獄中の騎士
聖騎士レイフはその日もその牢獄の前にやってきた。
そこには先週この王国に残されたとある廃城で起こった殺人事件に関わり、おそらくそのせいで発狂してしまった自分の同僚が閉じ込められている。
親友と呼べるほどの関係ではなかったが、それでもレイフにとって彼は友人で、だからこそあの事件について色々と問いたださなければならなかった。
けれども彼は狂ってしまった、狂ってしまった彼はレイフを含めた誰の話も聞きいれなかったし、ただ訳のわからないことを叫び続けるだけだった。
実は一度だけまともに会話できた時間があったのだが、その時だってすぐに彼は狂気に取り込まれてしまった。
今、牢獄の中の彼はおとなしくしているようだった、その顔を一瞥したレイフは全く期待せずに牢の中に声をかける。
「ビスクバイト、聞こえているか? 聞こえているなら話をしよう」
無反応か、それともまたわけのわからない妄言を吐かれるのかそのどちらかだろうと思っていたレイフの予想は外れ、彼は何も答えず何も喚かず、ただ伏せていた顔をあげた。
その虚ろな赤い目がレイフの顔をぼんやりと見上げてくる、見慣れない、それでも知っている顔にそっくりなその顔を見返して、レイフは少しの間言葉を発することができなかった。
いつも兜を被り常に顔を隠していた彼の顔をレイフが初めて見たのは、彼をこの牢獄に封じ込んだその瞬間のことだった。
見るに堪えない傷があるからといって決して人前では兜を脱ぐことをしなかった彼の顔を初めて見た時、レイフは酷く驚嘆し、そして彼が顔を隠さなければならなかった理由に納得した。
その顔に、傷は一つもなかった。
けれどもその顔とそれからその赤い目は確かに秘さなけばならなかったのだろう。
その顔は、レイフ達が仕える王に瓜二つだった、あまりにも似過ぎていた。
そしてこの国で赤に近い色の目は王族か、王族に縁のあるものにしか生まれない。
そしてさらに、直系に近ければ近いほど、その血が濃ければ濃いほどその目はより強い赤色になるという。
ビスクバイトの目は濃い赤色だった、下手すれば自分達の王よりも。
それが意味することを考えれば、とレイフは彼の境遇を思う。
ただの邪推かもしれないとレイフは思った、それでも彼の顔を見ればこの国の者達はおそらく同じことを考えるだろう、とも。
赤い目はただ静かにレイフの顔を見ている、そこに彼がこの牢獄に閉じ込められたあたりから彼を支配していた狂気の気配は感じられない。
レイフは予想外の彼の様子に数秒考え込んだ。
話をしたかったのは確かだが、一体なにから話したものか。
何から聞けばいいのか、何を聞くべきなのか。
「……ライ、は」
牢の中から掠れた声が聞こえてくる。
それは、掠れてはいるがレイフにとって馴染みのある若い男の声だった。
その声を聞いて、レイフは今の彼がおそらく正気であるのではないか、と推察する。
「ライは、どうなった……あいつ」
「……お前がライと呼んでいるのは、あの日あの廃城にいた黒い髪の女のことか?」
レイフは少しだけ言葉を選んでからそう問うた。
牢の中の彼は小さく首を縦に振る。
「……それの行方は今探っているところだ」
あの殺人事件に居合わせた彼女の行方はまだわからなかった。
レイフとしては彼女の居場所を突き詰め、今回の殺人事件の話も含め色々と問い詰めなければならないことがあるため早急に彼女の居場所を突き止めたいのだが、一向に見つからないのだ。
「…………そう、か」
暗く、重苦しい声で彼はそう呟いた。
その声色に狂気は滲んでいない、今ならいけるかもしれない。
しかし何を問いかけるべきかとレイフは少し迷った。
おそらく、あの殺人事件のことをそのまま馬鹿正直に聞けば、あの時と同じように彼は再び狂気に堕ちるだろう。
なので聞くのは別のこと、さて何を問うべきか。
答えはそう時間をかけずに決まった、レイフは再び口を開く。
「お前が『ライ』と呼んでいるあの女は、四年前に失踪したおれの妹なんだが……あいつは今までどこで何をしていたんだ?」
その問いかけに、牢の中の彼は大きく目を見開いた。
どこかまだぼんやりとしていた赤い目の焦点がしっかりと定まったようにレイフは見えた。
「どういうことだ」
低い声は少しだけ不機嫌そうだ、その問いかけにレイフは特に顔色も声色も変えずに淡々と返す。
「言葉のままだ」
「は? 嘘を吐くな。あいつがお前の妹だって?」
何故か怒りでも堪えているような顔をされ、レイフは心外だと思った。
確かに、色々あってレイフと妹が兄弟として過ごした期間はとても短い。
四歳になる直前に大災害に巻き込まれたせいでレイフと妹は離れ離れになった。
てっきり母親と共に死んでいるだろうと思っていたその妹が実は生きていたことを知ったのは、五年前、レイフ達が十六歳の頃だった。
そういえばとレイフは思い出す、彼に死んだと思っていた妹が実は生きていたという話はしたが、それ以外のことはほとんど話していなかったことを。
その妹経由で知り合った少女と結婚したという話すら、そういえば話しそびれていた。
「……嘘だと思われても仕方のない話かもしれないが、あいつはおれの妹だ。いつか話はしたはずだ、死んだと思っていた妹が生きていたと。その実は生きていた妹が、お前がライと呼んでいたあいつだ」
「よくもそんな嘘を…………いや、よく見たら、顔似てるな?」
彼はレイフの顔を睨みつけていたが、睨みつけているうちに思いの外レイフと彼女の顔が似ていることに気付いたのだろう、妙に納得したような、少し抜けている声をあげた。
「双子だからな」
「マジか」
「マジだ。……性格は全く似ていないがな」
「そうだな。…………いや? 思い起こしてみると性格も結構似てる気がしてきた……おとなしそうな顔しててぶっ飛んだことしでかすところとか、結構似てる……」
「おとなしい?」
レイフは自分の妹を称するには不適切な単語が出てきたので思わず首を傾げた。
レイフの妹は全くおとなしくなんかない、どちらかというと真逆だ。
我儘で横暴、かつ自己中心的で自分勝手、自分の我は基本的には押し通すし、誰が何を言っても基本的に聞く耳を持たない。
「なんで疑問形?」
「おとなしいだろうか? うちの妹は」
「おとなしそうな顔してる割に意外とアグレッシブなところもあるけど、基本的にはおとなしくて可愛い良い子ちゃんだろう?」
それは一体誰のことだと思わずレイフは声を上げかけたが、すんでのところで押し黙った。
ひょっとしたら、レイフの妹は彼相手に猫をかぶっていたのかもしれない、それもものすごい猫を。
もしそうならレイフと彼の意見が食い違うのは当然のことなのかもしれなかった。
しかし、そんな猫を被るような可愛げが果たして自分の妹にあるだろうか、とレイフは深く考えた。
性格の悪い笑顔で性格の悪い笑い声をあげる妹の姿がレイフの脳裏に浮かんだ、物語に出てくる悪者みたいな、それはそれは見事な高笑いだった。
「…………」
「おい、なんで黙る」
「いや、あいつも多少は改心したのかと思ったら、少し感慨深くてな……」
そう言うレイフの脳裏では妹がまだ高笑いをあげている。
妹が猫をかぶっていただけなのか改心したのかは今はわからなかった、後々詳しい話を本人に聞かなければとレイフは思った。
「改心? なんのことだ?」
「おれが知っているおれの妹は、そんなにおとなしくない。歳をとって行動を改めたのかもしれないな」
「ふーん?」
少し訝しげな顔の彼を見て、思いの外会話が弾んでいるなとレイフは思った。
彼が狂気に呑まれる気配は今の所ない。
それならば、もう少し話が聞けるだろうとレイフは口を開く。
「そういえばお前、あいつからおれのこととかを聞いていなかったのか?」
「……いや、兄がいるだなんて話はひとつも。そもそも俺があいつについて知ってることなんてタカが知れてる。知ってることなんざほぼなかった」
牢の中の彼は皮肉げな引き攣った笑みを顔面に貼り付けた。
泣き出す一歩手前のような顔で、彼はポツポツと呟く。
「俺があいつについて知ってたのは、ライアーバードって偽名と、旅人やってることと、やたら体力あることと、簡単な魔法なら使えたことと、前職が声に関わる仕事だったらしいこととくらいだ。……仕事周りで色々あってあの婆みたいな声になったとも言ってたが、それだって本当なんだか」
「……そうか」
彼が語ったレイフの妹に関する情報は、レイフの知る妹とある程度合致した。
ライというのはレイフの妹が名乗っていたらしい偽名を略したものだろう、彼はその名が偽名であることを知っていたようだが、彼女の本名ともう一つの名前は知らないようだった。
