライアーバードにはわからない、何故ならライアーバードの人生にそういうときめきなんてものは今まで存在しなかったのだから。
勝手に暴走する乙女心をどうにか抑えて、ライアーバードはこの後どうするのか彼に聞いた。
元々すぐに鉄道に乗って海竜が住み着いているという離小島に向かうつもりだったらしいが、その予定が潰えた今、特にやることはないと。
やることがないならライアーバードは蜂蜜アイスを食べに行きたいと言った。
彼は渋った、面倒くさそうな声をしていた。
それでもどうしてもとライアーバードが頼み込むと仕方なさそうな雰囲気を醸し出しながらも付き合ってくれた。
アイスはとても美味しかった、わざわざ船で長旅をして食べにきて正解の味だった。
そんなライアーバードに付き合って彼はアイスを食べていた、兜をしているのに何故か普通に飲み食いできるのはそういう魔法が兜にかけられているかららしい。
彼の顔というか兜をチラリと盗み見てライアーバードはふと思った、これってデートでは、と。
そんなふうに暴走する乙女心をライアーバードは必死に抑え込んだ、なんせライアーバードは人騒がせな愉快犯だったので。
いつ殺されても笑って受け入れるしかないような小悪党に、人並みの恋が許されるわけがないのだから。
その翌日は特にやることがなくて身体が鈍りそうだから、という彼に付き合って海沿いに出るという魔物の退治にいった。
付き合ったとは言っても、戦闘面では全く役に立たないライアーバードは遠く離れた場所から見守っていただけだったが。
その翌日は特にやりたいこともないからと部屋で休んでいたそうな彼にライアーバードは観光に行きたいと言ってみた。
一人で行っていいのならとは言ってみたが、途中で「駄目だ」と遮られた。
無理なら宿でおとなしくしているとライアーバードが小さな声で呟くと、彼は「どこに行きたいんだ」と。
一人で勝手に行かなきゃ別にいい、付き合ってやる、と。
そういうわけでライアーバードは観光に繰り出した。
港町付近の遺跡に行って、美味しい海鮮のレストランでパスタを食べて、市場を見て回って、最後に浜辺で海を見た。
デートでは。
これってデートでは。
ライアーバードの乙女心は相変わらず暴走を続けていた、それにどうにか手綱をつけて押さえ込もうとするが、どうにもうまく行かない。
そんな自分にとって都合のいい妄想がやめられないとまらない自分にライアーバードは心底呆れ返っていた。
どこかで惨めに野垂れ死ぬのがお似合いの、悪党のくせにと。
あっという間に夕方になった。
宿に帰る途中で二人は人混みに流され、逸れてしまった。
しばらく探したが、見つからない。
ライアーバードはどうしたものかと焦ったが、普通に宿に帰れば落ち合えるだろうとすぐに落ち着いた。
それでいいのだろうか、と思った。
ライアーバードは今、よくわからない理由で身内でもなんでもない男に連れまわされている状態だった、今日に関しては自分が連れ回した側ではあったが。
ライアーバードはその理不尽に自分を連れ回して逃がそうとしない男が初恋の人かつ恩人だから、ひとまず言う通りにしているだけだ。
相手が彼でなかったらライアーバードはとっくに逃げている、少なくとも島に着いたその瞬間に。
いくら相手が命の恩人であっても、よくも知らない男の言いなりになって行動を共にするのは危険では? とライアーバードは考える。
しかし、今更だとすぐに思い直す。
ライアーバードは小悪党だ、いずれ過去の悪業の報いを受けるだろう。
無惨に殺されるかもしれない、馬鹿みたいな事故で呆気なく死ぬかもしれない、その全てを仕方ないと受け入れる覚悟はとっくにできている。
それならあの美しい顔を何故か隠したがる男に何をされても、それでいい。
そんなふうに結論付けたライアーバードは普段だったらそうなる前に気付けることに気付かなかった。
考え込んでいて完全に油断していたライアーバードは、そう結論付けた直後に片手を強い力で引っ張られ、暗い路地裏に引き摺り込まれた。
「おっと」
間抜けな声をあげた直後にライアーバードの顔面に衝撃と痛みが走る。
身体が軽く後ろの方に飛んで、壁に激突した。
「痛いですね、ひどいじゃないですか」
ライアーバードは自分を暗闇に引き摺り込んだ者の姿を見据える。
男が四人、全員当然のようにライアーバードよりも大型、成人はしているだろうがそこまで老いてはいない。
さて、盗み目的か強姦目的か、それとも両方かとライアーバードは冷静に考える。
男達は気色の悪い笑みを浮かべている、その目的がなんであるかは不明だが碌なものではないだろう。
旅に出る前のライアーバードだったら殴られた時点で少々動揺していたかもしれない。
けれど、ライアーバードはここ一年ずっと旅を続けていた、若い女の一人旅なので、良くない者に絡まれることは度々あった。
だから、特に心が乱れることもなく。
そもそもこんな人間の男が四人程度揃ったところで、どうということない。
ライアーバードはちょっと前にあの神竜に真っ向から殺意を向けられた、それでもライアーバードは怖気付いたりしなかった。
人間相手に今更何を恐れる必要がある、それも別に強くもなんでもなさそうなそこらへんのチンピラに。
「他人を傷付ける気があるということは、悍ましい目に遭あわされる覚悟はできている、ということでいいな?」
ひどく醜い、濁声の男の声でそう言うと男達は怯んだ。
その隙にその三人にライアーバードは幻術を掛ける。
「動揺したな、この亡霊の前で」
次は子供の甲高い声、不気味に響いた高い声にすでに幻術に堕ちた男達がひいと悲鳴をあげる。
見せているのは酷く簡単な幻術だ、ライアーバードの顔が崩れて、その中からいくつもの顔をボロボロに縫い合わせた顔が現れたように見える、そういう簡単な代物。
それだけなのに男達は激しく動揺した。
「これなら後は簡単と、ライアーバードはさらに深く恐ろしい幻術を彼らに仕掛ける。
「さあ覚悟しろ、地獄を見せてやる」
厳かな老人の声でそう宣言して、亡霊は笑みを深めた。
最終的にライアーバードを襲った男達は口からブクブクとあぶくを吹いて気絶した。
うち一人は幻術耐性がかなり薄かったようで失禁していた、きったない。
気絶した彼らを一瞥して、ライアーバードはその場から逃げ出す。
少し時間がかかってしまった、早く宿に戻らなくては。
ライアーバードはそこで自分の格好が思っていたよりも乱れていることに気付いた。
男達を再起不能にする前に恐慌状態に陥った男の一人に一回襟首を掴まれたせいだからか、服のボタンが一つ外れていた。
髪も乱れているし、最初に殴られた顔にあざができているかもしれない。
髪の乱れはささっと直す、殴られた顔は治癒魔法で治す、ボタンは普通につけ直せばいい。
と、ライアーバードがボタンに手を伸ばしたその時に、背後から大声で名前を呼ばれた。
「はい」
振り返ると心底機嫌が悪そうな彼がライアーバードを睨んでいた。
どうやら、ずっと探していてくれたらしい。
「すみません、はぐれてしまって」
ライアーバードは即座に謝って彼に近寄った。
「お前、どこで何して…………おい、なんだそれ」
「はい?」
ライアーバードは一瞬何を聞かれたのかわからなかったが、すぐに自分の今の格好のことを思い出して合点がついた。
「ああ、すみません、男の人達に路地裏に引きずり込まれてました」
「…………は?」
そう言いながらボタンをつけ直したライアーバードの顔を彼が凝視する。
「盗み目的だったのか、盗みと強姦目的だったのかはわからなかったんですけどね。……けど何も盗られませんでしたし、殴られただけで済んだから問題ありません」
そう言いつつライアーバードは片手間で顔に治癒魔法をかける、鈍い痛みは引いたので、おそらくあざなりなんなりも消えただろう。
