第2話 街へ
門の前で荷馬車を止めると、衛兵が2人近づいてきた。どちらも若く、鎧は手入れされているが新品ではない。槍の穂先に欠けはなく、姿勢も悪くないが、いかにも「暇な勤務中」といった空気を隠そうともしていない。
この街は、平和だ。
少なくとも、今は。
「用件は?」
片方がそう聞いてきたので、俺は手綱を軽く引いたまま、荷台の方を顎で示した。
「商売だ」
「……奴隷か」
「そう。4人。書類は全部揃ってる」
奴隷商人といえば、普通は店を構えている。
市場に居座り、登録された商品を並べ、買い手を待つ。
それが一番、安全で、手間も少ない。
だが、全ての奴隷商人がそういう形を取るわけではない。
中には、ジェイドのように店を持たず、荷馬車一台で移動する者もいる。
奴隷を運んでいるだけなのか、売り先がすでに決まっているのか、外からは分からない。
書類さえ揃っていれば、それ以上を詮索されることも少ない。
兵にとって重要なのは、違法かどうかだけだ。
誰に売るつもりなのか、どこへ向かうのか、そこまで気にする理由はない。
だから門の前で止められても、書類が正しければそれで終わる。
旅商人の一種として扱われるだけで、特別視されることはほとんどなかった。
懐からまとめた書類を取り出すと、衛兵は受け取って一枚ずつ目を通し始めた。表情は変わらない。だが、目線の動きで分かる。違法な匂いがしないかを確認しているだけだ。
違法な商人は、この段階で大体詰む。書類が足りない、印が古い、所属が曖昧。そういうのは全部ここで引っかかる。そして話が長くなる。長くなると、金が減る。
「問題ないな」
短くそう言って、書類が返ってくる。
「滞在は?」
「一泊か二泊。取引が終わるまで」
「騒ぎを起こすなよ」
「起こしたら俺の胃が死ぬ」
衛兵は一瞬だけ口の端を動かした。笑ったわけじゃないが、理解はしたらしい。
ふと、もう1人の衛兵がリーナの方を見る。値踏みでも好奇心でもない。ただの確認だ。目立つか、問題を起こしそうか。それだけを見ている。
リーナは何も言わず、視線も上げない。だが、背筋は伸びている。怯えて固まっているわけではない。こういう態度は、余計な興味を引かない。
「通っていい」
門が軋む音を立てて開く。これで街の中だ。
荷馬車を進めると、門の外とは空気が変わった。人の声が増え、足音が増え、匂いも濃くなる。焼いたパンの匂い、家畜の臭い、土と汗の混じった匂い。貧しいが、死んではいない街の匂いだ。
通りは広くない。だが狭すぎもしない。露店が並び、道の端には荷を下ろしたままの木箱が積まれている。邪魔だが、誰も気にしていない。この街では、これが日常だ。
「街に入ったら、勝手に動くな」
後ろに向かってそう言うと、返事は揃って返ってきた。男2人は短く、子供は寝たまま、リーナは一拍置いてから。
「……分かっています」
余計な質問はない。助かる。
この街でまず必要なのは、奴隷を泊められる宿だ。普通の宿に全員を連れていくと、話が面倒になる。こういう街には、そういう需要向けの宿が必ずある。看板は小さく、目立たず、だが場所は分かりやすい。
通りを一つ外れ、少し歩いたところで、それらしい建物が見えた。飾り気のない看板。広めの入口。厩が併設されている。
「ここだな」
中に入ると、床板が軋んだ。古いが、腐ってはいない。掃除もされている。壁の染みは消えないが、増えてはいない。手入れはされているが、金はかけられていないタイプの宿だ。
店主は年配の男だった。背は低く、体格は普通。こちらを見る目に驚きはない。慣れている。
「部屋を借りたい」
「何人だ」
「俺1人と、商品が4人」
店主は帳簿のようなものを確認し、こちらに視線を向ける。
「……何泊だ」
「1泊。長くて1泊」
店主は一度だけリーナを見る。値踏みではない。問題を起こしそうかどうかを見ている。夜中に騒ぐか、逃げ出すか、泣き叫ぶか。その程度だ。
「奥の部屋なら空いてる」
「条件は」
「前払い。騒ぐな。逃がすな」
「全部守る。逃げたら俺の損だ」
中には運んでいる最中に逃す馬鹿もいるらしいが、それは商品の扱いが酷いだけだ。俺はそんなことはないし、させない。
即答すると、店主は鼻で息を吐いた。
「銅貨10枚」
一般的な宿屋が銀貨銅貨20枚からということを考えれば、この宿がどのような立ち位置なのかがよく分かる。
「安いな」
「この街じゃ高い」
「違いない」
銅貨を置くと、店主は無言で鍵を差し出してきた。説明はない。こういう宿では、それで十分だ。
奥の部屋は簡素だが、清潔だった。藁は新しいし、水も用意されている。窓は小さいが、外から手を伸ばせる位置ではない。逃げにくく、閉じ込めすぎでもない。ちょうどいい。
鎖は使わない。逃げる理由がない以上、繋ぐ意味は薄い。
「ここで待ってろ」
そう言うと、全員が素直に従った。男2人は壁際に腰を下ろし、子供は毛布に包まれてすぐに眠りに戻る。
リーナは入口から少し離れた場所に座り、膝の上で手を組んだ。
静かだ。
問題は何も起きていない。
今のところは。