また、前職についてもぼかして知らされていたらしい、この国の住民なら彼女の顔と名前とその声を知っているものは多そうな気がするが、彼はどうやら知らないようだ。
そういえば彼はそういったことには疎かった、とレイフは自分のことを完全に棚に上げてそう考えた。レイフだって自分の妹の前職があれでなければあんな業界のことは全く気にしなかっただろう。
というか今だってあんまり気にはしていないのだ、レイフがあの業界について知っているのは自分の妻が世界一だということくらいで、自分の妹が二番目だったのかそれ以降だったのかすらよくわかっていなかった。
「そういやあいつが妙にしぶとくて体力あるのはお前の妹だからか。……お前の双子の妹ってことは、父親はあいつなんだろう?」
「ああ」
「ふーん、なら少し納得だ……ああ、そういやあいつ、昔はタチの悪い悪戯を繰り返してたとかも言ってたな。若気の至りとかなんとか顔に似合わないことを言ってたけど、それも本当だったんだか」
「悪戯……?」
また引っかかる単語が出てきたなとレイフは思った。
レイフの妹は確かに性格が悪いが、悪戯をするような人物ではなかった。
そんなことをする暇を作るようなこともなかったはずだ、なにせレイフの妹はひどく頑固で真面目だったので。
――くだらないことはしない、他の誰かにとってそれらがどれだけ大切なことだったとしても、私にとってそれらは全てくだらない些事よ。そんなことをしている時間があったら練習するわ。
いつもいつもそう我儘を言って周囲を困らせるのがレイフの妹だった。
「ああ。出会ってすぐの頃だったか……『私は生活魔法と簡単な治癒魔法、それから悪戯でしか役に立たないような魔法しか使えません』って、言ってた」
「あいつが……?」
レイフは自分の妹が生活魔法と治癒魔法を扱っていたことは把握していたが、悪戯でしか役に立たないような魔法に関しては知らない。
そして牢の中の彼が言った、おそらくレイフの妹が言ったことをそのまま口にしたであろうセリフにも、レイフはかなり違和感を持った。
レイフの妹は我儘で横暴だ、そしてレイフは幼少期を除くと一度だって自分の妹が敬語で話しているところを見たことがない、というかその想像すらできない。
レイフはあの殺人事件に現場で見た黒色の女の姿をよく思い出してみた。
どう思い返しても妹の顔をしていたし、あれは間違いなく自分の妹だったと、レイフは一瞬思い浮かんだ実はあの時の女はレイフの妹によく似た別人説を否定する。
「お前、なんて面してんだよ」
「ああ、いや、すまない……どうにもおれの知っている妹と少し……いや、随分印象が違うような気がしてな」
「……実は見た目が似てるだけの別人だったとかいうオチじゃねーだろうな?」
「いや、それはない……おれも一瞬そうなんじゃないかと思いはしたが」
「……ふーん」
牢の中の彼はどこか納得してなさそうな微妙な顔をしている。
まだ彼は正気だった、このまま完全に正気を取り戻してくれればいいとレイフは願った。
「……最初の質問に戻るがあいつは、おれの妹は今までどこで何をしていたんだ? そもそもお前はあいつといつどこで知り合った? 知っていることなどほとんどないと言っていたから、あいつと出会ったのは実は結構最近だったりするのだろうか?」
その言葉に、牢の中の彼はしばらく答えなかった。
それでもその顔に再び狂気が宿ることもなかったので、レイフは静かに彼の言葉を待つ。
「……三年前」
ぽつりと呟くように彼がそう言うまで、どの程度時間がかかっただろうか。
「あいつと出会ったのは三年前だ。それより前にどこで何をしてたのかは知らない。……けど三年だ、まあまあ長い期間付き合いがあったくせに、俺はあいつのことをほとんど何も知らないんだ……」
そう言って牢の中の彼は乾いた笑い声を上げた、レイフは彼の狂気が戻ってくる前触れかと身構えたが、その声は低いままだ。
「なあ、笑えよレイフ……俺は……三年も付き合いがあったくせに、惚れた女のことを、ほぼ何も知らないんだ」
そう自嘲しながら、牢の中彼は少しずつ彼とレイフの妹、ライアーバードと名乗っていた女のことを語り始めた。
あれは三年前のことだった。
お前も覚えてるだろ、レイフ。そうだよ三年前、俺が海竜退治に向かうために乗っていた船で、俺はあいつと出会った。
二年前にくたばった例のあいつと言い合いになって、半ばヤケクソで向かった竜退治だった。
あの時はそこそこ長い有休とったせいでお前らにも迷惑かけてたっぽいし、母上には呆れられたっけな。
……まあ、その辺りはどうでもいいか。
あいつ……ライとの出会いはまあまあ衝撃的なものだったよ。
確か夜の九時を過ぎた頃、俺は自分の船室にいた。
誰にも見られるわけねえから兜外してさ、どう竜を退治してやろうかと考えてた。
そしたらなんか外が騒がしくなって、最初はうるせえなって思ってただけだったんだが、なんか様子がおかしい。
人同士の喧嘩にしては騒がしいというか、魔物っぽい叫び声が聞こえてきた。
ああ、これは放置したら駄目な奴だと思ってその辺に放ってあった兜にちょうど手を伸ばした時だった。
部屋のドアがぶっ飛んだ。
……そう、ぶっ飛んできたんだよ、あいつらごと。
ライと、そのライに体当たりをかましたマンティコアごと。
ちょうど俺の部屋のドアの真ん前で体当たりをかましたらしくて、ドアに叩きつけられたあいつとマンティコアがドアをぶち破る形で、こうドッカーンと部屋の中に……
……ああうん、わけわかんないよな? 俺もあの時今のお前みたいな顔してたんだろうな。
そもそもなんで船にマンティコアがいるんだよってなるよな、俺も意味わかんなかった。
落ち着いた後に聞いた話によると、ライは自分の部屋に戻ろうとしてたところで子供達がマンティコアに襲われているのを見かけて、わけもわからないまま自分にマンティコアの注意を引き付けて子供を逃したらしい、それで逃げ回ってるうちに一撃喰らって俺の部屋ん中にぶっ飛ばされた、ってことだった。
後々発覚した事なんだが、どうもそのガキどもがその日のビュッフェでとある召喚術師を怒らせたらしくてな、それで怒り心頭のその術者がマンティコアを召喚してガキどもにけしかけた、って話だったらしい。
……滅茶苦茶イカれた話だよな、ああ、その術者なら船が港に着くまできっちり拘束してたし、港に着いた後は即警察に突き出されたから。
まあそれは後々わかった話で、ドアがぶっ飛んだ直後は普通にわけわからなかった。
……けど、やるべきことはすぐにわかったし、その通りに行動できた。
部屋に魔物が入ってきた、しかもその魔物は自分と同じくらいの歳の女の子を襲っている。
なら騎士として人として取るべき行動は一つだけだった。
すぐに切り伏せたよ、大して強くない奴だったからほぼ一瞬で蹴りがついた。
それで、下敷きになりかけてたあいつを、ライを引っ張り出した。
ライは生きてた、結構なダメージを負ってたっぽいが俺が助け出してる間に自分で自分に治癒魔法使ったらしく、普通にピンピンしてた。
普通に即死してもおかしくなかったと思うんだけどな、あれ。
……今思うと、あの雑草みたいな頑丈さというかしぶとさというかはお前の妹だからなんだろうか。
まあ、とにかくあいつは運良く無事だった。
無事そうなことには一旦安心した。
だが、そこで全く別の問題が発生した。
俺はその時兜をしていなかった。
マンティコアを切り捨てた後、人が寄ってくる気配がしたからすぐに被ったがあいつにはこの顔を見られた。
……後々何度か思ったよ、あいつを見殺しにしていればこんなことにはならなかっただろうって。
なあレイフ、わかるだろ? この顔を見たお前なら。
わかるだろう、普通なら、この国に住む者なら、そうじゃなくてもこの国のことを知る者なら。
だからずっと隠していたんだ、その時が来るまで隠し通せとあれだけ言われていたのにな。
…………そうだよ、白状しよう。俺が隠し続けてきた秘密を。
俺の母親は魔女モルガナイト、この王国の王の姉である大罪人。
そして……そして、父親は…………
…………ああ、そうだ、その通り。事実かどうかはわからないが、少なくとも俺は母上にそう言われた。
……俺の父親はこの国の王であるヘリオドールである、と。
そうだよ、俺は……王族同士の、それも姉弟同士の近親相姦で生まれたんだ。
この顔を見たら誰だってそう思うだろうなあ、だって俺の顔はあまりにも陛下に似すぎているし、この目の赤は王族の色だ、赤は王族の血が濃ければ濃いほど濃くなると言われている色だ。
だからこの顔だけは誰にも見られるわけにはいかなかった。
それならなんで国を、王を守る騎士なんてやっているのかって?
なんでどこか遠く、俺の顔を見ても誰も何も思わないような遠い場所に逃げなかったのかって?