「ああ、ご心配なく。本当に殴られただけで済んだので。戦えはしませんけど私、逃げ足だけは早いんで……何があっても大抵は逃げ足と幻術だけでどうにかなるんです」
今回に関しては幻術だけでほぼ完全勝利だったので、ライアーバードは余裕綽々にそう言った。
伊達に一人旅を一年も続けていないのである。襲ってきた者どもは大抵、幻術で地獄を見せてきた。
だから別になんの問題もないというのに、彼は何故かその刺々しい雰囲気を和らげなかった。
ひょっとしたら彼から逃げたとでも思われてしまったのかもしれない、もしそうならとライアーバードが誤解を解こうとしたところで、その先に彼が口を開いた。
「お前、危機感とかないのか?」
「はい?」
危機感がなければ一人旅なんてできませんよ、とライアーバードが答えようとしたところで、彼がライアーバードの肩を掴んだ。
「……ひとまず、無事だったのならそれはいい。けど、何故笑う?」
「はあ……?」
余裕綽々で逃げ切ったからに決まっているが、ライアーバードがそう答える前に彼はライアーバードの肩を掴む手に力を込める。
「もっと怖がれよ、なんでそんな呑気なんだお前は。……襲われといて笑うな、顔にそんな傷を付けられて……お前は馬鹿か、何が殴られただけで済んだ、だ。殴られただけで一大事だろうが」
彼はそう言い募った、その声色には確かな怒気が含まれている。
「殴られた程度なら……別に」
「は? 殴られた程度?」
本気で廃遊園地ごとペシャンコにされるよりもずっとマシだし、旅をしていれば他人から襲われることはそこそこある、殴られた程度で済むのはかなりマシな方だった。
「それだけで済んだので、別に大したことありませんよ?」
「……それだけで済まなかったらどうするつもりだ。それ以上に何かあったら」
ああ、そこを心配してくれたのか、とライアーバードは思った。
多分、心配してくれているのだろう、だって彼はとても素敵な騎士様だから。
こんなどうしようもない小悪党のことを、そうとは知らず普通の女の子だと思ってくれているから。
「大丈夫ですよ。何事もなかったですし、逃げ切れましたし、全く問題ありません。この程度で簡単にどうにかされるなら旅人なんてやってませんよ」
そう言っても未だ雰囲気を和らげることのない彼にライアーバードは呑気な顔でこう続けた。
「それに、たとえ何があっても全部自業自得の因果応報ですから」
「……は?」
わけがわからなそうな彼に、ライアーバードは静かに笑う。
「だから何かあったとしても全部仕方ないこととして受け入れますよ。……こう見えて私、小悪党ですからね。因果応報、大抵の不幸はその一言で納得できる程度の悪事をやらかしてるんです」
だからこんな自分をあなたのような人が心配する必要はない、ライアーバードはそう思った。
そんなライアーバードの真意を汲み取ったのかそうではないのか、彼はじいっとライアーバードの顔を凝視する。
「ふーん、あっそ」
彼はそう呟いた、その声からも雰囲気からも刺々しさや怒気は全く消えていない。
というか、より酷くなったような。
ライアーバードがそう感じ取った直後に彼はライアーバードの肩から手を離して、乱暴にライアーバードの手を引いた。
半ば引き摺るような形で彼はライアーバードを宿屋に連行した。
「今日の夕食はいらない。それと、誰も部屋に近寄らせるな」
身がすくむような声色で彼は宿屋の受付にそう言った、ライアーバードが「えっ、ごはん……」と思わず呟いたら、彼はひどく冷たい声で「五月蝿い、黙れ」と。
その後も引き摺られるように部屋に連行され、部屋に着いたら思い切り突き飛ばされた。
「わっ……」
突き飛ばされた先がベッドだったのでどこかを痛めたりはしなかったが、一体何事だとライアーバードは目を白黒させる。
ライアーバードが混乱しているうちに彼はピシャリと部屋のカーテンを閉める、一瞬真っ暗になったがすぐに魔道式のランプが小さな明かりを放ち始めた。
物音が聞こえたのでライアーバードがそちらを向くと、彼が兜を外してその辺に放った。
がしゃん、と乱暴な音にライアーバードは思わず身を竦める。
あらわになったその顔は、とてつもなく怒っていた。
綺麗な顔の怒った顔って迫力あるんだな、とライアーバードは思った。
しかし、何故そのような顔を彼がしているのか。
そして何故、夕食はいらないなどと言ったのか。
体調悪いんだろうか、お腹とか痛いんだろうか。
今何がどうしてこうなっているのか理解できないライアーバードは賢くない頭で必死にそんなことを考えた。
そんな頭の悪いことをライアーバードが考えているうちに、彼がベッドに、というかライアーバードに馬乗りになるような形でのってくる。
ぎしり、とそんなに新しくはなさそうなベッドが軋む音が聞こえた。
「あ、あの」
なんだなんだなんだ、急になんだ顔が近い綺麗な顔が近い一体何事だ、とさらに混乱するライアーバードの服に彼は手をかけ、一気に引きちぎった。
「……え?」
ボタンがぶちぶちすっ飛んでいった、特に思い入れもない安物の服はあっけなくご臨終した。
今、いったい何が起こっているのだろうか、とライアーバードは呆然と彼の顔を見上げた。
「……自業自得、因果応報っつうんだったら…………今から俺に何をされても文句は言えねえ、ってことだよな?」
何も理解できていないライアーバードに彼はそう言って酷く暗い笑みを見せた。
その後はまあ、酷かった。
単語だけで簡潔にいうと、暴力と陵辱だった。
ライアーバードはボッコボコに殴られた挙句、犯された。
ここまでされても因果応報と言って笑えるのか、と彼はライアーバードの首を絞めながら唸るようにそう言った。
骨は折れていなかったが全身ボコボコに殴られていたし、肩には深い噛み跡が刻まれていた。
ライアーバードは何も答えられなかった。
それでも笑える、というのがライアーバードの回答だった。
ライアーバードは小悪党だった。自分の夢のためなら悪党になってもいいと、その後どれだけその報いを受けようとも受け入れると、そう覚悟を決めていた。
今更それを変える気はない、そんなみっともなくて格好の悪いことはできない。
なら何故答えられなかったのかというと、単純に声を出せなかったのだ。
出そうと思えば出せただろうが、それがどのような声になるかわからなかった。
正しくこれまでの嗄れた老女の声を出せるかどうかわからなかったのだ。
ライアーバードの唯一の特技は声真似だが、ここまで甚振られた状態でその特技を維持できるかというと、それは微妙だった。
だからライアーバードはどれだけ痛くとも必死に声を噛み殺した、それだけのために意識を割き続けたと言ってもいい。
抵抗はできなかった、しなかったというのが正しいのかもしれない。
ただ愕然としていた、意味がわからなかった。
今、ライアーバードは酷い目に遭わされている、暴行と強姦、それもかなり酷い扱いを受けている。
けれどもライアーバードをそんな目に合わせているのはライアーバードの命の恩人で、初恋の人なのだ。
そして彼は、ライアーバードの自惚れでなければ、自惚れだったらすごく恥ずかしいのだけどライアーバードが思っている通りなら、今自分を犯しているこの人は、ライアーバードが傷付けられたこと、そしてそれをなんてことないと笑っているライアーバードのことをものすごく怒っている。
怒っていてくれるのだ、そんなことは許せないと。
ならばそれは、そうであって欲しくないとこの人が思ってくれているということだ。
どんな目にあっても受け入れると言った自分にここまでの怒りを見せたということは、そうであってほしくないと。
傷ついて欲しくないと、そう思ってくれているのでは?
だからこちらをぐちゃぐちゃになるまで痛めつけて、こちらの考えを改めさせようと。
それって、愛では?
