第2章 果実

 甘い果汁が口いっぱいに広がる。  ……はずだった。


 最初に感じたのは、生温かさだった。  次に、鼻に抜ける強烈な錆びの臭い。  そして舌を刺す、えぐみと塩気。


「……え?」


 脳が混乱する。これはリンゴだ。僕の完璧な人生に用意された、完璧なデザートのはずだ。なのに、どうしてこんな味がする?  それはまるで、古びた鉄柵を舐めたような、あるいは口の中を切って血が溢れ出した時のような、おぞましい味だった。  不快感は食道を逆流し、僕はたまらずそれを地面に吐き出した。


 ボトッ、という湿った音。  緑色の芝生の上に広がったのは、咀嚼された果肉ではなかった。  黒赤く粘り気のある、大量の液体。  血だ。  それも、少し混じった程度ではない。僕の口の中は今、ドロドロの血と、砂のようなジャリジャリとした異物で満たされていた。


「ゲホッ、オェッ……な、なんだこれ……!」


 激しい咳と共に、喉の奥からヒューヒューという異音が鳴る。  痛い。  喉が焼けるように熱い。舌が引き裂かれるように痛い。  僕の人生には存在しなかったはずの「苦痛」という感覚が、暴力的な濁流となって全身を駆け巡った。


「あらあら」


 頭上から、穏やかな声が降ってきた。妻だ。  彼女は僕の背中を優しくさする。その手つきは、子供をあやす母親のように慈愛に満ちていた。


「腐っていたのね。ペッしなさい。全部吐き出して、忘れちゃいましょう」 「腐ってる……? いや、違う、これは……血だ! 口の中が……!」 「いいえ、それはリンゴよ。ただの不味いリンゴ」


 彼女は微笑んでいた。  僕が血を吐き、苦しんでいるというのに、彼女の口角は不自然なほど綺麗に吊り上がったままだ。その瞳には、心配も恐怖も映っていない。ただ、ガラス玉のような無機質な優しさだけが張り付いている。  ゾクリ、と背筋が凍った。  怖い。  妻が怖い。  いや、そもそも彼女は、こんな顔をしていただろうか?  僕の記憶の中の彼女はもっと……もっと、人間臭い表情をしていたはずだ。こんな、精巧に作られた蝋人形のような顔ではなく。


「ねえ、あっちを見て」


 彼女が僕の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。  指の力が異常に強い。万力で締め上げられているようだ。  彼女が指差したのは、夕焼け空だった。    バヂッ、と音がした。  空が、瞬いた。  接触不良の蛍光灯のように、鮮やかな茜色が明滅し、一瞬だけ「別の色」が透けて見えた。  灰色。煤けた、絶望的な灰色。   「空が……壊れてる?」 「綺麗でしょう? 花火よ」


 ドォォォォン……!  地響きのような音が鼓膜を震わせる。耳鳴りだと思っていた音は、明確な爆音となって近づいてきていた。  地面が揺れる。  だが、公園にいる友人たちは誰も動かない。  ベンチに座ったまま、芝生に寝転がったまま。  彼らは笑みを浮かべて目を閉じている。  ……本当に、寝ているのか?  あそこで横たわっている学生時代の友人は、さっきから一度でも胸を上下させただろうか。  あそこで座っている同僚の首は、あんな方向に曲がっていただろうか。


 認識のピントが、急激に合っていく。  あれは眠っているんじゃない。  あれは――死体だ。  物言わぬ肉塊だ。  僕は今まで、死体の山に囲まれて「幸せだ」と笑っていたのか?


「見ちゃだめ」


 妻の手が、僕の目を覆った。視界が闇に閉ざされる。  その掌からは、懐かしい石鹸の香りがした。


「考えないで。何も疑わないで。そうすれば、あなたは幸せなまま眠れるの。もうすぐ終わるのよ。あと少しで、この長い夢のエンドロールが流れるわ」 「……夢?」 「そう。ここはあなたのための楽園。痛みも、苦しみも、孤独もない場所。だからお願い、その不味い味を忘れて。私の作ったアップルパイの味を思い出して」


 彼女の声は必死だった。  それは僕を騙そうとする悪魔の囁きではなく、末期の患者にモルヒネを投与する看護師のような、悲痛な祈りに聞こえた。  彼女に従えば、きっと楽になれる。  この口の中の鉄の味を忘れて、脳内で再生される甘いパイの味に酔いしれれば、僕は安らかに死ねる。


 でも。  ズキリと、舌が痛んだ。  その痛みだけが、この曖昧な世界で唯一、確かな「現実(リアル)」だった。


「……いやだ」


 僕は妻の手を振り払った。  目を開ける。  世界はノイズにまみれていた。  美しい公園の木々は黒いシルエットのように歪み、空はひび割れ、ガラスの破片のように剥がれ落ちていく。  目の前にいる妻の顔も、半分がノイズで乱れていた。彼女の美しい瞳の奥に、本来そこにあるはずのない瓦礫の山が見える。


「これは、僕の人生じゃない」


 僕は口の中に溜まった血と唾液を、もう一度吐き出した。  喉がヒリつく。呼吸をするたびに、肺が焦げ臭い空気で満たされていく感覚がある。


「不味いんだよ、このリンゴは……!」 「やめて、それ以上気づかないで! 外には何もないのよ! ただ痛いだけで、誰もいないのよ!」


 妻が叫ぶ。その姿が蜃気楼のように揺らぐ。  彼女の輪郭が崩れ、瓦礫の一部と同化し始めていた。   「それでもいい」


 僕は立ち上がろうとした。  重い。体は鉛のように重い。  けれど、夢の中の「ふわふわとした軽さ」ではない、重力という確かな抵抗がそこにあった。


「ごめんな。君が誰なのか、僕は知らないけれど」


 僕は崩れゆく彼女に向かって、精一杯の感謝と、別れを告げた。


「君との日々は、最高に退屈で、幸せだったよ」


 世界が、砕け散る音がした。  天井が落ちてくる。  極彩色の楽園が剥がれ落ち、その下から、冷酷で無慈悲な灰色の現実が牙を剥く。    まぶたの裏で、妻が最後に悲しげに微笑んだ気がした。  そして僕は、本当の目を開ける。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る