……ただのガキの我儘で、くだらない憧れだ。
母上はその時が来るまで俺を隠そうとした。
けど俺が勝手に騎士に憧れて、なりたがって…………もう仕方がないと母上が折れてくれただけ。
その時が来るまで、俺はこの顔を隠し通すつもりだった、その自信があった、絶対に大丈夫だと思っていた。
……ああ、そうか、そもそも騎士になんてならなきゃよかったんだ。
そうすれば、俺があいつに出会うことはなかっただろう。
そして、俺のせいであいつが死ぬことだってなかった。
そうだよレイフ、あいつは、お前の妹は俺のせいで死んだ。
牢の中の彼はそう言って、顔を両手で覆った。
「……全部俺のせいだ。俺のせいであいつは死んだ。死んでいい奴じゃなかった、生きるべきだった、生きていて欲しかった。誰よりも何よりも」
そこから先の彼の言葉をレイフは正確に聞き取ることができなかった、彼はその顔に爪を立て悲痛な声をあげ続ける。
それを見たレイフはこのままだとまた彼が狂気に落ちるとほぼ確信した。
まだ聞くべきことはたくさんあった、今彼を狂気に落とすわけにはいかないと、レイフは彼の名を呼んだ。
一度目に答えはなかった、それでもしつこいほどレイフは彼の名を呼び続けた。
何度目か数えるのも馬鹿らしくなった頃、彼は譫言が漏れ続ける口を閉ざして、ゆっくりと顔を上げた。
彼がまだ正気なのかどうかレイフにはわからなかった、それを確かめるためにもレイフは彼に言葉をかける。
「ビスクバイト、あんなことがあったんだ、お前がそうなってしまうのもわかる。……だが、おれはあいつの兄なんだ。兄らしいことなんてほとんどできなかったが、それでも……おれは知らなければならない、あいつがいなくなった後どこで何をしていたのか、そしてお前とあいつの間に何があって、どうしてああなってしまったのかを。だから聞かせてくれ」
彼はレイフの顔を見上げたまま、しばらく動かなかった。
レイフは静かに彼が再び口を開くのを待った。
「…………どこまで、話したんだったか」
彼の声には正気が残っていた。
まだ『彼』との対話は可能であるようだった、レイフはそのことにかなり驚いて、少し安堵した。
「!! ……あいつが、マンティコアごとお前の部屋に飛び込んできて、お前がマンティコアを倒して、あいつに顔を見られたところまでは聞いた」
「ああ、まだそこか。…………わかったよ、ちゃんと話す」
そうして、彼は再び話し始めた。
顔を見られた。
誰にも見られるなと言い聞かせられていたこの顔を、どこの誰かもわからない見ず知らずの赤の他人に。
見殺しにすればよかったと思ったのは少し後のことだったな、そういえば。
殺さなくてはとすぐに思わなかったのはある意味で救いだったと今は思う。
……いや、逆か。
口封じのために見ず知らずの女の子を、悪人でもなんでもないあんな弱い女を、簡単に切り捨てられるくらいの無情さがあれば多分こんなに苦しい思いをしなくて済んだ。
……何もかも中途半端、善人にも悪人にもなれなかった、どちらか一方に偏っていられたら、もう少し楽に生きられたんだろうな。
……とにかくこんな顔を見られたからには、相手が誰であれその口を封じる必要があった。
どうするのが一番いいのかはわからなかった、今だってわからない。
俺は頭が悪いからな、妙案なんてものは一つも思い浮かばなかった。
俺がマンティコアを殺した後、すぐに船員達がやってきた。
奴らはマンティコアの死骸と部屋の惨状を見て絶句していた。
あいつは船員達に子供達が無事であるのかどうかを真っ先に聞いた。
あの声を初めて聞いた時には驚いたよ、見た目はあんなに可愛い女の子なのに、なんだってあんなババアみたいな。
……まあ、それはどうでもいいか。
船員達は子供達は無事だと答えた、無事親元まで帰ってて、今は船に乗り合わせていた何人かの魔術師が守りを固めていると。
どうもあいつに逃がされた子供達はすぐに船員達に助けを求めていたらしい。
船員達は子供達の保護の後に、子供達の身代わりになったあいつの救援に来たらしかった。
子供達の無事を聞いてあいつは心底安堵したような、気の抜けた顔をしていた。
その話を聞いて、俺はようやく何が起こっていたのかをやっと把握できた。
この時点で何故船の中にマンティコアが現れて、何故子供達が襲われていたのかはまだ判明していなかったがな。
ただ、船の中に自然にマンティコアが現れるわけがないから、誰かが魔術かなんかで召喚した可能性が高い、とだけ。
……犯人が見つかったのはその日の真夜中だったらしい、犯人の捜索に俺らは関わっていなかったから、俺らがそれを知ったのは翌朝の話になる。
普通だったら俺は犯人の捜索か、子供達の守りに加わるべきだったんだろう。
国に仕える騎士であるのなら、国民、それも子供が狙われているような事件の解決のために協力するのは当然のこと、きっとお前だったら迷いなくそうしたんだろうな。
……けど、当時の俺にそんな余裕はなかった。
ここで自分を優先するような男に騎士である資格なんて、本当はなかったんだろうな。
それにもっと早く気付けていたら、何か変わったんだろうか。
…………そういうわけで俺は事情を把握した後、すぐに保身に走った。
マンティコアが部屋のドアをぶち破った時に部屋が滅茶苦茶になったからさ、それを理由に元々あいつの知り合いだったってことにして無理矢理あいつの部屋に押し入ったんだ。
……あいつ、色々おかしなことが起こってたせいで頭動いてなかったんだろうな、俺が嘘を並べ立てもよくわかってなさそうな顔でオロオロしてたし、一晩くらいいいだろう? ってほぼ脅しのつもりで手首掴んで力入れてもぼけーっとした顔で「はい」って。
……なあ、お前の妹ってなんであんなに抜けてるっていうかぼーっとしてるっていうか、馬鹿なんだろうな?
お前の妹みたいな女を魔性っていうんだろう。
間抜けで、愛らしくて、善良で、それなのに掴みどころがなくて、他人に甘くて、大抵のことを受け入れて笑う。
因果応報、なんだってさ。大抵の不幸はその一言で納得できる程度の悪事をやらかしてきたって、よく言ってた。
本当に気に食わない、あんなお人好しがやらかした悪事なんざたかがしれてるだろうに。
話戻すか。…………駄目だろう普通、見ず知らずの男を部屋にいれるなよ、抵抗しろよ馬鹿じゃねえの。
されるがままに流されやがって。
俺はあいつのああいうところが本当に気に食わない、気に食わなかったから……
いや、それは後で話す。
……まあ、そんな感じで俺は無理矢理あいつの部屋に押し入った。
何もしなかったよ、その時はな。
…………それは後で話す、罵倒はその時に受け入れる。
罵倒じゃすまねえな、多分。殺されても文句は言えない。
結構、酷いことをしたよ、お前の妹には。
……無理矢理部屋に押し入った後、すぐにあいつを問い詰めた。
俺の顔を見たな、と。
嘘を吐けばいいのに、あるいはその時点で『黙っているから見逃してくれ』とでも言えばいいのに、あいつは馬鹿正直に『はい、見ました』って。
何を考えてるのかわからない顔だった、それが少し不気味だった。
自分の国の王と同じ特徴の顔、この赤い目を見て、それでもあいつは特に狼狽えることもなく、なんかよくわかって……わかってなさそうな顔を……
…………いや、流石にそれはないか。悪い、一瞬お前の妹がすっげー馬鹿だったんじゃないかって思っちまって。
ない、ないはずだ、流石にそれは……
……とにかく、顔を見られたからには放っておくわけにはいかなかった。
言いふらされでもしたら困る、というか困るどころの話じゃない。
だから、ひとまず脅すことにした。
丸腰の女相手に剣を片手に。
殺すよりはマシだろうと結構酷めの言動で凄んでいたつもりだったんだが、今思い返してみるとあんまり効いていなかった気がする。
この顔のことを言いふらすなって、言いふらしたら全身切り刻んで殺してやる、とか、そういう感じのことを言ったよ。
殺すって言ってんのに、あいつはなんかよくわかってなさそうな顔で「わかりました、そこまでいうのなら言いふらしたりしません。そもそも言いふらすような知人もいません」って。
喉元に剣突きつけられていたくせに、怯えも怖がりもせず。
泣き叫ばれてもおかしくないようなことをしていたと思っていたからさ、それがすごい不気味だった。
……あそこであいつが泣きながら『絶対に言いません』とか言っていたら、多分俺はその時点であいつを解放できた。
けど、剣を首に突きつけられても平然としている女に、全身切り刻んで殺すという脅しが果たして効いているのだろうかと思った。
のっぺりとした顔で、あいつが俺の顔、兜を指差して「あの人、王様と同じ顔をしているんですよ」と言う姿が、やけに鮮明に頭に浮かんだ。
危険だと思った、放置したらいずれ破滅させられると。
だからしばらく、俺はあいつを自分の手が届くところに置いておくことにした。
そんな上っ面だけの言葉じゃ信用できないって無茶苦茶を言ってさ。
……思い返してみると、本当に無茶苦茶だったな、俺。
なのにあいつは抵抗しなかった、ただ困惑していただけだった。
その後も最後まで逃げようとはしていなかったし、何をしてもおとなしくついて来た。
……本当に、意味不明な女だったよ。思い返してみると俺も大概だったが、あいつの方がもっとおかしい。
なんで俺みたいな男から逃げようともせず、あんなふうに笑って……
……それで、その時になって初めて名前と、何者なのかを聞いた。
とはいっても名乗られたのは偽名だったし、本名はどれだけ問いただしてもだんまりを決め込まれた、それ以外は一年くらい旅人やってることと、使える魔法のことくらいしか。
あとあのババアみたいな声の理由もその時聞いたが、前職で色々あったとだけしか言わなかった。
身分証明になるものを無理矢理出させてはみたが、持っていたのはあの例のギルドの証明書だけだった、本名名義のものは全部故郷に置き去りにしていたらしい。
あの時は余程の訳ありか犯罪者かと思ったし、後々それが脅しの材料に使えると思ってたんだが……結局何もわからずじまいだった。
……あいつは俺のいうことを基本的におとなしく聞いていたけど、昔のこと、特に旅を始める前のことはほぼ口を割らなかった。
聞き出せたことなんて本当に少しだけ。
…………お前は多分、知っているんだろう。妹だもんな、当然だ。
けど、何も言わないでくれ。あいつが昔何やってたのかとか、どういうやつだったのかとか。
それは俺があいつから直接聞くべきことだった、他の奴の口からあいつの過去を聞く気はない、聞きたくもない。
だから黙っていてくれ。
……とまあ、こんな感じで無理矢理あいつを俺の竜退治の旅に同行させた。
あいつがただの旅行者で、仕事やら家族やらの問題があったのなら無理矢理連れ回すのは難しかったかもしれないが、世界中をフラフラ彷徨ってるだけの無職の旅人だったから。
そういうわけであいつは言われるがままに素直に俺について来た。
あいつは特に明確な目的もなく旅を続けていたらしい、旅を始めた頃は子供の頃に憧れた場所、行ってみたかった場所を巡っていたらしいが、俺と出会った頃には行きたかった場所も大方回り切っていて、次の次の目的地は決まっていなかったらしい。
だから逆に都合がいいかもしれません、って言ってたな、憎たらしいくらい呑気な顔で。
……ああ、思い出しただけで腹が立つ。
何であいつってああなんだ、後先考えずにされるがまま、こんな怪しげな男の言うことなんて素直に聞きやがって。
お前の妹は馬鹿だよ、多分世界一。
だから……殺された。
わかってたのにな、あいつが馬鹿で間抜けで弱っちいことくらい。
さっさと手放すか、ちゃんと守らなきゃならなかった。
何であんなお人好しが死んだ、俺のせいだよそうだよ全部俺のせいだ!!
…………悪い、少し取り乱した。
どこまで話したんだっけ? ああ、名前とある程度に素性知って、無理矢理あいつを連れ回そうってあたりだったか?