……などというのはライアーバードの自惚れた考えだ、実際どうなのかわからない。
それでもライアーバードの乙女心は大暴走していた、だってこんなに暴力的だとは言え、好いた男に身体を暴かれ、処女を奪われて。
普通だったら、こんな仕打ちをされれば恋心なんてものは冷めるだろう、ただ恐怖し絶望するしかないのだろう。
けれどもあいにく、ライアーバードは普通ではなかった。
自分の夢のためなら割と平気で悪事をやらかす小悪党、図太くてふてぶてしい、可愛らしさなんてかけらもないどうしようもない女だ。
だから、恐怖も絶望もなかった。
あったのは膨大な困惑と、暴走し続ける乙女心が生み出すときめき。
だから殴られ犯されても、私なんかの身体で良くなってくれているのか、とか思ってしまって。
これが全て勘違いだったらライアーバードの自惚れと頭の悪さは手遅れだろう。
けれども別にそれで良い、痛かろうと苦しかろうと、脳がそういうふうに幸福とときめきを感じ取っているのなら、ただ痛くて苦しいよりもずっと楽だ。
だから、ライアーバードは自分を睨め付けるその血のように赤い目に何も答えなかった。
それを是と受け取ったのだろう、赤い目の彼が再び拳を振り上げる。
ライアーバードの身体が血まみれあざまみれでボロボロになった頃、ようやく彼はその手を止めた。
そこまでされても何も答えない、それどころか何も話さないライアーバードに盛大な舌打ちをして。
どの程度時間が経ったのかライアーバードにはわからなかったが、外は暗そうなのでまだ朝にはなっていないのだろう。
痛みから逃れるように、半ば現実逃避のようにそう思ったライアーバードの身体を彼が抱きしめる。
そしてパッと灯りが消えた、彼が消したのだろう。
よく鍛えられた身体に抱きしめられて、ライアーバードの乙女心及び心臓はバクバクと音を立てて爆走している。
というか乙女心の方は行為の最中にすでに暴走どころか数回爆発している、爆発してもすぐに復活するこの厄介な乙女心をどうしたものかと目を瞑りながらそうライアーバードが考えていると、不意に明るくなった気がした。
「…………?」
自分を強く、まるで逃がさないように抱きしめていた身体が離れていくのをライアーバードは感じた、水でも飲みたいのだろうかとぼんやりと思ったライアーバードの身体が仰向けにひっくり返される。
それから少ししてライアーバードの耳に、見知らぬ声が聞こえてきた。
「ひっどい身体。あざまみれで引っ掻き傷に噛み跡まみれ……よくもこんなに痛めつけられたものだわ」
それは甲高い少女の声だった、全く聞き覚えのない、可愛らしい女の子の声。
ライアーバードは目を開いた。
赤い目が自分を見下ろしていた。
見覚えしかない、それなのに何かひどく違和感がある。
今自分を見下ろしているのは彼だった、なら今の声はどこから聞こえてきたのだろうか、とライアーバードは辺りを探ろうとした。
その前に『彼』が口を開く。
「アンタも可哀想ね。あんなふうにボロボロに犯されて。……けど、因果応報、なんでしょ?」
そう言ったのは目の前の『彼』だった。
けれどその声はライアーバードにとってまるで聞き覚えのない少女の声。
ふふふ、と『彼』は蠱惑的な笑みを浮かべる。
その笑みを見たライアーバードの背筋がぞわりと震える。
何かが、何かがすごくおかしい気がする。
そう思うライアーバードの顔を見下ろして、『彼』は笑みを崩さぬままこう告げた。
「はじめまして、哀れで醜いコトドリちゃん」
はじめましても何も、あの船から今までずっと一緒にいましたが? とライアーバードは咄嗟に突っ込むことができなかった。
はじめましてって、今までずっと一緒にいたではないか。なんならさっきまで目の前の『彼』にズタボロになるまで自分は犯されていた、全然はじめましてなんかじゃない。
「ふふ、不細工。元から不細工のくせに殴られまくったせいでさらにぶっさいくに……ふふ、あはは」
そう言って『彼』は笑う。
どういうつもりなんだろうかとライアーバードは思った。
悪ふざけか何かか、それとも今度は変な行動でライアーバードを怖がらせようという魂胆なのだろうか。
うまくいくと思っているんだろうか。
ライアーバードの特技は声真似、そしてそのついでに音関連の魔術や仕掛けに少し詳しい。
だから今『彼』が発している聞き覚えのない甲高い少女の声が魔法を使って出していることに気付いた。
混乱していてすぐには気付けなかったが、混乱さえしていなければ最初の一言だけでライアーバードはそれを看破しただろう。
魔法にちっとも詳しくない者相手なら誤魔化しが効いただろうが、ライアーバードにその誤魔化しは通用しない。
そう思って彼を無言で見上げるライアーバードに『彼』は笑い声をたてるのをやめた。
「そんな顔しないでちょうだい、説明したげるから。けどその前に先にこっちね」
そう言いながら『彼』はライアーバードの下腹部に手のひらをぺたんとつけた。
なんらかの魔力がその手のひらから発せられて自分の腹の中に浸透していったのがわかったが、何をされたのかライアーバードにはよくわからなかった。
「男の精を殺す魔法よ。大丈夫、アタシ、これだけは得意なの。孕んだら面倒だものね、お互いに」
蠱惑的に笑う『彼』の顔をライアーバードはただ見上げた、確かにそういう魔法があることはライアーバードも知っていたが、『彼』は何故そんな魔法が得意なんだろうか。
自分以外の誰かにもこういうことをしていたのでは、とすぐに結論付けた。
ライアーバードの乙女心ではなく嫉妬心が爆発した。
上の方から大きな笑い声が聞こえてくる、『彼』が本当におかしそうな顔で笑っていた。
何がおかしいといいうのか。
そう思いつつライアーバードは無言を貫いた、まだちゃんと喋れそうになかったのでそうするしかなかった。
「あーもう、ほんっと……アンタ、不細工のくせに可愛いわね。何よその顔、ふふ、まあいいわ、わけわかんないだろうから説明したげる、おバカなコトドリちゃんにもわかるように、ちゃんとわかりやすく教えてあげる」
コトドリ、と『彼』はライアーバードのことを呼んだ、それはライアーバードという鳥の別名だった。
普段『彼』はライアーバードを略してただ単にライと呼ぶ、何故急に呼び名を変えたのだろうか、そもそも何故そんな女の子みたいな声をわざわざ使っているのだろうかライアーバードは訝しんだ。
「アタシはアンタをついさっきまで手酷く犯していた騎士様じゃないの」
『彼』はそう言ってライアーバードの目を覗き込む。
その顔は、ここ数日では一度も見たことのない表情をしていた。
ライアーバードは意味がわからなかった、この人は一体何を言っているのだろうかと。
全身が痛むから余計に頭が回らない、この人が何を言っているのかライアーバードには理解できない。
「ふふ、間抜けな顔……アタシは騎士様……この身体でさっきまでアンタを甚振っていた彼の守護妖精なの」
『彼』は、いや妖精と呼ぶべきなのか、とにかくライアーバードの目の前にいる人はそう言ってうっそりと笑った。
守護妖精ってどういうことだとライアーバードは思った。
妖精の気配は一切感じられない。
『彼』から感じる異常は魔法によって変えた声と、それから口調と表情くらいだった。
逆にいうと、それ以外に変化はなかった。
それなのにまるで先ほどまでの彼とは別人であると、妖精であると自称している。
演技か、誰かに操られてでもいるのか。
ライアーバードはそこまで魔法に詳しくない、その少女のような声が魔法によるものであることは確定だが、それ以外の何かが絶対にないとは言い切れない。
ライアーバードはどうしたものかと『彼』の顔を見上げた、『彼』は見覚えのない笑顔でライアーバードを見る。
「ペッツォタイト、それがアタシの名前」
全然知らない名前を名乗られたライアーバードは困惑した。
