おはようカタストロフィ
喜屋武七
第1章 摩擦のない世界
僕には、嫌いなものが一つもない。 嫌いな食べ物も、嫌いな季節も、嫌いな人間も、ただの一度として僕の人生には現れなかった。 こう言うと、大抵の人は「そんな馬鹿な」と笑うか、「おめでたい奴だ」と呆れるかもしれない。けれど、事実なのだから仕方がない。僕の世界は、いつだって完璧な調和をもって僕を受け入れてくれた。
記憶の最も古い層にあるのは、あたたかな陽だまりの匂いだ。 母の作る料理はいつだって僕の想像した通りの「美味しい」味がしたし、父はいつだって僕が望むタイミングでキャッチボールの相手をしてくれた。 学校に通うようになっても、それは変わらなかった。教室の窓から見える空は、いつだって絵画のように鮮やかな青色だった。 友人たちは皆、僕に好意を寄せてくれた。誰かが誰かを罵倒する声や、陰湿な暴力など、僕は見たことがない。僕が教科書を忘れれば、隣の席の彼が笑顔で見せてくれたし、僕が走るのが遅ければ、皆がそれに合わせて走ってくれた。 まるで、僕が歩くその一歩手前で、世界中の誰かが小石を取り除き、絨毯を敷いてくれているような、そんな感覚。 だから僕は、挫折という言葉の意味を辞書でしか知らない。
「今日は最高の天気だね」 「ええ、本当に。まるで私たちのためだけにあるみたい」
気づけば、僕は大人になっていた。 就職活動で苦労した記憶はない。気がつけば今の会社にいて、そこで彼女に出会った。 彼女は美しかった。どう美しいかと問われれば、僕が「美しい」と感じる要素をすべて集めて人の形にしたようだと答えるしかない。彼女の顔立ち、声のトーン、髪の匂い。そのすべてが、僕の脳の快楽物質が出るスイッチを的確に押してくる。 告白の言葉も、プロポーズの言葉も、まるで台本があったかのように滑らかに口から出た。彼女は一度も拒絶しなかったし、一度も顔をしかめなかった。 僕たちは結婚し、小さな庭付きの家を買った。
ある日の夕暮れ、僕は庭で彼女と紅茶を飲んでいた。 空が、異様なほど赤かった。 普通の夕焼けではない。まるで空一面にペンキをぶちまけたような、あるいは血管が破裂して視界が赤く染まったような、濃密で毒々しい赤色。 遠くで、キーンという高い音が鳴っている気がした。耳鳴りだろうか。それとも、遠くで盛大な花火でも上がっているのだろうか。 「見て、あなた。すごく綺麗な夕焼け」 彼女がうっとりと空を見上げて言った。 僕も空を見上げる。そうだ、これは綺麗な夕焼けだ。僕の愛する彼女がそう言うのだから、これは美しいものに決まっている。 「ああ、本当に。燃えるように綺麗だ」 遠くの轟音は、祝福のファンファーレのように聞こえた。
月日は、流れる水のように過ぎ去った。 本当に、あっという間だった。 子供が生まれたような気もするし、彼らが巣立っていった気もする。仕事で大きなプロジェクトを成功させた気もするし、定年退職の花束を受け取った気もする。 それらの記憶は、美しい写真のスライドショーのように僕の頭の中に整然と並べられているが、不思議と「質感」のようなものが希薄だった。 苦労した夜の冷たいコーヒーの味や、子供の夜泣きに途方に暮れた疲労感、妻と些細なことで言い争った時の胸の痛み。そういった「引っかかり」が、僕の人生には一切ない。 全てがスムーズで、全てが幸福。 まるで、上質な映画のハイライトシーンだけを繋ぎ合わせたような人生。
そして今、僕は老いた体で、いつもの公園のベンチに座っている。 隣には、同じように歳を重ねた妻がいる。皺の一本一本まで愛おしい、僕の最愛の人。 彼女は穏やかに目を閉じている。その顔を見ていると、なぜだか胸が締め付けられるような安らぎを覚えた。 公園には、僕の人生に関わった多くの友人たちも集まっていた。 学生時代の親友、会社の同僚、近所の人々。彼らは皆、芝生の上に寝転がったり、ベンチに腰掛けたりして、一様に穏やかな顔で目を閉じている。 とても静かな午後だった。 風が止まっているかのように、世界は凪いでいる。
「幸せな人生だったな」 僕は独り言のように呟いた。 身体は鉛のように重いが、不思議と痛みはない。節々の痛みも、病の苦しみもない。ただ、深く心地よい眠気が、足元から這い上がってきている感覚だけがある。 ああ、きっとこのまま、僕は眠るように死んでいくのだろう。 何の未練もなく、何の後悔もなく。 僕が作り上げた、この完璧な世界に包まれて。
「ねえ、あなた」 隣で、妻が目を開けずに言った。 「お腹、空かない?」 「ああ、そういえば」 そう言われてみれば、少し小腹が空いた気がする。 ベンチの足元に、バスケットが置いてあった。いつ用意したのか思い出せないが、中にはパンや果物が入っているのだろう。 「何か食べようか」 僕は震える手を伸ばし、バスケットの蓋を開けた。 中には、真っ赤なリンゴが一つ、入っていた。 宝石のように艶やかで、傷一つない完璧な球体。 それは、僕の完璧な人生を象徴するような果実だった。
僕はそれを手に取る。ずしりと重い。 妻が、友人が、世界のすべてが、微笑みを浮かべて僕を見守っている気がした。 これを食べれば、僕のお腹は満たされ、そして幸せな微睡みの中へ落ちていける。 何の疑いもなく、僕はそのリンゴを口元へと運んだ。
大きく口を開け、かぶりつく。 皮が破れる音がした。
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