その後……その後は何があったんだったっけ……
朝になって、船員からガキどもを襲った犯人が捕まったって話と、その動機を聞かされて、後は……
その後は、その日は特に何もなかったな。
船が目的地に着いたのはその翌日だったから、その後は特に何も。
俺は部屋にいようと思ってたんだが、昼過ぎくらいにライが外で海見てたいとか言うから、仕方なく付き合って……
運が良ければイルカの群れだったかクジラだかが見られるらしいっつってたけど……たまに魚がはねてたくらいだった。
大したもんは見られなかった、何の面白みもない、ただ青い空と海が橙色に染まっていくのを見ていただけだった。
あの時がもし真夏だったり真冬だったりしたらあいつの腕を掴んで部屋に戻っていただろうけど、ちょうどいい気候だったからな。
だからそのままあいつに付き合って、ただぼーっと海を見ていた、何の生産性もない無駄な時間だったと今でも思う。
結局暗くなるまで海を眺めていた、放っておけばそのまま突っ立ってそうなあいつを引っ張って夕飯を食いにいって……
その後星を見にいってきますっつって片手上げて甲板に行こうとしていたあいつの頭を平手でたたいて、部屋に戻って寝た。
あいつ、その時だけは少し不満そうだったな、というかあの時になって初めてあいつの不満そうな顔を見た気がする。
……もっと早くにそういう顔をすべきタイミングなんていくらでもあっただろうに、あいつやっぱりなんかおかしいというかずれているというか。
お前も割とそういうところあるよな、いろいろ酷使されてる時にはおすまし顔しているくせに、なんかすっげーどうでもいいというか、しょうもない事でぶすくれる。
兄妹だからそういうところ似てんのか? ……そんなことない? いや、あるって。
まあ、そんな感で一日終わって、次の日の午前中には目的地だったヴェパル島に到着した。
海竜の巣には到着した港町から鉄道で向かうつもりだったんだが、ここでちょいと想定外の事が発生してな?
なんか前日にちょっとした事件があったらしく、そのせいで線路がぶっ壊れてた。
何があったのかはよくわかってなかったらしいんだが、なんか急に魔物が暴れまくったらしい。
で、結構ド派手にぶっ壊れたらしくて……直るのは三日後だって張り紙が駅前に。
なんでだよって思った、なんもかもうまくいかないなって。
……それで仕方なく、線路が直るまで宿とって港町に滞在することになった。
一人だったら徒歩で海竜の巣に向かうのもあり……いや、ないな。
強敵と戦う前にわざわざ体力使うのは愚策だ、どっちにしろあの時は待つ以外の選択肢なんてなかった。
一応長めに休みはとってあったしな、まあどうにかなるだろうとは思っていた。
とはいえ、何をして時間を潰そうか。
……その日はライがどうしても食いたいっていうから仕方なく蜂蜜のアイスを食いに行った。
よく知らんけどなんかうまくて有名な店のアイスだったらしい、あいつがヴェパル島行きの船に乗っていたのはそのアイスを食べる為だった、という話をその時になって今更のように聞いた。
あいつ、なんかやたらと蜂蜜に執着しているんだよな、前職が声に関わる仕事で蜂蜜は喉にいいから、って食べ続けていくうちになんか自分でも異常だと思うくらい好きになったって前言ってた。
蜂蜜やるとどれだけぶすくれてても大抵お目目きらきらさせて機嫌よくするし、あいつの土産の五割くらいは蜂蜜のなんかだしな。
蜂蜜以外だと基本食べ物なんだがたまに……なんか高そうなペーパーナイフとか、変な水晶玉とか、よくわからん変なのを持ってくる。
そういや、先月にこっちで蜂蜜フェアだかフェスティバルやってたの知っているか?
世界中のありとあらゆる蜂蜜やら、蜂蜜を使った菓子やら化粧品やらの店の物産展。
あいつ根無し草の旅人のくせに阿呆みたいに買い込みやがってさ、さあ帰ろうってなった時に滅茶苦茶途方に暮れてた、なんであいつはあんなに馬鹿なんだろうな。
蜂蜜と蜂蜜の菓子でぱんぱんになった袋をいくつも抱えてさ、こんなにいっぱいどうすれば……って。
……仕方ねえから俺んちで保管してやることになった、というかまだ残ってる。
どうすりゃいいんだよあんな馬鹿みたいな量の蜂蜜、俺だけじゃ一生かけてもあんな量の蜂蜜、どうにも……
……なんか話がそれちまったな、悪い。
というわけで、一日目はそんな感じでアイス食っただけだった。
二日目はやる事ねーし暇だし、身体訛りそうだなって思ったから、海沿いに出るっていう魔物の退治をやってた。
ライも無理矢理付き合わせた、とはいってもあいつはまともに戦えないから離れたところでまたせていただけだったけど。
それで、三日目。
……この時に、結構色々あってな。
あいつがさ、観光したいって言ったんだよ。
無理なら宿でおとなしくしてるって、しょぼくれた顔でさ。
……仕方ないから付き合ってやることにした。
それで、日中に遺跡やら浜辺やら、そのほかにもいろいろと。
あいつあんまり感情を顔に出す奴じゃないからその時はよくわかってなかったけど、今思い出してみると結構、楽しんでいたらしい。
時間は思いのほか早く過ぎていった。
それであっという間に夕方に、線路が直るのは翌々日になるって話だったから、明日も暇になりそうならどこかに行きましょうよ、とかあいつは呑気に言ってた。
……そんな会話をしている最中に人ごみに流されてあいつを見失った。
逃げられたら困ると思って慌てて探したんだが、なかなか見つからない。
……結局、俺があいつを見つけたのははぐれてから一時間後くらいだったと思う。
…………。
……悪い、ちゃんと話す。
俺があいつを見つけた時、あいつの顔には殴られたような跡があった。
服……一番上のボタンが外れてて、髪もなんか少し乱れていた。
何があったのか、すぐに聞いた。
……あいつは平然とした顔で、なんてことなさそうな顔でこう言ったんだよ。
『すみません、男の人達に路地裏に引きずり込まれてました』って。
……盗み目的だったのか、盗みと強姦の両方が目的だったのかはわからなかった、ってうっすら笑ってた。
何も盗られなかったし、殴られただけで済んだから特に問題ありませんって、片手間で治癒魔法使って顔治してた。
馬鹿みたいに阿呆みたいに呑気な顔で、本当に大したことなさそうな、腹の立つ顔で。
なにもされなかっただって? 路地裏に引きずり込まれたうえで殴られておいて何を言っている。
もっと怖がれよ、危機感持てよ、馬鹿じゃねえの、なんでそんなに呑気なんだよふざけんな。
……戦えないけど逃げ足だけは早いとか得意ぶるな、大抵は逃げ足と幻術だけでどうにかなるって、それでどうにかなっていたそれまでがただ運が良かっただけだ馬鹿。
…………俺はさ、許せなかったんだと思う。
酷い目にあいそうになっていたくせに、それでも呑気にしているあいつのことを。
それだけの話で終わっていたら説教だけで済んだと思う。
とりあえず、無事なのはよかったけどそれは横に置いといて俺は怒った。
襲われといて笑うな、何かあったらどうするつもりだったんだ、とかごちゃごちゃと。
けど、あいつはこう答えたんだ。
何事もなかったし、逃げきれたし、問題ないですって。
何かあったとしても、全部自業自得の因果応報ですから、って。
だから何かあったとしても全部仕方ないこととして受け入れますよ、って。
そう言って、笑ってた。
……堪忍袋の緒が切れる、っていうのはああいうのを言うんだろうな。
何が因果応報だ、何が自業自得だ。
そんなもので済ませていい話じゃない。それなのにあいつはどうでもよさそうに、本当にそうなっても別にいいみたいな言い方で、そんなことをほざいた。
……それが、どうしても許せなかった。
なんでだろうな、その時は分からなかった、自分が何であそこまでブチ切れていたのかその理由すらわかっていなかった、それでも怒りを納めるべきではないとだけは思った。
……とても今更な話をしようか。
その時点で俺とあいつが出会ってまだ五日くらいしかたっていなかった。
たったそれだけの短い時間で、どうも俺はあいつにどうしようもないくらい惚れていたらしい。
いつからだったのかは思い出してもよくわからん、最低でもこの時にはそうなっていた。
……女とまともにかかわったのなんざあいつが初めてだったからな、あいつがもう少し性格が悪くて、全然かわいくなければたぶんこうはならなかった。
けど、あいつ普通にかわいいからさ。
何を考えているのかよくわかんないぼーっとした奴だけど、笑うとかわいいし、笑わなくても普通にかわいい。
遺跡を見て目を真ん丸にして、波打ち際ですっころんで落ち込んで、アイス食って幸せそうな顔で笑ってさ。
だからだったんだろうな、もともと女ってやつに耐性がなかったから、簡単に惚れたんだろう。
……と、いう答えが出たのはずっと後になる、その時はただあいつの言動がどうしようもなく気にくわなくて、なんかもう何もかもが嫌で嫌で仕方なくなって。
…………先に謝る、謝って許されるようなことじゃないが、本当に申し訳ない。
……その時、俺はあいつの言動にあまりにも腹が立って仕方がなかったから……あいつの腕をつかんでそのまま宿まで戻って、そのままあいつを犯した。
……そうだよ、合意なんてない一方的な行為、強姦って言っていい。
因果応報、なんて二度と言えなくしてやると、ずいぶん手ひどく扱った。
自分の言動に心の底から後悔すればいいと思っていた、二度とあんな口がきけないように、本当にひどい目にあわせてやろうと思って、そうした。
犯すだけじゃなく普通に殴ったし、なんなら足の健でも切ってやろうとすら思った。
……見ず知らずの男に袋叩きにされそうに……犯されそうになっていたのに平然としていたあいつの事が許せなかった。
……ああ、今思うとあれは独占欲みたいなやつも混じっていたのか、どうしようもないだろう? 俺もそう思う。
顔を見られたからと理不尽なことを言って連れまわして、一方的にキレて、力づくで凌辱した。
随分と酷い男だ、もしこれが他人の話だったらただのクソ野郎だと思うし、普通に自分でも自分の事を糞だと思う。
……なあ、レイフ、お前の妹、その時どういう顔してたかわかるか?