この人の名前はビスクバイトで合っているはずだ、そう名乗られたしここまで自分もそう呼んでいたし、兄の同僚の兜の騎士について調べた時にも確かにその名前だった、ペッツォタイトなんていう名前は聞き覚えがない。
「ほら呼んでみなさいよ、それとも口がきけなくなったの?」
「…………ぺ」
呼べと言われたのでとりあえずライアーバードはどうにか喋ってみようとしたが、そこで失敗したので思いっきり咳き込んで誤魔化した。
ずっと声を出さないように我慢してたのでうまく話せない。
というか最中に首を絞められたりしていたので、それも原因かもしれない。
「ごべ……ごめんなざい……こえ、うまく……だせな、い……です」
ひとまず普段通りの老女の声を出すことに成功したライアーバードだったが、調整がうまくいっていないせいで普段よりもずっと醜い声になっていた。
「あら、ひどい声。アンタ普段からきったない声してるけど、今は本当にひどいわね」
『彼』がそんなふうに言ってくる。
その後もライアーバードはどうにか喋ろうとしたが、うまく喋れなかった。
『彼』が名乗った名前をもう一度呼んでみようとしたが、「それで、ぺっつぉ」のところで普通に咳き込んで失敗した。
声の使い方は人より上手いと思っていたライアーバードだったが、考えを改めるべきかもしれない。
『彼』は呆れたように溜息を吐いてこう言った。
「そんなに言いにくいならラズベリルでいいわ。元々どっちを名乗るか悩んでいたし、どうせお母様しか……やっぱりラズベリルって呼びなさい、ペッツォタイトの名はお母様にしか呼ばせない、ってことにするから」
最初に名乗ったものとは別の名前を呼べと強要されて、ライアーバードはさらに困惑する。
どっちを名乗るか云々ということは、ライアーバードのように偽名か何かなのだろうか。
「…………あ、あー……あー…………らずべりる、さま?」
「本当にきったない声、さっきよりもちょっとだけマシだけど。そうよ、ラズベリル。どうせ長い付き合いになるのでしょうし、しっかりその頭に刻み込みなさい」
ようやくどうにかまともに話せるようになってきたライアーバードに『彼』はそう言った。
どうにか話せそうだが、いつボロが出てもおかしくない状態だった。
なので発言回数は極力減らす必要がある。
おそらく彼はライアーバードの本名および芸名を知らない。
だから別に元の声で話してもそこまで問題ないのかもしれないが、いつかどこかで歌姫モリオンを知る者に遭遇した時、そしてさらにライアーバードがあのモリオンだと気付かれてしまった時に『歌姫モリオンは呪われた』というのがデタラメであるということを極力バレないようにしておきたい。
だからライアーバードは旅の最中、誰かを幻術で再起不能にする時以外は基本的に嗄れた老女の声のまま話している。
なので、ライアーバードは極力この老女の声を保たなければならない。
しかし、声を無理矢理押さえつけていたせいか首を絞められたせいかそれとも疲労のせいか、気を抜くとこの声が崩れそうになる。
なので、なるべく喋らないように、最低限の単語だけで。
「こえは、まほう。……ようせい、けはい、ない」
最低限の単語だけ並べたライアーバードに「そんなに喉おかしいの?」と『彼』はほんのわずかに心配しているような素振りを見せた。
しかし、そんな素振りは即座に消えて、ニタリと笑みを見せてきた。
「ふぅん、わかるんだ。アンタそういうの疎そうなのにね。……そうよ、声は魔法で変えてるし、妖精っていうのも嘘っぱち。さて、愚かなコトドリちゃんに問題です。『アタシ』は何だと思う?」
わかるわけない、とライアーバードは思った。
ただでさえ頭が働いていないのだ、そんな時に『問題です』とか言われて正しい正解を当てられるわけがない、そこまでライアーバードは頭の回転が速くない。
それでも一応、それらしき答えは先に思いついていた、何か違うような気がしなくもないがそれ以外に何も思い浮かばなかったため素直にそれを口にした。
「わるふざけの、えんぎ……?」
もう少し言葉を選べばよかったと思った時にはあとの祭りだった。
しまったと思ってライアーバードは『彼』の顔を見上げる。
『彼』はライアーバードの目をじいっと見つめた後、ぷふっと笑い始めた。
「ふふ、ふふふふふ……悪ふざけ、悪ふざけ!! 見る目がないわ、やっぱりこのブスすっごく頭悪いわ、声の魔法を見破ったからちょっとだけ見直したのに……あは、あはははははは!!」
どうやら不正解だったらしい、そしておそらく、ライアーバードは言葉を誤った。
ただ単に『演技』の一言で済ませておけばよかったのだ。
『彼』がライアーバードの顎に指を引っ掛ける、いつの間にか笑い声は消えていた。
「不正解のコトドリちゃんには〜、ディープキッスで酸欠死の刑ね」
なんですそのわけわかんない刑は、とライアーバードは普段だったらツッコミを入れていただろう。
しかし声の不調のせいでそんなツッコミをする余裕なんてなかったし、そもそもツッコミを入れる時間なんて与えてもらえなかった。
「……!!?」
唇を重ねられ、やけにあっさりと『彼』の舌がライアーバードの口の中に侵入してきた。
本当に死ぬかと思った。
先ほどの行為の最中にもライアーバードは彼に口付けされたが、その時の荒々しく乱暴なそれと今のそれは全く違った。
こちらの快楽を無理矢理引き摺り出して骨抜きにするかのような、そういう代物だった。
ボロボロ状態の身体の痛みを感じなくなるような深く恐ろしい快楽、いっそ意識を飛ばせれば楽になれたかもしれないのに、『彼』はめざとくライアーバードが許容できるギリギリの快楽を押し付け続けた。
じゅるり、と唾液を吸われ無理矢理引っ張り出された舌を甘噛みされた後に『彼』の唇が離れていった。
チカチカする視界で『彼』が妖艶に微笑む。
「本当に死なれたら面倒だし、そもそも話したいことがあるからここまで。ほら、しゃんとなさい」
ペチペチと頬を叩かれた、いっそぶん殴ってもらった方が痛みでこの余韻が薄れるかもしれないとライアーバードは思った。
「全く、アンタが頭悪い回答したせいで余計なことしちゃったじゃない」
そんなことを言われても、とライアーバードは思った。
急にわけわかんない刑とか言って、勝手にそういうことをしてきたのは向こうである。
ライアーバードはただ言葉を間違えただけだ、それだけなのにこの仕打ちは結構理不尽な気がする。
「……というわけで、アンタの間抜けな回答は不正解。アンタ本当に見る目がないわね。あの堅物が悪ふざけでこんなことすると思う? 本気で?」
赤い目がライアーバードの目を至近距離から覗き込む。
ライアーバードは本気で心の底からそうだと思ったわけではないが、それ以外に碌な回答を思いつかなかった。
「それぐらいしか思いつかなかったって顔ね。おバカだものねコトドリちゃんは」
そう呟いた後、『彼』はわざとらしく咳払いをしてからライアーバードの頬を撫でた。
「……多重人格って言ってわかるかしら? 正解はそれよ。この身体にはアンタをさっきまで乱暴に犯していた騎士様と、今アンタの目の前にいるアタシ、その二つの心があるの。……言ってることわかる? なるべくわかりやすく教えてあげたつもりだけど」
多重人格。
その単語を口にされて、ライアーバードはようやく「そういうことか」と合点がいった。
実際にそうだという人に出会った事はなかったが、一応知識はあった。
主に極東の絵巻が元になった知識だが。
「トーカちゃんと、おなじ……?」
「は? 誰よそのトーカって」
急に機嫌を損ねたような声で『彼』はそう問い詰めてきた。
知らないのか、けろげーろ武将。結構有名だと思っていたのに、とライアーバードは思った。
「きょくとうのえまきの……おんなのこ……にじゅうじんかく、の」
「絵巻? ああ、お話に出てくる女の子なのね。ふーん」
『彼』の態度が軟化した、というか何故急に機嫌が悪くなったのだろうかとライアーバードは思った。
