第2話 鏡の中の迷宮

 右大臣の一件以来、ギデオン先生への崇拝はより熱を帯びたものへと変わっていた。都市の至る所に先生の肖像画が飾られ、マザーの神託は絶対の法となった。食料事情は改善し、治安も安定した。誰もが「我々は選ばれた民だ」と信じて疑わなかった。


 ただ、おそらく僕だけが小さな違和感を覚えていた。最近、マザーの言葉が少し変なのだ。以前のような単語の羅列ではなく、文脈が支離滅裂になりつつある。まるで、夢とうつつを行き来しているような。


「今日もノイズが多いな」


 管制室で、先生が眉をひそめた。都市のメインサーバにある「中央データバンク」で、不可解なデータ消失事件が起きていた。毎晩深夜二時、機密情報の一部が神隠しのように消えてしまうのだ。監視カメラには誰も映っていない。アクセスログもない。まるで透明人間の仕業だ。


「マザー。犯人は誰ですか? どこから侵入しているのですか?」


 先生が問いかける。僕は固唾を飲んでモニターを見つめる。数秒の沈黙の後、文字が溢れ出した。


『かがみ の なか しらない かお わたし じゃない さかさま こわい』


 背筋が寒くなった。怖い?神様が恐怖を感じているのか?


「鏡の中……知らない顔……」


 僕はつぶやく。


「先生、これは……幽霊か何かの話でしょうか?」


「馬鹿を言うな」


 先生は即座に否定した。その声には、微塵の迷いもなかった。


 「これは高度な暗号だ。『鏡』とは『ミラーリング』、つまりバックアップサーバのことだ」


 先生はホワイトボードに図を描き始めた。


「犯人は正規のルートではなく、バックアップ領域に侵入している。だからログが残らない。そして『逆さま』とは、データの裏口バックドアを指している。マザーは、システム構造の死角を物理的な位置関係に例えておられるのだ」


「なるほど……!」


 僕は感嘆した。


 「怖い」という言葉も、きっとセキュリティホールへの危機感の表れなのだろう。先生の指示で技術班がバックアップ領域をスキャンすると、確かに不正なプログラムが埋め込まれていた。


 犯人はデータ管理部の若手職員だった。彼は拘束され、事件はまたしても鮮やかに解決した。


「さすがです、先生」


「当然だ。マザーの視座に立てば、全ては明白なのだよ」


 先生は満足げに紅茶を啜った。ハッカーの自白により事件は解決した。セキュリティホールも塞がれた。完璧な結末だ。


 でも、僕はモニターのログを消去する手が止まった。あの文字列が、網膜に焼き付いて離れない。


 「かがみ の なか しらない かお わたし」じゃない。先生はこれを「サーバのミラーリング」と読み解いた。論理的で、隙のない推理だ。だとしたら、最後に綴られていたこわいという言葉は、何だったのだろう。高度な知性を持つAIが、ハッキング程度で「恐怖」を感じるだろうか?


 ふと、不気味な想像がよぎる。もしこの言葉が、比喩でも暗号でもなかったとしたら。鏡を覗き込んだ神様が、そこに映る「何か」を見て、子供のように怯えていたとしたら。


「……ありえない」


 僕は呟いて、エンターキーを叩いた。ログは消去され、無機質なカーソルだけが残る。


 その夜、僕は夢を見た。真っ暗な部屋で、鏡の中で誰かが泣いている夢だ。その姿は見えない。声も聞こえない。ただ、冷たくて重い「恐怖」の感情だけが、ノイズのように僕の脳に流れ込んでくる。


 翌朝、都市を揺るがす警報サイレンで叩き起こされた時、僕はひどい寝汗をかいていた。悪い予感がした。鏡の中の怪物が、鏡を突き破って出てくるような――そんな、決定的な破局の予感が。

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