…………ひでぇ顔、お前のそういう顔、初めて見たかも。
全部終わったその時に好きにしろ、あいつの身内になら何十何百回殺されても文句は言えねえから。
……何度も言うが、あいつには随分と酷いことをした。
人によっちゃあ死んだほうがましだとすら思うような、そういう事を。
けど、あいつはなんかよくわかってなさそうな顔で呆然としているだけだった。
泣けばいいと思った、俺の事を憎めばいいと思った。
それなのにあいつは……なんかこう……ポカーンとした顔で、されるがままに。
…………それが余計にむかついて、甚振る手が止まらなくなったというのはただの言い訳に過ぎない。
痛そうにはしていたがそれだけで、抵抗らしい抵抗もしないまま、ただされるがままに。
あいつは最後まで悲鳴すら上げなかった。
……相手が誰であってもきっとそうだったんだろうな。
だから、それが、余計に憎らしい。
……一晩中、っていうわけではなかった、外はまだ暗くて、明け方はまだ遠い。
けど、ずいぶんと長い間、遅くまで俺はあいつを甚振った。
その頃にはあいつの身体は血と痣まみれでボロボロになっていた。
……流石に刃物は使ってない、何発か殴って、爪を立てて、ちょっと首絞めて……噛んだ。
そこまでしてもぼーっとしてたんだよあいつ……言い訳がましいが、もっと前の段階であいつが悲鳴の一つでもあげてれば、たぶんあそこまでやらかすことは……
なんて、本当に言い訳がましいな。
全部終わった後、傷だらけのあいつの身体を抱きしめて寝た。
最後までされるがままだったあいつは逃げようともせず、不気味なくらいおとなしくしていた。
……朝になって、あいつの身体を見た時はさすがに罪悪感を感じた。
本当に酷かったからな、よく殺さずに済んだというか……
泣かれるか、罵倒されるか、そもそも会話すらままならないのか。
ぐったりと寝てるあいつの肩を揺さぶって起こした後、何を言われても仕方ないと思っていた。
……あいつ、開口一番なんていったと思う?
恨み言や罵倒だと思うだろう、普通は。
おはようございます、って。
掠れたちっさい声で、言ったんだ。
それでしばらくしてから、愕然とした顔で『身体が動きません』って。
どうすればいいんでしょうかって、聞かれた。
…………俺が全面的に悪いのは分かっている、十分すぎるほどわかっている、殺されても全く文句は言えない。
……そのうえで言うけど、お前の妹、なんなの?
自分を強姦した相手になんであいつは……あんな気の抜けた……
……常識がないのか、昔何かあって心に問題があるのか。
それともああいう目に何度かあっていて……と思って問い詰めてみたことはあるが、俺に犯される前にそういう事はなかった、とは言っていた。
本当かどうかはわからないがな。
なんでだろうな……結構ひどいことやったのに…………あいつはなんか……こっちを責めたりせず、なんか気まずそうにしていた。
こっちの事を怖がるでもなく、怒るでもなく、憎むでもなく。
…………いや、本当に酷い事をしたと思う、犯したし殴ったし首絞めたし噛んだし。
それなのに、なんか微妙な反応しか返ってこなかった。
本当だ、嘘じゃない、いっそ嘘だったほうがまだ……まだ、理解できる。
……それか、あの時のあれであいつの心が完全に壊れちまったのかもしれない。
……ああ、それならその後の事に全部納得がいく気がする。
誰が、誰があんなひどい真似をした男相手に、あんなふうに笑って……
……本当はどうだったのかはもうわからない。
もっと早くに、というか最初から向き合うべきだった。
ライ、俺はお前の事なんもわかんねえよ。
なんで俺みたいな男から離れようとしなかった、逃げようと思えば逃げる隙はいくらでもあったはずだろう。
逃げてくれればよかった、こんな屑みたいな男の事なんて、憎むか怖がるかして、さっさといなくなればよかったんだ。
牢の中の彼の話を聞いて、レイフの中に浮かんできたのは怒りと、それを上回るほどの大きな困惑だった。
彼はレイフの妹を強姦したという、それもかなり惨い方法で。
それに対してはただ怒りしかない、たとえ彼が犯したという女がレイフの妹でなかったとしても、レイフは同僚である彼が一人の女性に対して行った蛮行を許そうとは思わなかっただろう。
レイフは、そしてその同僚である彼は王に、そしてこの国に仕える騎士である。
国を、そして弱き民を守るために存在する騎士が、か弱い女性に無体を働くなど許されるべきではない。
もし彼がこの牢から解き放たれる時が来るのなら最低十発……いや、百発は殴るとレイフは心に決めた。
と、その程度の怒りはあるものの、やはりそれを上回るほどの困惑がレイフの怒りを鈍らせる。
レイフはもう一度あの時見た女の姿を思い出した。
その姿は確かに妹のものだった、アレは間違いなく自分のたった一人の妹だった。
しかし、その妹、ライと呼ばれていたらしい女の言動が、レイフの知る妹のそれとかなり、というかほとんど違う。
まず、彼とレイフの妹が出会ったきっかけそのものがおかしい、レイフの妹は別に悪人というわけではないがすすんで人助けなんかしない無情で非情な少女だった。
目の前で落とし物をした人がいたとしても、声をかけるかどうかすら怪しい。
そんなレイフの妹が魔物に追われていた子供を助けようとしただって? それも相手はマンティコア、無力なレイフの妹であるのなら、そんなことは絶対にしない。
死ぬかもしれない相手に突っかかるほど頭が悪くもなければ善良でもなかった。
基本的に自分、というか歌える自分が第一だったので、レイフの妹は自分以外の事を大体おざなりにしていた。
レイフが妹と再会してから過ごした時間はほんのわずかだが、その期間、レイフはあの妹が人の為に何かをしているところを見たことがない、しようとしているところすら見たことがない。
レイフの妹はとにかく自分勝手で自己中で我儘だった、自分さえよければそれでいい、という自己中のお手本みたいなどうしようもない女の子がレイフの妹だった。
それなのに、彼の記憶の中のレイフの妹は、子供を助けるために魔物の注意を引き付けたらしい。
あの苛烈極まりない美しい声を失ったことで改心したのだろうかとレイフは思ったが、その程度であの妹が改心するわけないだろうとも思った。
その後のレイフの妹の言動も、レイフからすると突っこみどころ満載であった。
レイフの妹はぼんやりしていない、ぼーっとなんてしない、そんな隙があったらずっと歌っている、自分の理想の歌声を響かせるためにただひたすら研鑽を積んでいる。
世界一の歌姫アイリス、その歌声を超える事だけがレイフの妹の望みで、アレはただそれだけの為に生きていた。
ぼーっとする暇なんてない、歌以外の事に使う時間なんてない、私に余計な時間と手間をかけさせる屑共は全員まとめて海の底にでも沈んでしまえ。
再会した頃は自分の妹のあんまりな言動にレイフはよく胃を痛めていた、どうして自分の妹はここまで救いようのない我儘に育ってしまったのだろうか、と。
それでも、レイフの妹が歌に掛けていた情熱と執念は本物だったので、レイフもそこまで厳しく言う事は出来なかったのだが。
あの声を失って腑抜けたのか、何か心変わりがあったのか。
それでもレイフは自分の妹がぼーっとしている様子を思い浮かべる事が出来なかった、記憶の中のレイフの妹はいつだってせわしない。
その後の、レイフの妹が基本的に牢の中の彼の言いなり、というか彼の言動に流されっぱなしだったというのも、とても信じがたい。
あの我儘と好き勝手の擬人化みたいなレイフの妹が誰かの言う事を素直に聞いている様子を、レイフは全く想像できない。
それと、なんかやたらと馬鹿だの間抜けだの言われているが、レイフの妹はそこまで頭が悪くない。
それと、アレは基本的に自分第一なので危機管理能力は高いほうだった、疑わなくてもいいような存在すら疑うような慎重さを、レイフが知っている妹は確かに持っていた。
そんなレイフの妹がいくら力の差が天と地ほどもあるとは言え、そう簡単に強姦などされるだろうか。
とはいえ力の差があったので仕方がないといえば仕方がない話だったのかもしれない。
それでも、されるがままに穢されるようなおとなしさのある女では絶対になかったとレイフは思った。
絶対に相手に罵声を浴びせるだろうし、怨嗟の言葉を叫ぶだろう、なんなら隙を見て相手を殺しにかかるかもしれない。
ほかにもいろいろと突っ込みどころがある、逆に突っこみどころがないところを上げていったほうが早いかもしれないとレイフは思った。
レイフが牢の中の彼が語ったレイフの妹に関する話でほぼ唯一心の底から納得できたのは蜂蜜関係の話だけだった、レイフの妹は確かに、蜂蜜がものすごく好きだった。
誕生日に騎士のお給料ってお高いんでしょうと超高級蜂蜜をせがまれたこともある。考えなしに蜂蜜を買いまくって途方に暮れている妹の姿だけは、レイフにもなんとなく想像がついた。
あの時最後に見た妹らしき女の姿をレイフはもう一度思い浮かべて、やっぱりアレは自分の妹以外の何者でもなかったと小さく首を傾げる。
アレは確かにレイフの妹だった、それなのに、その妹として牢の中の彼が語る女は、妹とかなりかけ離れている。
これは一体どう言うことなのか、レイフは一人考え込みそうになったがその直前に牢の中の彼の声が、そんな彼の心を引き留めた。
……結局、その日はあいつが全く動けそうになかったから、宿でおとなしくしてることにした。
あいつはベッドの中で痛みに震えながら、動けない、動けないって、ボソボソ言ってた。
治癒魔法もかけてたらしいんだけど疲労のせいであんまり上手くかかってなかったっぽかった。
……それなのにあいつさ、大丈夫だって言うんだよ、一日でどうにかしますって。
言われた時は意味わかんなかった。何言ってんだって思った。
それで話を聞いてみると、線路が直る明日までには動けるようにします、って。
どうかしてるよ、あいつは本当に頭がおかしい。