「そういうわけで、アタシはホントは妖精でもなんでもなくて、ただ彼の中にあるもう一つの人格。騎士様を手助けする可愛い守護妖精、っていう設定の、ね」
そう言って『彼』は、いや、口ぶりから察するにおそらく『彼女』であるらしいその人は薄い笑みを見せた。
「アタシが表に出てくることなんて滅多にないのよ? 本当に昔の、アタシが生まれた頃をのぞくと、アタシが表に出るのはお母様と会う時だけ。アンタの前に出てくるつもりなんてホントはこれっっっぽちもなかったのだけど……アタシの騎士様が随分と酷い目に合わせてしまったし……彼の代わりに『お話』してあげようと思って」
「はなし……?」
普段よりも醜い老女の声で問いかけたライアーバードに『彼女』はニコニコと笑顔を浮かべた。
作り物のように完璧な笑顔だった。
「ええ、どうしてアタシ達がこうなったのか。なんで彼に守護妖精が必要になったのか……知りたいでしょう? 知りたいわよねえ?」
有無を言わせてもらえない顔だった、笑顔なのに「聞け」という圧がすごいとライアーバードはたじろいだ。
確かに気になる、ものすごく気になるし、話してくれるというのなら聞きたい。
命の恩人かつ初恋の人の話である、普通に知りたい。
けれど、とライアーバードは思った。
全身痛いし、散々な目に遭わされたせいで疲れている。
結構というか、正直何故生きているのかわからない程度のダメージを受けている気がするライアーバードだった。
明日じゃ駄目だろうか、とライアーバードは思わず思言いそうになった。
ライアーバードの答えなんか最初から聞くつもりなんかなかったようで、『彼女』は自分が何故生まれたのかを話し始めた。
一言で言うと酷い話だった。
彼は姉弟の近親相姦によって生まれたのであるという、近しい血族同士の間に生まれたせいなのか、彼の顔は父親に瓜二つであるそうだ。
口振りから察するに彼の両親は有名人の類であるらしい、だから『彼女』はこう言った「アンタもわかるでしょう? この顔が晒されたら、そしてアタシ達の両親が誰であるか知れ渡ったらひどいことになるって」と。
とりあえず頷いておいたが、ライアーバードは彼の両親がどこの誰なのか全くわかっていなかった。
何故かライアーバードが理解している前提で話が進められてしまったのだ、結局どこの誰なのかと聞く暇もなかったし、その問いかけが許される雰囲気でもなかった。
だからライアーバードは自分以外だったら当たり前のように知っている有名人なのだろうと勝手に思った、赤目といえばライアーバードにとっては竜だったので、竜の血でも流れているのかもしれないと憶測もした。
悪友から聞いた話によると竜は近親相姦というものを忌み嫌うそうなので、もし本当に彼に竜の血が流れているのなら、近親相姦によって生まれてしまった彼に酷いことが起こる可能性は十分あるだろう、とライアーバードは考える。
彼らの母親は父親、弟に彼を身籠ったことを隠してこの国から遠く離れた場所で彼を産んだらしい。
ただ、そこで彼の母親はある人物に罠にかけられ捕えられてしまったらしい、そして生まれたばかりの赤子の彼は娼館に売り叩かれたのだという。
そしてそこで育った彼は子供の頃から酷い目に遭わされた、と。
赤子の頃がどうだったのかはわからないが、人生で最も古い記憶は幼児趣味の変態に身体中を舐めまわされているものだ、と『彼女』は淡々とした口調で語った。
その後聞かされた話も、酷い話だった。
そうして五歳くらいになった頃、その非道な仕打ちに耐えきれずに彼の中に彼の心を守るための『彼女』が生まれたそうだ。
子供の性は曖昧で、また彼の顔は美しく中性的だった、だから少年扱いする客もいれば少女の代わりとして扱う客もいたらしい。
少年として扱われた方がまだマシだった、と『彼女』は語った。
少女代わりにはじめてそういった行為を強要された彼はそれに耐えきれず、彼の代わりに『少女』の役目を肩代わりするもう一人の自分を作った。
それが『彼女』。彼の心を守る守護妖精。
心が割れ、壊れた彼らはその後も虐げられた。
その身体は玩具のように弄ばれ、男も女も『よく』するための芸をたっぷりと覚えさせられたのだという。
その辺りでこれ以上聞きたくないと目を逸らしかけたライアーバードの顔を『彼女』は片手で掴んで押さえつけた、その顔には不気味な作り笑いが貼り付けられていた。
『彼女』が生まれて二年経った頃、彼らに転機が訪れる。
お母様が迎えにきてくれたの、と『彼女』は恍惚とした顔で言った。
罠にかけられ捕えられていた彼らの母親は、その絶望的な状況から脱した後一目散に彼らを取り返しにきてくれた、と。
お母様はね、お母様はね、アタシ達に酷いことしたクズどもをみーんなやっつけてくれたのよ、と『彼女』は幼児のような笑顔を浮かべながらライアーバードにそう語った。
彼らの母親は彼らを救出し、そして甲斐甲斐しく世話をしたらしい。
けれど、身体の傷が治ったところで心が受けた傷は治らなかった。
壊れた心はそのままに、割れた心も元には戻らない。
『少年』と『少女』。真っ二つに割れた彼らの心は、治らなかった。
それでも彼らの母親は、我が子を見捨てなかった。
あんな汚くて狂った子供、捨てるか殺すかしても良かったのにと『彼女』は笑う、狂ったような子供っぽい顔で。
それから数年かけて、彼らは心の傷を癒していったらしい。
彼は娼館での地獄の日々を忘れるために強さを追い求めるようになり、『彼女』はそんな彼を見守りつつ、時折彼の心の傷を肩代わりした。
肉体的に強くなれば強くなるほど彼は心の傷を意識しなくなっていった、しかし意識しなくなっただけでその傷がなくなったわけではないと『彼女』は嘯いた。
そうして落ち着いた頃には『彼女』が表に出る必要もなくなっていった、時折母親と話すことはあったそうだが、その回数も減っていっていたらしい。
それでも、一度完全に壊れた心は元には戻らない。
自分が消えれば『彼』はきっともっとまともで素敵な騎士様になるのだろうと『彼女』は笑った。
笑いながらライアーバードの頬を撫でて、赤い目でライアーバードの目を覗き込む。
「ま、こんなところかしら。アタシが生まれてから今も残っているっていう説明は、これで十分かしら?」
こくこくとライアーバードは頷いた、頷きながらとんでもないというか酷い話を聞いてしまったと思った。
というか、自分なんかが聞いてよかったのだろうか今の話。
そう思って口を開こうとしたライアーバードの唇に『彼女』はそっと触れた、そして淫靡に笑う。
「アンタはアタシ達の恥ずべき過去を知ってしまった」
少年の姿の少女は笑う、笑いながらライアーバードの唇をゆっくりとなぞる。
その手つきにライアーバードは自分の顔が一気に赤くなったのがわかった。
そんなついさっきまで生娘だった少女の反応に『彼女』はさらに笑みを深くし、ライアーバードの唇に自分のそれを重ねた。
触れるだけの、先ほどの暴力的なそれに比べると随分と優しく短いそれをやめた後、『彼女』はライアーバードの目を真正面にから見据える。
「秘密を守るためにアタシ達はアンタを絶対に逃さない。自由になんてしてあげない、誰にも秘密を漏らさないように一生縛り付けてあげるわ」
それは、まるでそれを言うためだけに過去を全て語ったかのような口ぶりでもあった。
それって愛では、とライアーバードの乙女心は爆発した。
爆発するどころではない重い話を聞かされたばかりだというのに。
ライアーバードの乙女心の爆発の被害からかろうじて逃れた心の理性が、現実から逃避するかのように「というか」と呟いた。
勝手に好き勝手ぺちゃくちゃ重くて酷い話をしたのはそっちでは、と。
ライアーバードは別に聞きたくて今の話を聞いたわけではない、聞かせてくれるならと聞くけど、別に話したくないことなら無理に聞き出そうとか思っていなかった。
一方的に向こうが勝手にその秘密を明かして、否応なしにその秘密を知らされた自分の自由を縛るという。
理不尽ではないか、とかろうじて理性を残しているライアーバードの心の一欠片はそう思った。
