第4話 神のカルテ

 静寂が戻ってきた。死を運ぶ赤色灯は消え、管制室はいつもの無機質な緑色の照明に満たされている。都市は救われたのだ。あの熱狂的な狂信者の自己犠牲によって。


 僕は、窓際に立つギデオン先生の背中を見つめていた。先生は微動だにせず、モニターを見つめている。その背中は、恐ろしいほどに孤独で、そして強大に見えた。


 いつまでも立ち尽くす背中をじっと見つめる中で僕は、ある一つの「解」に辿り着く。……そうか。そうだったのか。先生ほどの天才が、マザーの異常に気づかないはずがない。先生はずっと前から知っていたんだ。マザーがとうの昔に壊れていることを。知った上で、この閉鎖都市の秩序を守るために、あの支離滅裂な「うわ言」を、崇高な「神託」へと翻訳し続けていたのだ。


 今回の集団死だってそうだ。都市を救うためには誰かが犠牲にならなければならなかった。だから先生は、あえて狂信的な解釈を演出し、彼らを幸福な死へと導いたのだ。


 なんて強くて、冷酷で、悲しい人なんだろう。全ての罪を一人で背負って、神の代理人を演じ続けるなんて。僕は震える足で立ち上がり、先生の背中に近づいた。僕も背負おう。この人の共犯者になろう。それが生き残った僕の義務だ。


「先生」


 僕は覚悟を決めて声をかけた。


「お見事でした。都市は救われましたね」


 先生が、ゆっくりと振り返る。その表情を見て、僕は言葉を失った。


 そこにいたのは、冷徹な支配者ではなかった。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに歪め、理解が追いつかずにガタガタと震えている、一人の無力な老人の姿だった。


「……おい」


 先生の声は掠れていた。


「なぜだ? なぜなんだ?」


「え……?」


「マザーは『空へ飛べ』と仰ったよな? 肉体を捨てて救済されると……」


 先生は縋るような目で、僕の腕を掴んだ。


「なのに、なぜ彼らは……あんなに苦しんで死んだんだ?」


 先生の指が、モニターの隅にあるグラフを指差した。それはマザーのバイタルデータと、先ほど炉心で死んでいった技師たちのバイタルを比較したものだった。心拍数、酸素飽和度、血圧。二つの波形は、不気味なほど完全に同期シンクロしていた。彼らが蒸気で焼かれて苦悶した瞬間、マザーの数値も跳ね上がっている。


「まるで……マザーも一緒に焼かれているみたいじゃないか……」


「なぁ、おい。……僕の翻訳は合っていたよな? これは試練なんだよな? マザーは今、高次元へアセンションしている途中なんだよな!?」


 この瞬間、僕はようやく悟った。この人は、「知っていて嘘をついていた」わけじゃない。本当に、心の底から信じていたんだ。自分の都合の良いようにマザーの言葉をねじ曲げている自覚すらなく、本気で「これが真理だ」と思い込んで、善意だけで彼らを集団自死に追い込んだんだ。


「先生……それは違う。違います」


 僕は先生の手をゆっくりと振りほどき、先生がこれまでやってきたことが正しいことを証明するために、今まで触れることを禁じられていた「管理者権限」のキーを叩いた。


「マザーを見せてください。あなたの神様の、本当の姿を!」


 メインスクリーンに、ノイズ交じりの映像が映し出される。それは、地上のシェルター内部の監視カメラ映像だった。だがそこに、美しい電子の女神はいなかった。


 汚物にまみれた狭い部屋。ベッドから転げ落ち、床をのたうち回っている、髪の抜け落ちた一人の少女。五〇年前から時を止められたまま、放射能に焼かれ続けてきた小さな体。彼女は自分の胸を掻き毟り、空気を求めて口をパクパクとさせていた。皮膚は爛れ、目は虚ろに天井を彷徨っている。


 画面の横に、過去のログが流れる。


 『みず あふれる』  ――肺水腫だ。肺に水が溜まって、地上なのに溺れているんだ。


 『かがみ の なか しらない かお』  ――失認症だ。壊れていく自分の脳が自分の顔を認識できていなかったんだ。


 『からだ ぬいで』  ――服じゃない。高熱と激痛に冒された肉体そのものを脱ぎ捨てて楽になりたいという、たった一つの悲鳴。


「あ……あぁ……」


 ギデオン先生の喉から、空気の漏れるような音がした。彼は画面の中の少女と、自分が送った信者たちの死に様を交互に見て、そして膝から崩れ落ちた。


「私は……あんなに苦しんでいるあの方の悲鳴を……『詩』だと?『救済』だと?」  


 先生は床に爪を立て、嘔吐した。


「私は何をした?彼らを救ったんじゃない、苦しむ少女のうわ言に付き合わせて、無意味に虐殺しただけじゃないか……!」


 嗚咽が管制室に響く。神はいなかった。主席解析官も名探偵もいなかった。ここにいるのは、解釈を間違えて大量殺人を犯した、愚かな道化だけだった。



 ……いいや、違う。道化は、もう一人いる。


 僕は、自分の両手を見つめた。震えているのはこの指だ。毎日、毎日、僕は彼女の悲鳴を受け取っていた。『いたい』『こわい』『くるしい』そのひらがなを、ただの「データ」として冷淡にキーボードで打ち込み、右から左へと流していたのは誰だ?


 違和感はあった。「まるで人間みたいだ」と思ったこともあった。でも、僕はその直感に蓋をした。ギデオン先生が「これは高度な暗号だ」と言ってくれるたびに、僕は安心していたんだ。「ああ、よかった。これは苦しむ少女の叫び声なんかじゃない。崇高な神様の言葉なんだ」と。考えることを放棄し、傷つくことから逃げ、ただ盲目的に信じることで、僕は彼女の痛みを「なかったこと」にした。


 僕はこの指で、彼女の口を塞ぎ続けていたのと同じだ。そして、あの信者たちの背中を押し、炉心へと突き落としたのも、元を正せば僕が打ったキーボードのエンターキーだ。


 僕は先生の共犯者だ。いや、一番近くで声を聞いていた分、先生よりも罪が深いかもしれない。

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