一体何が大丈夫だって言うんだ。
本当にわけのわからない女。
あんまりにもわけがわからなすぎて、しばらく何も喋れなかった。
それで結局昼過ぎぐらいになるまで、特に会話とかもせず。
なんか時計チラチラ見てるから腹でも減ったのかと思ったら、私のことはほっといていいのでお昼ご飯食べてきてくださいって、ぼそっと。
仕方ないから食い物買いに少しだけ外に出た。
何なら食えそうか聞きそびれたからあいつには柔らかそうなパンとスープと、あとそこまで遠くなかったから蜂蜜のアイスも。
宿に帰って渡してみたら、なんか異様に喜ばれた。
目がキラキラに輝いていた、あと動けないって言ってたのにアイス見せたら急にガバッと起き上がった。
気合いと根性と愛の力、とか言ってたな、何なんだろうなあいつは。
で、胃の中に食い物入れたら多少体力が回復したらしく、治癒魔法掛け直したらなんか動けるようになったってはしゃいでた。
……礼を、言われたよ。
礼を言われるようなことなんて何一つしちゃいないのにな。
一応、その時に理由は聞いたよ。
何で自分にあんなことをした男に礼なんて言えるのかって、何で笑っていられるのかって。
……答えては、もらえなかったがな。
というか、あいつもなんかよくわかってなかったらしい。
結構酷いことをされた自覚はあったらしいが、別に怒ってもないし怖くもないって。
……やっぱり、あいつはおかしいよ、改めて思い返してみると余計にそう思う。
動けるようになったって言ってもまだ本調子ではなさそうだったから、その日はずっとおとなしくさせていた。
もう大丈夫、とか言ってたけど、絶対大丈夫じゃないだろう。
だからその後は特に何もせずに過ごして、夜になったら普通に寝た。
流石に手は出さなかった。
……昨日あんな目にあったのに、呑気にすやすや寝始めたあいつの頬を思いっきりつねってやりたくはなったがそれだけだ。
あんな状況じゃ普通寝れないだろうに。
朝になって、その日はどうするか少し悩んだ。
あいつは『一晩ぐっすり寝たので大丈夫です』とかなんとか言ってはいたが、あまり信用はできない。
もう一日二日は休ませた方がいいと思ったんだ。
あいつ、治癒魔法結構うまいからさ、身体の傷はもうほとんど消えてた。
けど、いくら見た目が大丈夫そうでも、中もそうだとは限らない。
……けど、結局大丈夫ですからってゴリ押しされて、出発することになった。
線路はすっかり元通りに直っていた、人混みの中で逸れないようにあいつの手を掴んだまま、俺は列車に乗った。
座席に座って、あいつは外をぼんやりと眺めていた。
時々その目が輝くから何か面白い物でも見えたのかと思ってその度に窓の外を見てみたが、あんまり大したものは見えなかった。
海とか小さい山とか、変な形の岩とか、そういうどうでもいいやつばっかり。
楽しそうだなって言ったら、旅なんて楽しめるだけ楽しまなきゃ損でしょう、って。
……あいつは多分、ずっとああいう感じで旅を続けていたんだろうな。
きっと、俺の何十、何百倍も美しいものを見てきたんだろう。
何かを素直に美しいと思って、単純に笑う。
そういうあいつの人生を、俺が台無しにしたんだろう。
……俺がやらずとも、いずれ誰かがそうしていた気はするがな。
あんな可愛くて綺麗な女、誰だって欲しがるに決まっている。
ああいう楽しそうな奴の人生をぶち壊すことに暗い喜びを感じるような外道だって、この世界には腐るほどいる。
……っていうのはただの言い訳か。
けど、どれだけ非難されようと、どれだけ罵倒されようと、他の誰かがそうする前に俺がそうできたのは、それでよかったと思ってた。
他の誰かに壊されるくらいだったら俺が壊す、あいつを傷付けるのも痛めつけるのも振り回すのも俺だけでいい、他の誰にも触れられてたまるか。
執着と、独占欲と、それと性欲。こういうのを恋だ愛だというのなら、随分と穢らわしい。
穢らわしいのは俺だけか、他の奴だったら、もっとまともな奴だったら、あいつのことを傷付けないように、ただ守ろうとしただろうし。
……お前みたいに、まともで、誠実で、真面目な奴だったら。
結局俺は最後までそうはなれなかった、ガキの頃はお前みたいな理想の騎士になりたかったはずだったのにな。
…………しばらくして、列車は目的地に到着した、昼過ぎくらいだったと思う。
駅から少し歩いたら、海竜の巣になったという離小島が見えた。
そこには百五十年くらい前までは別の……人間に友好的で温厚な竜が住んでいたらしい。
そういう伝説があったから、その竜が死んだ後、離小島そのものが祀られて、十数年前から観光地みたいな扱いになっていた、って、あいつが言ってた気がする。
けど、最近になって乱暴で荒々しい別の竜があの離小島に渡ってきて住み着いちまった、その竜が俺の旅の目的である海竜だった。
……あいつのことはどうするのが正解だったんだろうな、巻き込まれたら危ないだろうからと駅で待たせようかとは思ったんだが、あんな可愛くて間抜けな女を放置しといたら絶対良くない輩に絡まれるだろう、とも思って。
それなら目の届く場所に置いておいた方がまだマシだろうと判断した、何かあっても自分なら守り切れるだって驕って。
……結局、それがよかったのか悪かったのかは正直今でもわからない、確実に正解ではなかったことだけはわかってる。
離小島を見たあいつは呑気な顔で「あれがあの伝説の竜が住んでいたというか離小島ですか、知ってますか」ってあの島に関する蘊蓄っていうか雑学を披露し始めた。
離小島を見に来るかどうかはヴェパル島に来るまでは決めてなかったらしいんだが、事前に調べてたらしい。
話に適当に相槌打ちつつどうやって離小島まで行こうか考えた。
海竜が出るまでは近隣の村の船乗りに頼めば船で運んでもらえたって話だったが、海竜が住み着いた後は危険だからっていう理由でそれも難しいって話だった。
で、どうしたものかと思って離小島を睨んでたら、島の方から咆哮が聞こえてきた。
……そういやあいつ、あの時の海竜のことを後々になって「なんか思ってたよりもしょぼかったです」とか言ってたな。
そんなにしょぼくはなかった気がするんだが、なんであいつはあんな感想を……
んー……去年首都の西の方に結構でかい飛竜が出ただろう? 俺とお前で倒した奴。
あのくらい。
うん、あのくらいだった。
……さあな、一般人の想像だと竜ってやつはもっとものすごく恐ろしいものってことなのかもしれない。想像が現実を超えてることなんざよくあることだろうし。
……それで、咆哮が聞こえてきたと思ったら離小島から何かが飛び上がって、真っ直ぐこちらに向かってきた。
何かっていうか、海竜だったんだけどさ。
俺の気配というか敵意を感じ取ったらしい。
海竜は明確な敵意と殺意をこちらにぶつけてきた。
……普通の奴だったら多分あの時点でビビり散らしてたんだろうが、あいつは……なんか平然としてた。
お前の妹だからなんだろうか。
けどあれ度胸があるというよりも単純に鈍いってだけな気も……鈍いのはお前もか。
……思い出してみると、やっぱりちょいちょい似てるよ、お前とお前の妹。
そういうわけで船の心配もせずに獲物が向こうからやってきてくれたので、運がいいと思いつつ容赦なく海竜をぶっ殺そうとした。
そしたらあのクソ竜、俺の顔を見るなり穢らわしいって。
穢らわしい、穢らわしい、なんだその悍ましい血の気配は、とかなんとか。
……多分、というか絶対、俺に流れる濃すぎる王族の血のことだったんだろう。
竜というものはそういう気配を察知するのに長けると聞いたことがあるし、竜という生き物は基本的に近親相姦を忌み嫌う。
だから俺は人生で一度も竜という生き物に懐かれた記憶がない、基本的に穢い物を見る目で睨まれる。
お前は結構好かれるよな、別に羨ましくもなんともないが。
……というわけで互いに死ねって感じの空気になった。
巻き込んだらやばいからライに少し離れてろって言った、怪我させる気は一切なかったが、攻撃の余波をくらって吹っ飛ぶとかはありそうだったから。
そしたらそこで初めて海竜はあいつの存在に気付いたらしく、あいつに視線をやった。
……そしたらあのクソ竜は急に動きを止めた、羽ばたくのすら止めてたから海に落ちそうになってた、すごく格好悪かった。
ライがなんかしたのかと思ったけど、ライは慌てた顔で「何もしてないです」って首振るし。
よくわからないけどあっちから隙を見せたなら、って思って斬りかかろうとしたら、あのクソ竜が美しいって。
こんな愛らしくて美しい乙女は見たことがないって、ライに。
……こう言うのはとても不愉快で、思い出すだけで腹が立つが、アレは多分、一目惚れした奴の顔だった。
美しい乙女とかなんとか言われたライは挙動不審になっていた、「何もやってないんです信じてください、あと幻術かけるとしても私のは魅了系じゃなくてホラー系です」とかなんとか言ってた。
……ホラー系らしいんだよな、俺は一度もかけられたことないし、思い返してみるとあいつが幻術をかけてるところも見たことがないから、具体的にどういうのなのかは知らないんだが。
まあそれはどうでもいいか。
というわけで、海竜に目をつけられたライは混乱しながら俺の後ろの方に下がろうとした。
そしたら海竜がクソでかい声で「おお、麗しの乙女よ、其方の名を聞かせておくれ」って。
びっくりしたんだろうな、ちょうど後ろに下がろうとしてたライは足をもつれさせて転んだ。
手を伸ばそうとしたら海竜がクソでっかい声で、触れるな穢らわしい、って怒鳴った。
あんまりにもうるさかったから動きを止めちまった。
……声だけはとにかくでかい竜だった、それ以外は大したことなかったんだが。
ライは涙目になってた、転んだ痛みよりも爆音に耐えきれないって感じの顔をしていた。
だから、さっさとあのクソ竜の首でも落として黙らせようって思いつつ、ライの腕を掴んで立たせようとした。