とはいえ、そんな一欠片がどう考えようと、爆発して吹っ飛ぶどころか爆発して復活するを繰り返し始めたライアーバードの乙女心にはなんの影響も与えなかったが。
顔面がより熱くなるのをライアーバードは感じ取った、そんな場合じゃないだろうと抑え込もうとすればするほど、顔が熱くなる。
そんなライアーバードの顔を一瞬だけきょとんとした顔で見下ろした『彼女』だったが、すぐに元の淫靡な笑みを浮かべ出す。
「何よその顔。ふふ、変な子……」
そう言って『彼女』は笑う、ライアーバードは全てが見透かされたような気がして、酷く恥ずかしくなった。
身体はまだ痛む、夜明けはまだ先であるようだ、今から休めれば朝まで身体はどの程度回復するだろうか。
閉ざされたカーテンに視線を逸らした直後、ライアーバードは激痛を感じた。
「あら、痛かったかしら? 散々な目にあっていたものね」
『彼女』はそう言って笑った、意地の悪い顔だった。
激痛にももがくライアーバードを嘲笑いながら、少年の姿の少女は舌なめずりをした。
「ねえ、気持ちいいこと、お好きかしら?」
壊れ物にでも触れるような手つきで『彼女』はライアーバードに触れた。
あげそうになった声をライアーバードは必死に噛み殺した。
いきなり、なんだ。
もう互いに疲れているだろう、もう寝ればいいじゃないかとライアーバードは泣きそうになった、もうこれ以上はたくさんだった。
どうにか声を保ったままそう伝えようとしたライアーバードだったが、言葉を組み立てる前に更なる激痛を感じて思考が完全に停止した。
爪は立てられなかったようだがそれでも凄まじい痛みだった。
ライアーバードは必死に悲鳴を噛み殺して痛みに耐える。
「それとも痛い方がお好みかしら? そういうのマゾっていうのよ? それともド変態とか阿婆擦れって言った方が正しいかしら?」
ぐちぐち、と嘲笑うような声の合間にライアーバードはそんな音が聞こえた気がした。
痛い、痛い、痛い。
それでもライアーバードは口を閉ざし続けた、もはやそれは意地のようなものだった。
というかおそらく、一度でも悲鳴をあげれば心が折れる気がした。
いつの日か自分が背負った覚悟をもう無理だと捨て去ってしまうような気がした、だからライアーバードはただ耐えることを選択した。
「ねえ殴られて、無理矢理ヤられても悲鳴すら上げなかったのは気持ちよかったから? そういうのが好きなの? ……だから、因果応報とかほざいて笑うの? 何をされても平気で受け入れるとかいうの?」
無言を貫き通したライアーバードに『彼女』は背筋が凍りつくような冷たい声でそう問いかけてきた。
ライアーバードにはそれに答える余裕はなかった。
何も言わないライアーバードの顔を見て、『彼女』は唐突に大声で笑い始めた。
しばらく笑い続けた後、唐突に黙り込み、恐ろしい目でライアーバードの顔を睨みつけた。
「地獄に堕としてあげる。二度とそんな口きけないように、本当に酷い目にあわせてあげる」
そんな宣言と共に、ライアーバードの本日二度目の惨劇は開始された。
その後もまあ、酷かった。
簡潔に言うと拷問だった。
痛みと快楽を交互に、もしくは同時にライアーバードに押し付けて『彼女』は笑っていた。
蜻蛉の羽を千切る幼い子供のように、若い女の醜態に好奇の目を向ける俗物のように。
ライアーバードはただ耐えた、悲鳴の一つもあげずに。
というか悲鳴をあげないという一点に意識を集中させないと、痛みと快楽で頭がおかしくなっていたかもしれない。
何も言わないライアーバードを『彼女』は不満に思ったらしい、どうにかライアーバードに声を上げさせようと、甚振る手つきを徐々に強めていった。
それでもライアーバードは耐え切った。
諦めたのか飽きたのか、それとも声以外は正直に反応するライアーバードの身体の方を面白がったのか、途中からはその機嫌の悪さが多少薄まっていたような気がした。
『彼女』は様々な方法でライアーバードを甚振ったが、彼と同じようにその身体を繋げようとはしなかった。
女の子だから、と『彼女』が言っていたような気がするが、あんまり覚えていないライアーバードだった。
カーテンの隙間からほんのわずかな光を感じられるようになった頃、ようやく『彼女』は手を止めた。
「今日はこの辺で勘弁したげる。じゃあまたね、愚かで醜いコトドリちゃん」
そう言って彼がそうしたようにライアーバードの身体を抱きしめて、動かなくなった。
肩を揺さぶられてライアーバードは目を覚ました。
視線を彷徨かせて、覚えのある金色が目に映ったので、そこに焦点を絞る。
自分より先に目を覚ましていたその人はおそらく『彼女』ではなく彼であるようだった。
何やら暗い顔をしているその人の顔をぼんやりと見上げて、ライアーバードは口を開いた。
「……おはよう、ございます」
意外なことに声は普通に出た、いつもの嗄れた老女の声。
おお、と感心しつつ起きあがろうとしたライアーバードだったが、無理だった。
「身体が、動きません」
今まで感じたことのない倦怠感というか疲労感、それとあちこち痛むせいで面白いほど身体が動かなかった。
今誰かに襲われたら普通に死ぬしかないだろうなとライアーバードは思った。
ふと、強烈な視線を感じたのでライアーバードがそちらを見ると、彼が愕然とした様子でライアーバードの顔を見ていた。
どれだけ頑張ってもライアーバードの身体は動かなかった。
全身が痛くて痛くて仕方がない。
治癒魔法を使おうにも体力が回復していなかったので、カスみたいな魔法しか使えなかった。
なので痛む身体に呻きながら、ライアーバードはちびちびと治癒魔法をかけつつ回復をはかった。
彼は何も言わなかった、ただ愕然とした顔でライアーバードの顔を見つめるばかり。
随分と経った頃、彼が小さな声でライアーバードに問いかけてきた。
「……まだ、痛むか?」
ギリギリ聞き取れたその声にライアーバードは口を開く。
「大丈夫です。一日でどうにかします」
魔法が使える程度まで体力が回復すればどうにかなりそうだったので、ライアーバードはそう答えた。
「…………は?」
彼は何を言われたのか理解できない、という顔をした。
どういうことかと聞かれたので、ライアーバードはこう答えた。
線路が直る明日までには動けるようにします、と。
ライアーバードがそう言うと、そう言って無理矢理笑みを浮かべると彼は意味不明な怪物でも見るような目でライアーバードの顔を凝視した。
その後、彼は一言も喋らなかった。
それでも時間は過ぎていった、ゆっくりとだが確実に。
窓から差し込む光の色は朝のそれから昼のそれに。
時計を見ると、とっくにお昼ご飯の時間を過ぎていた。
自分は何も食べられるそうにないが、彼はそうではないのでは、と思った。
なんせ。朝食どころか昨日の夕食まで抜いている。
ライアーバードが世話になっていた宿屋には今の彼と同世代の冒険者の少年達が度々泊まりにきた、育ち盛りだという彼らの食欲が途轍もなかったことをライアーバードは思い出す。
何度か時計を見て、それでも彼は身動きせずに何も言わなかった。
ただ、ライアーバードをじっと見つめている。
目があってもなんの反応もない。
「あの……私のことはほっといていいのでお昼ご飯食べてきてください」
それに耐えきれなくなって、ライアーバードは意を決してそう告げた。
彼はしばらく何も言わずにライアーバードの顔を見つめていた。
しかし、不意に視線を逸らし、立ち上がる。
そして何も言わずに部屋を出ていった。
それほど経たずに彼は戻ってきた。
てっきりどこかで食事を済ませてくると思っていたが、何やら美味しそうな匂いのする袋をいくつか持って帰ってきた。
「……何なら食えるか聞きそびれたから、パンとスープ、あとこの前のアイス買ってきた」
ぶっきらぼうに彼はそう言った。
この前のアイス。
それって、もしかしなくても初日に食べた蜂蜜のアイスでは?
