第5話 間合いの測り方
目を開けると、天井はいつもの高さにあった。白い蛍光灯が均一に光り、換気扇が低い音を立てて回っている。慶次はマットの上に仰向けになり、しばらく動かなかった。汗の匂いと、ゴムの床の感触。どれも知っているものだった。
ジムはまだ開いたばかりで、人は少ない。サンドバッグが一つ、ゆっくり揺れている。誰も触っていないのに、そうなっていた。慶次は起き上がり、グローブを手に取る。指を入れ、紐を締める。その動作は、昨日までと同じだった。
鏡に映る自分の顔は、特に変わっていない。表情も、立ち方も。
拳を見ると、皮膚は元に戻っている。裂けた跡はない。ただ、握ったときの感触が少し違った。力を入れなくても、形が決まる。
慶次はランニングマシンに乗り、一定の速度で走り始める。呼吸を整え、視線を前に置く。外の景色が流れていく。ビル、信号、歩道橋。すべてが連続している。
走りながら、ふと間合いを測る癖が出た。誰もいない空間に対して。拳は出さない。ただ、距離だけが頭に浮かぶ。剣も炎もない場所なのに、その感覚は消えなかった。
練習が終わり、サンドバッグの前に立つ。軽く一発打つ。音はいつもより遅れて返ってきた。バッグの揺れも、わずかにずれる。慶次はそれを修正しようとはしなかった。もう一度、同じ距離から打つ。
コーチが遠くで何か言っていたが、内容は耳に入らなかった。問題はなさそうだった。日常は続いている。
シャワーを浴び、着替えを終える。ジムを出ると、夕方の風が吹いていた。慶次は歩き出す。歩幅は一定だが、足を出すリズムに、ほんの少し弾みがあった。
世界は元に戻っている。ただ、拳と拳のあいだだけが、まだ静かにずれていた。
川岡慶次の異世界江戸前ボクシング zakuro @zakuro_1230
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