そしたらクソ竜が、さわるな、ってとてつもない音量で叫びやがって。
後々聞いた話、その叫び声はヴェパル島の端から端まで響いていたらしい、どういう喉をしていたんだあのクソ竜は。
……当時俺はそこそこ鍛えていたし、そこそこ強いつもりだった。
あの母上の息子であるにもかかわらず俺には魔法を扱う才能がなかったが、魔法に対する耐性は母以上だと言われたこともある。
……けど、純粋な爆音への耐性はなかった。
あんまりな爆音に一瞬気が遠くなった、目の前が真っ暗になる、っていうのをまさか音だけで体験するハメになるとは思わなかったよ。
それでもすぐに気が付いたんだが、もう、遅かった。
爆音のせいで俺と同様に気絶していたライの身体をあのクソ竜がなんの気遣いもせず鷲掴みにして、そのまま離小島に飛んでいった。
…………ああ、本当に腹が立つ。
自分の不甲斐なさと力不足に、あの時のあれがあったから絶対に守り抜こうと決めていたのに。
その後は結構慌ててあのクソ竜行方を追った。
近くの村の船持ってる奴のところにほとんど殴り込むような形で押しかけて、脅迫して無理矢理船を出させた。
……結構な年寄りだったのに悪いことをしたとは思う、けどあの時はもうああするしかなかった。
それで、どうにかして離小島まで辿り着いたら、海竜がなんか滅茶苦茶暴れてた。
血の気が引いたよ、何があったかはわからなかったが、間に合わなかったかと思った。
……けど、ライはどうにか生きていてくれた。
俺が島についた直後に何か飛び出してきた、と思ったらそれがライだった。
どうもなんかうまいこと海竜から逃げ回ってたらしい、怪我をしている様子はなかった。
一方、海竜はなんでか完全に正気を失っているようだった。
竜には人語を話せる程度に賢い個体がいる、あのクソ竜も一応その部類だった。
けど、俺が離小島に着いた時にはあのクソ竜からその理性が完全に失われていたようだった。
ただ手当たり次第に、何か恐ろしいものを振り払うように無茶苦茶に暴れまくっていた。
何があった、ってライに聞いたら、あいつはこう答えた。
幻術が綺麗に決まりすぎました、って。
こんなバカみたいに効くと思ってなかったんです、って、言い訳がましく。
…………さあな。後で聞いてみたんだが、なんか曖昧に誤魔化されたんだよ。
とりあえず怖がらせてみたらしい、とだけ。
……竜を恐れさせるような幻術って、なんだったんだろうな。
あいつの幻術がやばかったのか、それともあのクソ竜がただ単純に幻術というものにものすごく弱かったのか。
……その後は、割とあっさりと勝敗が着いた。
クソ竜は完全に正気を失っていた、暴れまくっているのは厄介といえば厄介だったが……隙もでかかった。
竜の首は容易く切れた、もう少し苦労すると思っていたのに、気味が悪いくらいあっさりと。
……まあ、そんなわけで、なんというかあんまり格好がつかない形で俺の海竜退治は終わった。
竜の首を切り落とした後、ライの無事を改めて確かめた。
怪我らしき怪我もなかったし、何もされていないようだった。
酷い目に合わせて悪かった、って謝ったら、あいつはちょっと耳おかしくなりかけた以外は大丈夫ですって。
……全然大丈夫じゃないだろう。
離小島に連れ去られた後何があったのかその時に聞いた。
……とはいえ、あいつも何があったのかはよく把握していないようだった。
気が付いたら海竜の巣に連れ込まれていて、これは良くない、と思って即座に海竜に幻術をかけたらしい。
それでいい感じに海竜を惑わせて逃げようとしたら、その幻術が効きすぎたせいで海竜が大暴走、全力で逃げ回っているうちに俺が追いついた、っていう感じらしかった。
助けに来てくれてありがとうございますとか言われたよ。
あいつがあのクソ竜に攫われたのは、ほとんど俺のせいだったのに。
礼を言われる筋合いはないって言ったら、あいつはなんか変な顔をしていた。
その後は……海竜が退治されたってことで近くの村の連中がお祭り騒ぎになってたり、海竜の死骸をどうするかって面倒な話をされそうになったり……
なんかもう面倒臭かったし、俺の目的は海竜を倒すだけでそれ以外に用はなかったから……そういう面倒ごとは全部その村の連中に押し付けて、帰った。
倒した証として逆鱗だけは取っておいたが、それ以外は全部。
なんか宴とかやるから参加してくれって言われたけど、そういう気分じゃなかったし、あいつを休ませたかったから。
あいつ、治癒魔法でなんとかしたらしいが耳に深刻なダメージ負ってた上に離小島中を走って逃げ回ってたらしくて、滅茶苦茶疲れてるようだったから。
帰りの列車でも座席に座って一分くらいで寝落ちてた。
結局列車が元々いた港町に着いたのが結構遅い時間だった。
ライはずっと寝てた、駅に着いても起きなかったし、起こすのも悪いと思ったから抱きかかえて宿まで運んで、布団に寝かせた。
朝には目を覚ましていたが、気が付いたら宿の布団で寝てたから驚いたらしい、あと手間かけさせてしまって申し訳ないって謝られた。
……とりあえず、一晩寝たら体力回復したらしいというあいつの言い分を信じて、俺はこっちに戻ることにした。
ライをどうするかは……一応、考えてはいた。
顔を見られたからにはその口を塞いでおく必要がある、海竜退治が終わったところでそれは同じ。
……だから、ずっと手元に置いておこうと思った。
ぼーっとしていて危なっかしい、いつ死んでもおかしくないような女だったけど、俺が手綱を握っていればそこまで危険な目に遭うこともないだろう。
死んでほしくなかったし、誰にも傷付けられたくなかった、誰にも俺の秘密をバラさせるわけにはいかなかったし、手放したくなかった。
だからまあ、その、なんだ。
……まあそういうことにしようとしたんだよ、随分と身勝手な話ではあったがな。
嫌がられたとしても無理矢理そうするつもりだった。
首都に戻る、って言ったらあいつは少し嫌そうな顔をした。
うっかり会ったら面倒な事になる知り合いがいるとか言ってた、その知り合いがどういう奴なのかは聞きそびれたが。
けど、嫌そうな顔をしつつおとなしく着いてきたよ。
帰りの船では基本的に部屋の中に閉じこもっていた、あいつはまた外で海を見たがっていたが、今度は出さなかった。
夜には呑気に寝てるあいつの顔を見ながら、母上をどう説得……というかどう言いくるめようかと考えていた。
妙案なんてものは一つも思い浮かばなかったから、もう騎士になった時と同じようにゴリ押しするしかないかもしれないと最終的に結論付けた。
行きと同じ時間をかけて船は首都の港に着いた。
特になんの事件も起こらなかった、というか行きの船がおかしかっただけ。
港からの帰り道も特になんの問題も起こらず、無事に家まで辿り着いた。
大量に溜まっていた新聞をポストから取って、適当にテーブルの上にでも放っておこうとした時にちょうどその見出しが目に映った。
ゴーシェ第一王子暗殺未遂事件。
犯人の名はモルガナイト、国王ヘリオドールの実の姉にして、俺の母親。
暗殺に失敗した魔女は追っ手を掻い潜り、おそらく国外に逃亡した、と。
……どうしてそんなことをしたのかは今でもわからない、一度だけその理由を聞いた事があるが母上は何も答えてくれなかった。
あの見出しを見た瞬間に一気に血の気が引いた、吐き気と寒気、殴られたように頭が痛んだ。
……当時、というか今回の事件が起こるまで、俺と母上は基本的に赤の他人という事になっていた。
その方が母上にとって都合が良かったから、そういう事になっていた。
書類上も俺は天涯孤独の孤児という事になっているし。
だから幸い、母上が殿下の暗殺未遂事件を起こしても俺が何か咎められることはなかった。
……それでも、いずれこの親子関係が露見したら追求は避けられない。
王族の暗殺未遂犯の身内がどんな目に遭うのか、想像に難くない。
陛下は慈悲深い御方だ、確かに暗殺未遂犯の身内というだけで容赦なく処刑するような非道な御方ではないことはわかってる。
……俺がただ母上の息子で、あの御方の甥っていうだけだったら、ギリギリそう信じられただろうな。
俺は別に良かったんだ、母上がその身を滅ぼすというのならその道連れになっても別に良かった。
けど、あいつは、ライは駄目だ。
あんな弱くて善良な女を、王族の暗殺未遂だのなんだの、血生臭い事件の巻き添えにするわけにはいかない。
魔女の身内と関わりがあったという理由だけで、あの女が碌でもない目にあうのは……
だから、新聞を見てすぐ、あいつを家から叩き出した。
俺の顔のことは絶対に口外するなと、口外したらどこにいようと無惨に殺してやるって、散々脅してから。
いつのまにか大雨が降り始めていたが、それでも容赦なく。
あいつは何もかもわかってなさそうな顔をしていた。
……結構、酷いよな、自分でもそう思う。
だが、他にどうすればいいのか思いつかなかった。
追い出した後にあいつがどうなるのか、何をするのかは考えたくなかったし、考えないようにしていた。
俺の知らないところで無事に生きていてくれればいいとは、一応思っていた。
けど、あの間抜けな女のことだからまた俺みたいな厄介者に捕まっているかもしれない、何か悍ましい目にあっているかもしれない。
特に何事もなく普通にそれまで通り楽しく旅を続けているのかもしれない、けれどもそれだって気に食わない。
それからずーっと寝ても覚めても仕事の途中もあいつのことばかり考えてた、よく気が狂わなかったものだと自分でも思う。
結構様子おかしかったからお前も含めいろんなやつに心配されてたっけな、当時の俺。
……ああ、母上? 結局しばらく音沙汰なくて……あの事件から二年くらい経った頃に突然家に来て、そこでようやく少しだけ話できた、って感じだった。
……本当だったら当時の俺は母上の心配をすべきだったんだろうな、わかっちゃいたが結局あいつのことばかり考えてた。
あいつに会いたかった、手放したことを後悔した、他にやりようがないのか死ぬほど考えて、それでもいい考えなんて一つも思い浮かばなくて。