彼がこちらに見せる袋には、見覚えのある蜂蜜壺のマークが描かれていた。
それを目にした直後、ライアーバードは勢いよく飛び起きた。痛みとか疲労感とかどうでもよかった。
蜂蜜のアイス、すごく美味しい蜂蜜のアイス。
わざわざ、買ってきてくれた、好きな人がわざわざ自分のために買ってきてくれた。
「ありがとうございます……!!」
「お、おう……」
いきなり飛び起きたライアーバードに彼は目を白黒させていた。
「お前、身体大丈夫なのか……?」
「あんまり大丈夫じゃないけど大丈夫です、食べます、食べられます」
「本当に?」
疑うような彼の視線にライアーバードは力強く肯定しようとしたが、下半身に痛みが走った。
「問題あ……いた、いたた痛い痛い痛い、痛いけど大丈夫です。気合いと根性と愛の力さえあれば、どうとでもなりますよ」
そんなふうに言うライアーバードのことを、彼が再び意味不明な怪物でも見るような顔で見ていた。
ライアーバードは真っ先にアイスに手を出そうとしたが、彼に「食えそうならこっちも食っとけ」とパンとスープを渡されたので、まずそちらを食べる。
しっかり完食した後、ライアーバードは至高のデザートタイムに入った。
ライアーバードは蜂蜜が好きだ、愛していると言っていい。
その蜂蜜への愛の力がライアーバードの食欲に火をつけ、そして動かせそうになかった身体を動かしたのである。
蜂蜜は偉大である、全人類讃えろ、と思いながらライアーバードは蜂蜜のアイスを食べる。
とても美味しかった、初めて食べた時よりも、というかその何倍も美味しかった。
だって、好きな人がわざわざライアーバードのために買ってきてくれたのである、おいしくないわけがない。
ご馳走様をした後にライアーバードは自分の体力そこそこ回復していることに気付いた。
きっとまともな食事を摂ったからだろう、それと蜂蜜の力だ。
今ならいける、そう確信してライアーバードは自分の全身に治癒魔法をかけた。
全身の痛みが引いていく、完全には治らなかったが、支障なく動ける程度にはなった。
立ち上がってベッドから降りる、手足を動かして特に問題がなさそうなことをライアーバードは確認した。
「よし。動けるようになりました」
自分用に買ってきていたサンドイッチをとっくに食べ終わっていた彼にライアーバードがそう言うと彼は短く「そうか」と。
「ありがとうございます」
ライアーバードが動けるようになったのは彼が食事、というか蜂蜜のアイスを買ってきてくれたからである。
なのでお礼をするのは当然のことだったが、彼は愕然とした顔でライアーバードの顔を見た。
「……なんで、礼なんて言える」
「はい?」
その問いかけの意味がわからなくて、ライアーバードは彼の顔を見返した。
彼がぎりりと歯を食いしばる、そしてライアーバードに歩み寄って、その襟元を掴もうと腕を伸ばして、途中で止めた。
「なんで、礼なんて言う。お前、俺が、俺達が昨日お前に何をしたのか分かってんのか……!!」
伸ばされた腕がだらりと下に落ちる、彼は怒りを孕んだ目でライアーバードの顔を睨んだ。
「あれだけ酷い目に遭わされといてなんでそんな平然としている、死んでもおかしくないような、あんな……あんな目に遭わされといて、何故……」
そう言われてライアーバードは考え込んだ。
確かにライアーバードは昨日酷い目にあった、今目の前にいるこの人に随分と酷いことをされた。
その自覚はある、ライアーバードが頑丈でなければ心か身体のどちらかかもしくはその両方が手遅れなほど壊れていただろう。
けれどライアーバードは平気だった、肉体的にはまだ完全回復はしていないが、精神はピンピンしていた。
何故だろうか。
ライアーバードは言われて初めて気付いたが、あんな目に遭わされた翌日にしては異常なほど平然としていた。
何故だろうかとライアーバードは思った。
そしてここ一年の旅路を思い出した、主に直近の廃遊園地ペシャンコ事件のことを。
あれだけの目に遭えば、心も身体も強くなるだろう。
とはいえ、肉体面であそこまでのダメージを負わされたのは初めてだった。
旅の途中どころか歌姫時代にそういうことをされかけたこともあったが、犯されたのは初めてだった。
「…………結構、酷いことをされたとは思っていますが。なんででしょうね、なんか……ただそれだけ、っていう感じというか」
自分ってこんなに図太かったんだなとライアーバードは思った。
とはいえ、相手が彼でなかったら流石にもっと違っただろうが、とライアーバードはそう分析する。
彼以外の誰かにああいうことをされた自分はどうなるのだろうか、きっと死にたくなるのだろう、と。
「普通だったらあんなことされたら怒るか怖がるかが普通の反応な気もしますが……特にそういう感情はありません」
「……何故」
何故と聞かれてもライアーバードにだってそれはわからなかった。
単純に自分が図太く鈍いだけなのか、それともあんなことをした男のことをまだ好いているからか。
好きだから、とでもいえばそれらしく、そして格好がつく気がした。
けれども今のライアーバードにそこまで言う勇気はない。
「……お前が今、平然としているのは、あれだけの目に遭わせた俺を憎むどころか恐れさえしないのは……何をされても因果応報だと、そう思っているからか?」
その問いかけにライアーバードは無言で首を横に振った。
それも多少はあるが、それだけではなかったから。
なら何故と言い募る彼に、ライアーバードは自分でもよくわからないと曖昧にぼやかす。
彼は大きく顔を歪めた。泣きそうな顔だと思ったが、彼が涙を流すことはなかった。
その問答の後、大した会話はなかった。
彼との問答が終わった後に『彼女』が出てきて彼と同じ事を聞いてきたが、ライアーバードはそちらも彼の時と同じような回答をした。
『彼女』はライアーバードを攻め立てるように詰問してきたが、それでもライアーバードの答えが変わることはなかった。
最終的に「嫌い嫌い大っ嫌い、世界で一番アンタが嫌い」と癇癪を起こした子供のように言い捨てて『彼女』は引っ込んでいった。
その日の夜は何もされずに普通に寝た、前日ほぼ眠れていなかったので、びっくりするほどよく寝られた。
その翌日、ライアーバードの身体の調子は元に戻ったし、線路も直ったので彼がこの島に来た目的である海竜退治に向かった。
彼はライアーバードをもう一日二日休ませる気だったようだが、大丈夫だとゴリ押した。
最終的に彼の海竜退治は成功した、途中でライアーバードが海竜に拉致される、拉致された先で海竜に神竜の声を使いつつ幻術をかけたら決まり過ぎて恐慌状態に陥った海竜が大暴走をするというアクシデントに見舞わられたりもしたが。
ちなみに海竜はしょぼかった、流石に竜の国最弱を自称する悪友よりも強そうだったが、神竜に比べると圧倒的にしょぼかった。
あとライアーバードの幻術にころっと引っかかったので、本当にしょぼかった。
しょぼいとはいえ一応相手は竜、それも罪のない人を脅かし続けた悪い竜だ。
それをあっさりと仕留めたのだから、やはり彼はとても強いのだと思う、あとすごく格好いい。
間抜けにも海竜に拉致されたライアーバードのことを彼はかなり心配してくれた、そして助けに来てくれた。
乙女心がどっかーんと爆発した、流石にこれは誰でも爆発するだろうとライアーバードは思った。
相手が元々好きな人でなくてもあんなふうに助けに来てくれたら誰だって惚れるしときめくだろう、カッコ良すぎるとライアーバードはその時だけは暴走する乙女心を無理矢理止めようとはしなかった。
海竜退治の帰路、自業自得で海竜から逃げ回り続けていたせいで疲れ果てていたライアーバードは完全に寝落ちていたらしい。
