第2話 ランニング 拳を握りしめ開く

朝は静かに始まった。太陽は低く、道の端に影を長く落としている。慶次は町外れの土道を走っていた。一定の速度で、呼吸を崩さず、足音を揃える。誰に言われたわけでもない。ただ、体がそうすることを覚えていた。


通り過ぎる人間は、奇妙なものを見る目で彼を見た。刀を研ぐ者、拳当てを直す者、屋台を広げる者。その誰もが立ち止まって作業をする。毎日同じ距離を、同じ速さで走る人間は、この町にはいないらしかった。


慶次は気にしなかった。石の硬さ、風の向き、足裏の感触。それらを順番に拾い上げていく。昨日と同じで、少しだけ違う。その差を埋めるように、呼吸を合わせる。


「朝から奇特なことよ」


声は背後から来た。振り向くと、水無月アヤメを目に留めた。


彼女は羽織の裾を押さえ、道の端に立っている。


「毎日、かえ」


慶次は一度だけ頷いた。走るのをやめず、歩調を落とす。


「修行でもなさそうじゃ」


慶次は返事をしなかった。返事の代わりに、一定のリズムを保ったまま、町の外周を回った。戻ると、アヤメはまだそこにいた。


「そのような反復は、この地では嫌われておるよ。気をつけなはれ」


理由は語られなかった。ただ事実を伝えるように、忠告は彼女の口からこぼれた。


町に戻ると、空気が少し重かった。屋台の声が低く、通りを急ぐ足が増えている。慶次は水を飲み、手の甲で口を拭いた。


「少し話を」

アヤメは前に出て、町人たちから話を聞いている


慶次は黙って見つめていた。

数センチだけ足が前に出ていたことに気付くと、そのズレた長さの分だけ、足を後ろへ戻した


(…俺は余所者だからな)


思いはあっても、慶次の口は動かない。

ただ、見つめて、離れることはなかった。


しばらくして、アヤメは慶次の元へ戻ってきた。


柔らかい口元は、硬く結ばれていた


「子が攫われた」


アヤメの声は平坦だった。大きな事件の告げ口には聞こえない。


「拳闘盗賊、バラガン・グロンギ」


その名前だけが、少し重さを持って響いた。


慶次は地面を見た。足跡が乱れている。小さな足と、大きな足が混じっていた。


彼は拳を開き、閉じた。

ただ確認するようにした動作だった。

それでも、前腕の筋肉は強くこわばり、握りしめる強さは消せなかった


「行くのかえ」


アヤメが言った。止める口調ではなかった。


慶次は歩き出した。走らなかった。いつもの速度で、外へ向かう。


アヤメは自然に隣に並んだ。二人の間に会話はなかった。


町の外は静かだった。草が揺れ、遠くで金属の音がした。日常は続いている。ただ、どこかで一拍、間が抜けている。


慶次はそのズレを、足音で測っていた。

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