俺は部屋を出て、扉を閉めた。鍵をかけ、深く息を吐く。
さて。
ここからが本番だ。
街を歩き、空気を読む。
相場を見る。
誰が話を聞き、誰が無視するかを見極める。
そして――売り先を見つける。
◇
宿を出ると、街の空気が一気に近づいてきた。門の外よりも人の気配が濃く、声も多い。大声で笑う者もいれば、値段を巡って言い合う声もある。怒鳴り声はあっても、殺気はない。生活の中で自然に生まれる騒がしさだ。
通りを歩きながら、足元を確認する。石畳は途中までで、先は踏み固められた土の道に変わる。水はけは悪くない。雨が降っても、膝まで沈むことはなさそうだ。商人目線で見れば、悪くない街だ。
「案内できるか」
そう声をかけると、リーナは少しだけ間を置いてから頷いた。
「……はい」
自信があるというより、覚えている、という反応だ。考え込むより先に足が動いている。記憶よりも、体に染み付いた動きに近い。
最初に見えてきたのは市場だった。露店は多くないが、必要なものは一通り揃っている。野菜は季節物が中心で、量は少なめ。肉は干したものが多く、生のものは奥の方にまとめられている。金は回っていないが、物は止まっていない。
「この時間は、いつもこんな感じです」
「朝は?」
「もう少し人が多いです」
「昼は?」
「……静かになります」
働ける人間は朝に動き、昼には引っ込む。夜はまた別の顔になる。よくある街のリズムだ。
通りを進むと、露店の呼び声が少しだけ落ち着く。代わりに、金属音や木を叩く音が聞こえてくる。鍛冶屋や木工職人の工房が並ぶ一角だ。派手さはないが、道具の手入れは行き届いている。
「この辺りは職人が多い」
「はい。父も……この近くで働いていました」
そこで初めて、リーナの口から家族の話が出た。自分から切り出したわけではない。通りの景色に引き出された言葉だ。
「腕は?」
「……悪くなかったと思います」
「控えめだな」
「自慢するほどでは、ないので」
盛らないし、下げすぎもしない。話し方は一貫している。この街の空気に合った感覚だ。
職人街を抜けると、建物の背が少し低くなった。石造りの家が減り、木と土壁の家が増える。古いが、放置されているわけではない。屋根の修繕跡や、壁の塗り直しがあちこちに見える。
「この辺りです」
リーナの足取りが、ほんのわずかに遅くなる。止まるほどではないが、歩幅が小さくなる。意識していない反応だ。
「無理しなくていい」
「……大丈夫です」
曲がり角を一つ、二つ。通りは細くなり、人通りも減る。だが完全に外れではない。生活の匂いはまだ残っている。
そして、リーナが立ち止まった。
視線の先にあるのは、小さな家だった。派手さはなく、塀も低い。庭と呼ぶには狭い空き地があり、雑草は伸びているが荒れ放題というほどでもない。
扉は閉まっている。窓は割れていない。屋根も落ちていない。
「……あそこです」
声は低いが、はっきりしている。迷いはない。
「住んでた?」
「はい」
短いやり取りだが、それで十分だった。
家は、残っている。追い出された形跡もなく、壊された様子もない。誰かが手を入れているかどうかは分からないが、少なくとも放置はされていない。
「人は……」
「分かりません」
中に誰がいるかまでは分からない。洗濯物も出ていないが、完全に無人とも言い切れない。判断材料は足りない。
「悪くないな」
「……悪く、ないですか」
「屋根がある。壁が立ってる。それだけで上等だ」
俺の基準は低い。商人としての基準だが。
家の前に立つと、通りの音が少し遠くなったように感じる。時間が止まったわけじゃない。ただ、この場所だけ空気が違う。
「家族は?」
「……父と、母と」
「今は?」
「分かりません」
それ以上は聞かない。今は確認の段階だ。感情を掘る必要はない。
「今日は戻らない」
「……はい」
「……分かっています」
理解している、という返事は重い。だが拒否はない。現実を分かっている人間の返事だ。
少し距離を取って、もう一度家を見る。壊れていない。追い出された形跡もない。最悪の想像は、今のところ必要なさそうだ。
「目印は覚えた」
「……はい」
「じゃあ戻るか」
踵を返すと、リーナもついてくる。振り返らない。見すぎると、余計なことを考える。
帰り道、街の音がまた近づいてくる。市場の喧騒、子供の笑い声、どこかで怒鳴る声。いつもの街の顔だ。
「なあ」
「はい」
「ここは、売れる」
「……そうですか」
「ああ。条件は悪くない」
慰めではない。評価だ。
宿が見えてきた。扉の前で一度立ち止まり、周囲を確認する。問題はない。
部屋に戻ると、他の三人は静かに過ごしていた。男二人は短く会話を交わしていて、子供は相変わらず眠っている。何も起きていない。理想的だ。
帳面を取り出し、簡単に書き込む。街の様子、家の場所、反応。
さて。
次は話をつける番だ。
ここまで来たなら、取引は成立させる。
それが、商人の仕事だからな。
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