二週間くらい経った頃だったと思う。
あいつが、俺んちの前で彷徨いていた。
家の前を行ったり来たり、ドアの前で呼び鈴を鳴らそうと腕を上げたと思ったら下げて、家の前を右往左往して、またドアの前で立ち止まって。
完全に不審者だった、そのうち確実に通報されるだろうという怪しさしかなかった。
……あいつの背を見ながらどうしたものかと思い悩んだ、声をかけるにしろかけないにしろ、家に入るにはあいつの前に姿を現す必要がある。
しばらく悩んで、何やってるって声かけた。
あいつは大仰に飛び跳ねてこちらを振り返った。
とても気まずそうな顔をされた、少し泣きそうな顔でもあった。
あいつは何も言わなかった、というか言葉が出てこなかったんだと思う。
何しに来た、って聞いたら、あいつは右手に持ってた紙袋を掲げて、お土産、って。
イポスの方に行ってたからって、蜂蜜の焼き菓子を。
どういうつもりだって聞いたら、近くまで来たので、って。
なんで来たってきいたら、顔が見たかったからって。
……迷惑ならもう二度と姿を現さないって言われた、首都に足を踏み入れることもないし、なんなら国から出て行くって。
そう言われて、そうしろと言えるほど俺の意思は強くなかった。
ずっと会いたかった、ずっとずっと手放したことを後悔していた。
だから、何も言わずに家ん中引き摺り込んで、そのまま。
……結局その後は、宙ぶらりんな関係が続いた。
あいつは気まぐれに旅に出る、俺はそれを止めない。
旅の途中に羽を休めるようにあいつは俺の家を訪れた、その度に抱いたり抱かなかったりして、数日経ったらあいつはまたどこかに旅に出る。
そんなよくわからない、不誠実で宙ぶらりんの関係がいつの間にか三年も続いていた。
互いに多くは語らなかった。
本当に時々、旅での出来事や昔のことを聞いたこともあったが、本当に少しだけ。
だから結局、あいつがどういう奴なのかは今でも良くわかってない。
なんかもうそれでいいか、って思ってた、互いに余計で真面目な話をせずにただそばにいるのは、結構心地よかったから。
偶然休みが重なってあいつの旅について行くこともあったが、それだって片手で数えられる程度のもの。
旅立つあいつを見送るのも、あいつがどこで何やってるのかわからない時も辛くはあったが……けど、結局そういう関係を続けた。
それ以上の関係になることも、関係を断ち切ることもできず、半端なまま。
あのまま母上の行方がわからないままだったら、どうなってたんだろうか。
あいつと半端な関係を続けて二年経った頃。
母のこと、この身体に流れる血のことは当然全く考えなかったわけじゃない。
それでも、もういいかと思いかけていた。
大事件を起こした挙句連絡一つよこさない親のことなんて忘れて、自分の思うように生きてもいいか、と。
この顔が露見すれば俺の血族に関する追求は避けられないだろう、魔女の息子というだけで首を落とされる可能性だって消えてない。
けど、このまま母が現れず、この顔を知る人間が自分自身とあいつだけになるのなら、それならどうにかなるんじゃないかって。
……けど、そううまくことは運ばなかった。
あの事件から二年後、唐突に母が家にやってきた。
幸い、その時ライはいなかったから、その時は……
いや、勘付かれていたのかもしれない、何も指摘されなかったから、バレずに済んだと思っていたけれど。
母上は相変わらずの様子だった、何一つ変わっていなかった。
母はそのうち事を起こすと言った、今はその準備をしている最中だと。
母上は、この国を欲していた。
弟に王位を奪われても諦めず、自分では相応しくないのならと自分の胎から自分よりも王の血の濃い子を産んで、その子を王にしようとしていた。
……ガキの頃はさ、母上のいう通りにしてもいいって思ってた、というかそうするのが当然だと。
当時も今も、もうそういうふうには思えなかったが。
だから、その時に完全に裏切っちまえばよかったんだ。
恩も何もかも忘れて、第一王子を暗殺しようとした大罪人として母を捕らえて、城に突き出せばよかった。
それで俺の両親のことが露見するのは避けられなかっただろうが、それでも、もしもそうしていれば……
少なくとも、あいつが死ぬことはなかった。
……けど、駄目だった、裏切れなかった、そんなことできるわけなかった。
その後、母は度々俺の家にやってくるようになった。
どうやって追っ手を巻いていたのか、どうして国の連中に気付かれていないのかはわからなかった。
けど、母はとても優秀な魔女だったから、何かうまくやっていたんだろう、と。
母が家に訪れるようになった後も、ライはちょいちょい俺の家に帰ってきた。
母上に勘付かれたらどうしようかと思ったし、しばらく来るなと言おうと何度も思ったが……あれ以上あいつに触れられなくなるのは耐え難くて、結局そのまま。
母の準備とやらは難航しているらしいが、その準備が終わった時に自分はどうすべきなのか。
母の望み通りにするのか、逆らうのか。
迷って、悩んでいる間に一年経った。
それで。
そこまで語った彼はその赤い目を片手で覆って、俯いた。
そこから先の話はレイフにも予想が着いた。
「それで……どうしてああなったのか、聞いてもいいか?」
口を閉ざした彼にレイフは問いかける。
おおよその経緯はわかったが、彼がこの牢に押し込まれる原因となったあの殺人事件の概要は、まだ聞き出せていない。
けれどもおそらくそろそろ限界だろうともレイフは思っていた。
『彼女』の死に関することは彼の中でとても大きな傷になっている、そしてその傷のせいで彼は狂ってしまった。
きっと、次の瞬間には正気を失っているだろう。
「……母上に、あいつのことがバレた」
正気の声で彼はそう言った、レイフは思わず彼の顔を凝視する。
「……いや、多分違うな、きっととっくにバレてはいた。……ただ、あのあたりに母は確信したんだろう、あいつが、ライが自分の計画の邪魔になると」
「……それで」
「あの日、俺は母上からあの廃城に呼び出された。嫌な予感もしたから慌てて向かったら……あいつが母上に魔法で拘束されていた……それで」
また彼の言葉が止まる、荒い息を繰り返し、その顔は大きく歪んでいた。
限界か、とレイフは思った。
しかし、彼はその先の言葉を口にした。
「殺せ、と。ライを。俺に殺せと、母上が」
けれど、と彼は首を横に振った、まるで駄々をこねる幼い子供のような仕草だった。
「できるわけがない、俺があいつを殺すなんて……たとえ母上の命令でも、それだけは……ああ、だからこそ母上はあいつを消さなきゃならなかったんだ…………命令を聞かない俺に母上は痺れを切らして、それで」
そこから先の言葉はぷつりと途切れた、それでもレイフにはその先何があったのか大体予想がつく。
あの日、廃城から謎の騒音と夥しい魔力の気配、それもあの魔女の魔力に酷似したものが感知されたということでレイフと王宮魔術師の長、そしてその部下はあの廃城に向かった。
数年前に謎の爆発騒動が起こって壊れかけていた廃城にはあちこちに新しい破壊痕ができていた。
そうして悍ましい魔力の元を辿ってレイフ達が目にしたのは、首を斬られた女の死体の前で立ち尽くす彼と、血に濡れた彼の剣、女の首を切断した凶器を手に持つ彼女の姿だった。
レイフはその時あまりの光景に立ち尽くした、後々聞いた話だがどこかでレイフの妹と遭遇したことがあるらしい王宮魔術師の長は絶句していた。
その後、牢の中の彼が彼女の死によって暴走、魔法は使えないが魔力保有量がとてつもない彼がその力を暴走させた結果、壊れかけの廃城は半壊した、全壊しなかったのは奇跡だろう。
その最中に起こった事故でレイフの妹の行方はわからなくなり、現在も捜索中だった。
だから、彼の言葉のその先に起こったことの予測はつく。
だからもういいと、レイフは彼の言葉を止めようとした。
しかし、彼はその前に口を開く。
「母上が……母上が、俺の剣を奪って…………それで、あいつの首を」
レイフはその声と彼の顔を聞いて怖気立つのを感じた。
その声はまだ狂気に染まったそれではない。それでもやはり、今の彼もまた狂っているのだとレイフは改めて実感した。
「その後は……あまり、覚えてない……騒ぎを聞きつけたお前らが来て……母上が俺の剣を持って逃げて……なにが、あったんだったか…………気が付いたらここにいた……あの後、自分の気がおかしくなってるのだけは、なんとなく……今みたいに正気でいられる時間も、あんまりない、んだよな……?」
その問いかけに、レイフは無言で首を縦に振る。
今の彼も十分おかしいのだ、けれども本当に正気を喪った状態の彼の様子は、今の比ではない。
「今の自分がおかしいのも狂ってるのもわかってる……だから俺はこんなところに閉じ込められているんだろう……そうじゃなきゃ、無関係な奴に危害を加えかねない、そう判断されたのは十分理解してる……だが、それでも……なあレイフ、頼むよ……俺を、ここから出してくれないか」
その言葉に、レイフはとっさに答えを返すことができなかった。
どう答えるべきかなんてわかりきっている、それでもその哀願の言葉にレイフは言葉を詰まらせてしまったのだ。
「母上を、あの女をどうにかしないと……あの女は放っておけば絶対に国を乱す……俺という駒が使い物にならなくなっても、あの女は野望のためにだったらなんでもするだろう……その前に止めないと…………それに、あの女はあいつを殺した。なんの罪のない、俺の一番大事なものを……その報復を、しないと気が済まない」
許すものか、と彼は呟いた、心の底からの怨嗟がその声にはこびりついていた。
牢の中の彼は再びここから出してくれと懇願した。
しかし、レイフにできたのは、首を横に振ることだけだった。
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