気がついたら次の日になっていたし宿のベッドに寝かせられていた、ライアーバードはとてもびっくりした。
いつ寝たのか全く覚えていなかった、帰りの列車に乗り込んだ記憶はあったが、座席に座った後の記憶が綺麗さっぱり無い。
ライアーバードは彼に平謝りした、手間をかけさせてしまって本当に申し訳ない、と。
彼は別にいいと言った、むしろ謝るのは危険な目に合わせたこちらだ、とまで。
ライアーバードは罪悪感に打ちひしがれた。
そうこうしているうちに彼はライアーバードに目的を達成したので帰る、と言った。
帰る先は首都、ライアーバードの地元だ。
ついて行きたくないとライアーバードは思った、兄や支配人にでも遭遇したらとても面倒なことになる。
それが顔に出ていたらしく「嫌なのか」と不機嫌な顔の彼にライアーバードは問い詰められた。
首都にうっかり遭遇したらとても面倒なことになる知り合いがいる、と正直に言うと、彼は「ふーん」と言いつつ、ライアーバードを解放する気は起こさなかった。
なので、おとなしく彼についていくことにした。
見つかったらその時はその時だ、最悪幻術でどうにかすればいい、とライアーバードは覚悟を決めて首都行きの船に乗った。
首都行きの船では基本、部屋に閉じこもることになった。
ライアーバードは本当は海やら星空やらを見に行きたかったのだが、彼と『彼女』がそれを許してくれなかった。
それで何をしていたのかと言うと、ふしだらなことをしていた。
地獄のような、天国のようなそんな船旅を終えて、二人は首都に辿り着いた。
当然のように彼の家に連れてこられたライアーバードは、この後どうなるんだろうかと浮かれていた。
ポストに大量に溜まっていた新聞紙テーブルの上に放ろうとした彼の動きが、唐突に止まる。
「どうかしましたか?」
問いかけに返事はない、彼の手から束になっていた新聞が落ちた。
それを拾う前にライアーバードは勢いよく腕を掴まれる。
「出てけ」
「はい?」
「出ていけ、今すぐ。二度と俺の前に現れるな。……自由にしてやる。だがこの顔の絶対に口外するな。口外したらどこにいようと無惨に殺してやる。いいな?」
一体いきなり何事だ、と。
浮かれた心に氷水でもぶっかけられたような気分になる、何故急に出ていけとか言われてるんだろうかとライアーバードは唖然とした。
その後、とにかく彼の顔のことを誰にも言うなと散々脅された後、ライアーバードは彼の家から叩き出された。
叩き出されたその時、大雨が降っていたがそれでも容赦なく。
何故なのか。
自分が何かしでかしたのか、いつの間にかやってはいけない何かをしでかしていたのか。
思い返しても思い返しても心当たりは思い浮かばない。
なんで。
どうして。
意味がわからない、わけがわからない。
それともこれが、好いた人から意味もわからず唐突に拒絶されるのが、ライアーバードが今まで犯してきた罪に対する天罰なのだろうか。
それにしたって唐突すぎる、本当に意味がわからない。
けれども、これが自業自得の因果応報であるというのなら、ライアーバードは受け入れるしかなかった。
兄や支配人に見つかると面倒なことになるので、ライアーバードは彼の家から追い出された後、すぐに首都を出た。
その後呆然としたまま列車に乗って、適当に辿り着いた地でフラフラと亡霊のように彷徨った。
二週間程度経った頃、ライアーバードは呆然としたままこう思った。
このままだとそのうちうっかり事故死する。
彼が私を拒絶するというのなら仕方がない。ただ、その理由だけは確認したい。
自分の何が駄目だったのか、それを。
というのはただの名目だった。
顔が見たかった、会いたかった。
だからライアーバードはもう一度首都に戻った。
近くにきたからお土産をという名目のために蜂蜜の焼き菓子を携えて、彼の家の前に辿り着く。
それでもそのドアの呼び鈴を鳴らす勇気が出てこず、彼の家の前をウロウロと行ったり来たりし、呼び鈴を鳴らそうと腕を上げ鳴らす勇気が湧かずに下げて、またウロウロと。
多分そのうち通報されるんだろうな、身元がバレたら兄が呼び出されて最終的に支配人が怒鳴り込んでくるんだろうな、とライアーバードは思ったが、それでもあと少しの勇気が出てこない。
「何やってる」
後ろから聞き覚えのある声、思わず大仰に飛び跳ねた後、ライアーバードは振り返る。
そこに兜の騎士が立っていた。
言葉が出てこなかった、最後まで呼び鈴を鳴らす勇気を出せなかったライアーバードは何もいうことができなかった。
「何しにきた」
機嫌の悪そうな、迷惑そうにも聞こえる声のライアーバードは泣きそうになった。
それでも右手の紙袋を掲げて、どうにか声を絞り出す。
「お土産、を」
「はあ?」
「イポスの方に行ってきまして、蜂蜜の焼き菓子を……」
兜の騎士の顔は見えなかった、それでも凄まじい表情で睨まれているのだろうとライアーバードは感じ取った。
「どういうつもりだ」
「近くまで、きたので」
「なんで来た」
「顔が、みたかったから」
その時ライアーバードの思考はほぼ止まっていた、聞かれたことをただ正直に話すことしかできなかった。
「来るなっつっただろうが」
吐き捨てるようにそう言われて、ライアーバードは足元がガラガラと崩れたように感じた。
けれど地面は崩れるどころかひび割れ一つなくて、ライアーバードは崩れ落ちそうになった身体を無理矢理立たせて、おしまいの言葉を彼の告げる。
「……迷惑なら、二度とあなたの前には姿を現しません。首都に足を踏み入れることもしません、なんなら国から出て行きます」
声が震えていた、かろうじて普段の老女の声は保てていたが、この先に確実に来るであろう拒絶の言葉を聞いた後もそれが保てるかはわからなかった。
「だから……!」
何故あの日突然ライアーバードを拒絶したのかその理由を聞かせてほしい、そう問う前に彼が深く溜息を吐いた。
腕を乱暴に掴まれた、そしてそのままライアーバードは彼の家に引き摺り込まれた。
ドアを閉める音、鍵が閉められる音が聞こえた直後、ライアーバードは強い力で抱きすくめられた。
「本当に馬鹿な女だよ……なんで戻ってきた」
そう呟いた彼の声は震えていた。
強い力で抱きしめられて完全に思考が停止したライアーバードに彼は泣きそうな声で「手放せなくなったじゃねえか」と呟いた。
……なんてことがあったなあとライアーバードは回想を終えた。
当時は本当に意味がわからなかったが、あの日彼がライアーバードを無理矢理追い出した理由は最近になってようやくわかった。
ちょうどあの頃だったらしい、彼の母親が第一王子暗殺事件を引き起こしたのは。
どうやらあの日の新聞にはそのことがデカデカと記載されていたようで、それを目にした彼はライアーバードをその事件に関わらせないよう、追い出したのだという。
彼からそういう話を聞いたと兄から聞かされ、そこでようやく、確認するのが怖くて目を逸らし続けていた大きな謎が、ようやく解けたのだった。
自分が何かやらかしていたわけではなかったということにひとまずライアーバードは安堵してた。
「何よ『さて』って。何誤魔化そうとしてんのよ」
事情もよく知らなかったどころか全く把握していなかったのに、何故自分達のあんな理不尽に付き合い続けたのか、その回答を誤魔化したライアーバードに彼女が不機嫌面で詰め寄ってくる。
顔がいいなあ、とライアーバードは呑気なことを思った。
大好きだなあ、とライアーバードはそれを言えばきっと全て許してくれるだろうなと思いつつ、それでもそれを口にすることはできなかった。
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