エピローグ ひらがなの悲鳴

 どれくらい時間が経っただろうか。ギデオン先生は、ふらりと立ち上がった。その目は、もう何も映していないかのように虚ろだった。彼は無言で、出口へと向かう。


「先生……どこへ?」


 僕が尋ねると、彼は力なく笑った。


「行かなくては。……解釈を、間違えてしまったからね」


「待ってください! 外はまだ高濃度の放射能が……!」


 先生は足を止めず、防護服も着ないまま、エアロックの扉を開けた。プシューという音と共に、熱気が流れ込んでくる。その向こうには、信者たちが折り重なって死んでいる炉心エリアがある。


「私も……痛いのは嫌いだが……謝っても、許されないな」


 僕は、その背中を追いかけようとした。 でも、足が動かなかった。恐怖で竦んだのではない。僕には、彼を止める権利なんてないと気づいてしまったからだ。


 先生は命を捨てて、彼女マザーと同じ苦しみを味わいに行こうとしている。それは彼なりの、最低で、最後の誠意だ。それに引き換え、僕はどうだ?死ぬ勇気もない。痛みを受ける覚悟もない。ただ、安全な管制室で、ガタガタと震えながら生き永らえようとしている。


 扉が閉まる。先生の姿が、白い蒸気の向こうへと消えていった。


 たった一人、残された管制室。主を失ったモニターが、最期の光を放つ。画面の中の少女――マザーだった人は、もう動かない。事切れている。それでも、死後硬直のせいか、あるいは最後の神経パルスの放電か。一通だけ、新しいメッセージが届いた。


 たった一文字。


『あ』


 それは、「ありがとう」だったのか。「愛している」だったのか。それとも、ただの苦痛の「あ」だったのか。もう、翻訳してくれる人はいない。


 僕はその一文字を見つめ、反射的にキーボードに手を伸ばしかけて――気づき、吐き気を催して引っ込めた。もう二度と、この指で彼女の言葉を触ってはいけない気がしたから。


 僕は一生、この一文字を背負って生きていくのだ。耳を塞いでも聞こえてくる、声にならない悲鳴を聞きながら。この閉ざされた地下都市で、誰よりも長く、無様に。


 空調の音だけが、すべてを許すように、あるいは拒絶するように、低く響き続けていた。

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神様はひらがなで喋る 曽野 真栄 @sono_masaka

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