第3章 朝

「ガハッ……! う、あ……ッ」


 最初に世界を認識したのは、肺を焼くような熱さだった。  呼吸をするたびに、ザラザラとした粉塵が気管を擦る。  まぶたを開ける。そこは、光のない灰色の世界だった。


 重い。  体が動かない。  腰から下が、巨大なコンクリートの塊に挟まれている。  どこか遠くで、サイレンのような音が途切れ途切れに聞こえるが、すぐに途絶えた。静寂。耳が痛くなるほどの、死の静寂。


 ここは何処だ?  そうだ、僕は駅前のカフェにいたはずだ。仕事の休憩中、コーヒーを飲んで……。  その直後の記憶がない。  閃光。衝撃。それだけだ。  テロか、ミサイルか、ガス爆発か。  考えようとしたが、頭痛が思考を寸断する。  理由なんてどうでもいい。結果だけがここにある。  店は潰れ、僕は生き埋めになった。ただそれだけのことだ。


 視線を横に向ける。  すぐ鼻の先に、女性の顔があった。  半分が瓦礫に埋もれ、赤黒い血にまみれているが、見覚えがある。   「……あ」


 妻だ。  数十年を共に過ごした、愛しい妻だ。  僕はとっさに手を伸ばそうとした。 「おい、大丈夫か。しっかりしろ」  声が出ない。喉が渇ききっている。


 ――いや、違う。


 瞬きをするたびに、脳内の霧が晴れていく。  彼女の目尻には、妻のような笑い皺がない。髪型も違う。着ている服も、妻が好むような花柄のブラウスではなく、地味なビジネススーツだ。  彼女は妻じゃない。  カフェで僕の隣の席に座っていた、見知らぬ他人だ。  僕は彼女の名前も知らない。声も聞いたことがない。  ただ、崩壊の瞬間に視界に入った彼女の顔を、僕の脳みそが勝手に素材として拝借し、「最愛のパートナー」という配役を与えていただけだったのだ。


 吐き気がした。  なんて冒涜的な脳みそだ。  僕は、見ず知らずの他人の死体と、脳内で一生分の恋をして、家庭を築いて、幸福な老後まで送っていたのか。  周囲に散らばる瓦礫の隙間から、誰かの腕や、靴が見える。  あれらもすべて、僕の夢の中の友人たちだった肉塊だ。


 時間は、経っていない。  自分の手を見る。老人の手ではない。シワもシミもない、現役の労働者の手だ。  夢の中では数十年が過ぎ去ったが、現実ではおそらく、崩落から数十分、いや数分しか経っていないのかもしれない。  その数分の間に、僕は一生を終えてしまった。


 孤独だ。  どうしようもなく、僕は一人だ。  愛する家族も、頼れる友人も、美しい思い出も、すべては脳細胞が見せた電気信号の幻だった。  ここにあるのは、瓦礫と、死体と、ひどい激痛だけ。


「……ハ、ハハ」


 乾いた笑いが漏れた。  口の中に残る、鉄と泥の味。  これが現実の味だ。  なんて不味い世界なんだろう。


これからどうしよう………?

起きる?

眠る?

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